h25.9.13 半田コロナ
朔的には☆は3つ半(70点)でした。
この映画は、 クリント・イーストウッドが監督と主演を務め、
アカデミー賞の作品賞などに輝 いた西部劇の名作で、
それをリメイクしたものです。
1880年、アメリカ開拓時代のワイオミングから、
同時代の、明治初期の北海道へと舞台を移しています。
まさに渡辺謙ワールドですね(*^_^*)。
映画の中にぐいぐい引き込まれてしまいます。
この映画は、弱者の行き場のない怒りを、
法によらずに晴らすものです。
そのため、どのような社会的な弱者を持ってくるかが、
非常に重要ですが、
今回は、宿場女郎とアイヌを持ってきたことで
成功したと思います。
また、その弱者の存在を際だたせるために、
時代と場所を、明治13年の北海道に持ってきたことも
良かったと思います。
幕末から維新までを描いた小説やドラマはたくさんありますが、
明治13年辺りの日本がどのような状況になっていたのかは、
あまりよく知らなかったので、新鮮な気持ちで見ることができました。
その辺りの時代を私なりに想像すると、
明治維新政府(薩摩と長州)は、自分たちの政治的地位を
万全なものとするために、権力を使って、
敵対勢力や国民を支配し、国の基盤を盤石なものとすべく、
がむしゃらにやっていた時代であったと思います。
混沌とした社会に、新しい秩序を打ち立てようと
模索していた時代であり、その秩序を自分達の都合の良いものと
するために、弱者は徹底的にいじめられ、苦しめられていました。
アメリカの西部開拓時代は、
先住民であったインディアンを支配して行ったように
日本でも、北海道の開拓によって、
先住民のアイヌが滅ぼされていきます。
<あらすじ>
明治13年の北海道の開拓村で、
宿場女郎が客から顔を切られるという事件が起こります。
その裁きは村の権力者大石一蔵(佐藤浩市)によって、
おとがめなしとされます。
これに腹を立てた女郎達は、
自分達でお金を集めて、この犯人を殺したものへの懸賞金とします。
しかし、この懸賞金目当てで、この村に来た男たちも
大石の前には、全く歯が立たず、
あきれめかけていた、女郎達の前に
釜田十兵衛(渡辺謙)が現れます。
釜田十兵衛は、剣の達人で、
幕府側の<人斬り>として恐れられていました。
しかし五稜郭の函館戦争に敗れ逃亡し、
辺境の地でひっそりと暮らしていました。
刀は亡き妻との約束で捨て、二人の幼い子供と
貧しい土地を耕して、その日暮らしをしていました。
十兵衛には、この懸賞金によって、
子供たちの暮らしをなんとかしたいという強い思いがありました。
彼に同行するのは、同じく幕府軍の敗残兵(柄本明)と
アイヌと和人との混血青年(柳楽優弥)で、
この3人も弱者でした。
時代背景を考えると、
北海道の開拓村を維持し、秩序を守るためには、
自分が法であるという考え方を持つ
独裁者が必要だったかもしれません。
その体現者がこの村の行政と警察を一手に握る大石でした。
彼は秩序を乱すおそれのある外部の人間を徹底的に弾圧をします。
それは、村民を守るというよりも、
自分の権力を守るためで、
この存在がこの映画のベースとなっています。
悪の権化、法をわがものとしている独裁者へ、
法を越えて鉄槌を下すことに、快感があります。
どの時代にも<半沢直樹>のようなドラマが、
受けるわけで、このドラマと同じような勧善懲悪によって、
救われた気分になれました。
ただ映画を見終わった後、半沢直樹のような
すかっとした気分にはなれませんでした。
それは、根本的なものが何も変わっていないからで、
これから先も同じようなことが、
どこかで起こっていくという虚しさからです。
この根本的なものとは<あの時代の貧しさ>で、
惨憺たるものでした。
ただ、ああいう歴史を通って、今の日本があり、
自分があるのだと思うと、重い気分になると同時に、
今の自分の幸せを感じないわけにはいきません。
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