エホバの証人

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 私は若い頃は議論好きでした。人に議論をふっかけ、その人を理論的にやっつけることが無性に楽しい時期がありました。議論ができるのは、そのことについて深い知識があるからです。深く知っているから議論をして、自分の知識を試したい。また、議論に勝つために自分の知識を深めたいと思ったものです。大学時代は、<ドストエフスキー>に凝って、<神・宗教・永遠・死・権力>等という抽象概念を好んで議論をしていました。でも、これらの話題で議論できる人は本当に少ないんですよね。<人はなぜ生まれ、なんのために生きているのか?>などを真剣に考えている人は、ほとんどいません。

 ある意味では、<天狗>になっていたんですね。自分の考えが人よりも崇高なものである。そんなうぬぼれをもって、そういうことを考えない人をバカにしていました。でも、今の自分がそうであることを考えると、普通の人はそんなことは考えない。非日常的な思考だったわけです。人間が生きるとは、日々の生活を懸命にこなして行くわけで、<神とか死>などを考えている暇がないものです。哲学者や学生だからできることです。

 そんな話題で議論がしたくて、<エホバの証人>の勧誘に来る老人に、知識をひけらかしたり、<民青>の友達に議論をふっかけていました。でも、議論は虚しいですね。相手は議論に負けたからと言って、自分の考え方を曲げることはない。そんなことが、今ではわかるようになり、議論はしないようにしています。相手の考え方を変えさせるのは、本人が変えようと思う時だけです。激しい議論で負けたら、悔しさだけ残って、絶対に考え方は変えません。