大審問官

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 小説が作者の手を離れ、一人歩きをし、独立した作品と見なされるものの代表として、私は、ドストエフスキーの「大審問官」を思い出す。この作品は、彼の「カラマーゾフの兄弟」の中に出てくるものである。「カラマーゾフの兄弟」は、長兄の自由奔放なドミトリー、次兄の無神論者であるイワン、そして、信心深いアリョーシャの、全く性格も考え方も違う、3人の兄弟の物語である。話は3人の兄弟の父親の殺害を、キーワードに展開するが、登場人物が語る、神や信仰の問題は深淵であり、この問題を扱った、これ以上の作品を私は知らない。

 次兄のイワンは、無心論者であるが、神の問題について常に考えていた。ある日、僧侶である弟のアリョーシャに、自分の作った劇「大審問官」を持ち出し、神の問題について議論を仕掛ける。劇は、15世紀にキリストが甦り、各地で奇跡を起こしていた。それに腹を立てた大審問官(僧侶の最高位であり、国の統治者)がキリストを逮捕した。大審問官は、何故、お前は今頃、我々の仕事を邪魔しに来たとキリストを責める。キリストを逮捕し、今頃現れたことを責めたのには理由があった。それは、今は平和で、国(キリスト教)によって民衆は統治されている。民衆は自由と引き替えに生活を保障されている。この良い状況をキリストが壊しにきたと見たからだ。

 大審問官は考えていた。民衆には自由は重荷であり、自由を得ることとパンを得ることは両立できない。そこで、民衆は自由を国(教会)に売り渡すことでパンを得る道を選んだ。

 本来、自由は苦しく、重荷であり、それに耐えられるのは極少数の選ばれた人間(大審問官達の統治者)である。キリストはかつて、「人はパンのみにて、生きるにあらず」と言って、自由こそ大切であると説いた。しかし、パンをどのように得るかの方法を教えなかったので、民衆はすぐに飢えた。

 大審問官は、キリストに自分のやってきた仕事の正当性を説く。自分は、民衆に自由と引き替えに仕事と食事を与えた。ここに統治する者とされる者ができ、国が成立する。国を統治するものは、民衆の代わりに苦しくて、重い自由を背負い民衆のために耐えている。この状態を民衆も喜んでいるのに、何故、これを壊しに来たのか?と。

 この間一言もキリストは口をきかなかった。

 この物語のすごさは、来るべき全体主義体制(教会の支配)を預言していたばかりか、その必然性を指摘していたことだ。そのため、いつしかこの作品が一人歩きし、「カラマーゾフの兄弟」とは離れて、この作品だけで論ぜられるようになった。全体主義国家は、国民の重荷である自由を預かり、パンを与えることで、国民を奴隷として扱う。