私は貝になりたい h20.11.30 半田コロナ
朔的には☆は3つ半で、
内容が重くて見た後でどっと疲れがでました。(^_^;)
それはスクリーンに集中しドラマにのめり込んでいたからで、
映画館から帰ってしばらくの間は、
何もする気が沸いてこず虚脱状態でした。
それでも、この映画は見て良かったと思うし、見るべきだと思います。
私にとって邦画の、今年のラストを飾るにふさわしい映画でした(*^_^*)。
昭和19年、高知県の小さな港町で
理容店を営む清水豊松(中居正広)は、
妻房江(仲間由紀恵)と幼い息子の三人で、
貧しいけど、愛に包まれた生活をおくっていました。
今までの苦労が実り、店も軌道にのって
これからという時に、赤紙がきて招集をされます。
足の悪い彼は本土の防衛部隊に配置され、
そこで空爆で打ち落とされた、アメリカ人の捕虜の殺害に関わります。
戦争が終わり、妻子のもとへ生きて帰ってきた豊松は、
ようやく平穏な生活を取り戻したかに見えましたが、
ある日、BC級戦犯(捕虜の殺害)の容疑で、MPに逮捕され、
東京の巣鴨に拘置され、国際軍事裁判を受けることになります。
判決は絞首刑。
妻が必死で集めた嘆願書もむなしく、刑は執行されます。
全体を通して、映画音楽がすばらしく、
「砂の器」のような雰囲気を醸し出していました。
是非この映画は見てほしいので、
筋はあまり書かない方が良いと思います。
それでなくても異常とも言える宣伝で、
映画の情報があふれています。
それはそれとして、あまり想像をせずに
できれば素直な真っ白な気持ちで見てほしいと思います。
そうすれば感動の浪が襲ってくるでしょう。
豊松役の中居正広は、素直で自然な演技が好感を与えてくれました。
決してうまいとは思えないが、豊松の純な心、
なによりも善人であることがよく伝わってきました。
妻の房江(仲間由紀恵)は夫のいない間、
二人の子供を育てながら、理容店を切り盛りしています。
房江は芯の強い人で、日本の肝玉母さんの原点みたいな感じです。
感情を表に出さずに、抑えぎみな演技が、
逆に内面の強さを強調していて、うまいと思いました。
改めて戦争の悲惨さ、むごさ、哀しさを感じると同時に、
戦争を知らずに来れた自分の幸せを強く感じました。
戦争映画のたびに思うのですが、
個人の意志に反した、国や上官の命令でも、
それに従ったことが結果的に犯罪になってしまうことの恐ろしさ……。
絶対服従である軍隊の世界では、
命令に逆らい、自分の意志に従うことは死につながります。
主人公の豊松が裁判で
「日本の二等兵は牛や馬と同じです」と言った言葉が印象的でした。
どんなに自分の意志に沿わない命令であっても、
それが拒否ができないのが日本の軍隊だと……。
それをいぶかるアメリカ軍人の裁判長、
では、アメリカ兵はそれが拒否できるのでしょうか?
軍隊という組織、そして戦争という極限状態を考えると、
それは不可能であると私は思います。
そして、この質問こそアメリカ軍と日本軍の違い、
ひいては民族性や国民性の違いの表れであります。
裁判長から、「実はあなたの中に捕虜を憎み、殺したいという
気持ちがあったのではないか?」そんな質問もありました。
もしその気持ちが少しでもあれば、
有罪とされてもしかたがないと思うけど、
豊松は明らかに違いました。
彼の軍隊での様子がわかれば、それは明解にうち消されたはずですが、
それができない裁判が悲しいです。
矢野中将(石坂浩二)の言葉、
「アメリカはハーグ条約に違反して、日本本土の空襲によって
無差別に民間人を殺した、これも戦争犯罪ではないか?」
これは正論ですが、その言葉がむなしく響くのは、
勝者が敗者を一方的に裁く、国際軍事裁判だからです。
この事件は、自分だけに罪があるとした中将の潔さは立派だと思いますが、
彼の曖昧な命令が、この事件の根底にあるのですから、
その責任は重大です。
そして、その後悔は良心のある人にとっては
耐え難いことであると思います。
戦争状態の中で、どこまでが犯罪であるかを決めるのは、
ものすごくむつかしいことで、捕虜の扱いも同じことです。
自分の国を攻撃し、自国民を殺している敵を人道的に扱うには
よほどの人物である司令官でなければ規律を守れないと思います。
特に敗戦色が濃い状況では……。
理不尽な命令であっても、それを実行するのは兵隊であり、
その兵隊が罪に問われることを考えると、
司令官の責任は大きくて重いものがあります。
戦犯にはAB,Cがあり、A級戦犯は<平和に対する罪>、
B級は<通例の戦争犯罪>、C級は<人道に対する罪>と分類されています。
A級戦犯は有名であり、東条英機やその内閣の閣僚等であり、
侵略戦争を起こした罪ということで、国家の指導者がこれに該当します。
それに対して、BとCとのは区別はつきにくく、
ことらは、捕虜の扱いや民間人への拷問などの罪で
ほとんどが下士官や兵卒が対象でした。
戦犯として約5000人が逮捕され、
その内、1000人が絞首刑となりました。
私にとって、戦犯というイメージで思い浮かぶのは、
A級戦犯のことであり、B級C級戦犯のことは、
ほとんど知りませんでした。
(この映画で知ったと言っても過言ではありません)
BC級の容疑は、戦争という混乱の中でのことであり、
誤解や風評もありましたが、それを正すべきが裁判ですが、
この国際軍事裁判では、詳しい事情を調べることもできませんでした。
なにしろ、弁護士がつかないし、
裁判長の話も拙い通訳を通してですから、うまく意志が伝わりません。
そしてなによりも、最初に有罪ありきの裁判
(宗教裁判と同じ)であった気がしてなりません。
豊松に起こったことは戦時中なら
誰でも起こりうることで、運が悪かったとか言えません。
でも、運の良し悪しで済ませてしまって良いのかな?
戦勝国アメリカが敗戦国日本を裁く、
ましてそれがアメリカ人の捕虜の殺害に関することであれば、
みせしめの意味も込めて、
アメリカ側は厳罰をもって望んでくるはずです。
この時代の戦犯という悪いイメージが蔓延する中で、
200人の署名(戸主)を集めた妻の努力は
筆舌に尽くしがたいものがあったはずで、
それを苦労の末、成し遂げたことは感動的でした。
でも、それが全く役に立たなかったことは残念ですが、
それが世の中です(^_^;)。
「私は貝になりたい」とは
どういう意味かと思っていましたが、
その意味が映画のラストでよくわかりました。
豊松の生き様を知ると、この言葉がものすごく深く感じます。
豊松の人生は常に人に気を使い、
人によって自分の人生を左右されるものでした。
だから、もう一度生まれ代わるとしたら、
誰にも知られない深海の中にある貝にないたい。
そうすれば、妻や子供のことを心配することもないし、
人によって苦しめられることもない。
そんな思いが込められている気がします。
ハッピーエンドで終わらなかったことが良かったと思います。
映画を見ながら、ずっと自分の中では
「このままの形で刑が執行されてはあまりにも辛い、
なんとかして」と、それを強く望んでいました。
でも、もともとこの裁判は不条理であったのだから、
最後まで不条理を貫くべきだったと思います。
これによってこの映画は名作となりました(*^_^*)。
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