母の葬儀

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 母の葬儀からしばらく時間が経ったので、大分落ち着いて来ました。今日は始業式だから、気持ちを切り替える良い機会と思って、忙しく働いて来ました。時間があると、つい母の事など考えてしまうので、忙しいことは幸いです。

 母は、1222日から半田の市民病院に肺炎で入院していました。肺炎では何度も入退院を繰り返していたので、今回もその程度に思っていたのですが、1228日に医者から、心臓が相当弱っていて、ひょっとしたら年を越されないかもしれない、もし会わせたい人がいたら今の内にと言われました。

 急遽息子を栃木から呼び寄せ、親戚にも連絡しました。ただ、その時は意識がしっかりしていて、お腹が空いたとプリンを食べたり、歩いたり、よくしゃべっていたので、医者の言葉がにわかには信じられませんでした。しかし、医者の言うように、日に日に病状が悪化して行き、死期が近いことがわかって来ました。ロウソクの火が消える瞬間に、ひときわ明るく灯ると言われていますが、それと同じだったのでしょう。

 死ぬ直前まで、アルツで自分の名前さえおぼつかなかった人が、親戚の人としっかりした意識で会話をしていたのですから、奇跡としか言えません。家族4人と妹で交代で病室について、最後の夜(大晦日の夜)は私が病院に泊まりました。その時も、トイレに行きたいから起こしてくれと、何度も何度も言っていたので、まだ大丈夫とその時は思っていました。年が明けて妹が付き添っている時に、急に息が止まり、電話で駆けつけた時には、すでに息を引き取った後でした。死因は心不全です。

 アルツは感覚を麻痺させるから、普通の人のように痛みを感じないそうです。それでも、何日も寝たきりだと、体がだるいみたいで、しきりにだるいだるいと言って、起こしてくれとせがみました。起こせばすぐに疲れたと言うのですが……。アルツだった母は、点滴の管を無意識に抜いてしまうので、それをさせないように、本来は禁止されている拘束具(手を縛る)をつけていたので、自分では寝返りを打てません。点滴も打てないくらいにやせてしまって、その姿を見るのも辛かったです。それが、死によって解放されたのですから、正直言ってホッとしています。

 アルツは人格を破壊する怖い病気です。重いアルツの母が、本当に生きていたのか?生きていく意味があったのか?そんなことを何度も考えました。何の楽しみがあって生きているのか、いや楽しみ所か生きていくことは苦痛ばかり、それなのに生きて行かなければならない。昔の明るく、楽しんで生きることを知っていた母と比べて、このギャップは辛いものがありました。

 でも、今は母が生きていた意味がわかるような気がします。棺に花を入れて最後の別れをする時、何人もの人が「今までありがとう」と言っていました。ありがとうといえる存在であること。そのことがアルツになっても母が生きていた意味だった。ただ、生きていてくれれば良かった。これは、大事な人をなくした時初めてわかるものです。

 息子が母のためにパック入りの鏡餅を買って来ました。それを見た時、やさしい子だと改めて思いました。素直におばあちゃんに愛情を表現できる、それは、私が心の奥底でしたいと思っていたこと。それができなかったことが、今は残念に思います。私の自慢のそして、大好きな母でしたから、もっとやさしくしてあげれば良かった。それ所か、アルツが酷くなってからは、きつくあたってばかりいた狭い心の自分がいました。

 

 病室に せめて初春 鏡餅

主じ逝き ベットに座りし 鏡餅

 

 息子はおばあちゃんがアルツになったことから、理学療養士になりたいと決めたそうです。そして、生きていたらおばあちゃんの近くの病院で働きたいとも、でも、それは叶えられませんでした。

 1月3日の7時からお通夜、4日の1時から葬儀を近くの愛昇殿で行いました。

 5年前の父の葬儀に比べて、今回は随分落ち着いていた気がします。2度目の喪主ということで経験がいきたのでしょう。それと今回は愛昇殿(愛知葬祭)で通夜から葬儀まで一切をしたからかもしれません。お金はかかりますが、その手際の良さはすばらしいの一言です。おかげで、故人をゆっくりとしのんで懐かしむ余裕を与えてくれました。

 葬儀の時は、何をどうしたらいいか冷静に考えられません。それを言われた通りやっていけば良いのですから、これほど安心なことはありません。湯かんには、男女二人の担当者が家に来て、浴槽持参で綺麗に洗ってくれ、さらに入念に死に化粧をしてくれました。このように、全てが至れり尽くせりのサービスで、さすが商売だと思いました。

 初七日に始まって、四十九日まで毎週法要があります。これは、死者の供養もそうですが、生きているものが死者と別れるための儀式だと聞いたことがあります。だんだんと、未練を断ち切り、四十九日の頃にはあきらめがつくわけです。

 死を目の当たりにすると、<死の意味>を考えざるを得ません。諸行無常の例え通り、生あるものに永遠はありません。死を見て、自分の生きていることに喜び感謝をする。限りある命だからこそ、今をしっかり生きていかなければと強く思いました。

 家族にとっては、肉親の死と告別式は一大イベント、でも、その間にも地球は回っています。何事もなかったように、整然とことが進んで行きます。親類といえども、その家族と同じように深刻には悩みません。

 でも、それは薄情ではなくて、そうでなければ人は生きていけません。人の痛みと自分の痛みを同等に感じていたら、命がいくらあっても足りません(笑)。それはお互い様。どんなに深く悲しんでいても、時間は確実に過ぎ、日は昇ります。冬があれば春がきて、永遠に変われないものはありません。そして、どんな深い悲しみも時間が癒してくれます。

 今日は母の二七日のお参りの日で、蒲郡のお寺まで行ってきました。実家が蒲郡だったので、お墓が蒲郡のお寺にあります。本来なら、坊さんが家まできてお参りするのが普通ですが、遠いのと、親戚のほとんどが蒲郡に近いので家ではなくてお寺にしました。今日は親戚の人が15人くらい集まってくれました。やはり、半田の家でやらなくてよかったと思います。

 今日は母の満中陰の法要(49日)でした。我が家は浄土宗(南無阿弥陀仏)なので、臨終から忌明け法要までは、7日目ごとの法要がありました。初七日(しょなのか)忌、二七日(ふたなのか)忌、三七日(みなのか)忌、四七日(よなのか)忌、五七日(いつなのか)忌、六七日(むなのか)忌、そして今日が七七日(なななのか)忌<満中陰>です。

 実家が蒲郡だったこともあり、お寺とお墓が蒲郡にあります。そのため、七日参りはお寺でやりました。和尚さんに家にきてもらい家で法要をと思ったのですが、私の親戚は両方とも蒲郡の周辺ですから、お寺の方が集まるのにも都合がいいと思いました。そんなわけで金曜日の夜は7時の法要に間に合うように仕事を早めに切り上げてお寺に行っていました。七日参りには大半の親戚の方がお参りにきてくれ、和尚さんがびっくりしていました。でも、実は一番びっくりしたのは私でした(笑)。妹夫婦と私の家族+4人くらいを想像していたからです。今さらながら、母の人徳を知らされました。

 今日の法要は10時半からで法要の後、お墓に納骨をしました。あいにくの雨でしたが、幸い納骨の時だけ雨が止んでいてくれました。そのあと、近くの料亭で会食をして2時頃家に帰って来ました。

 私の家族を入れて22人の親戚が集まってくれました。七日参りのおかげ(終わった後に別室でお茶を飲んだ)で親戚の方とコミュニケーションがとれました。両家の交わりもできたみたいで、お寺の法要も良いなあと思っています。家でやると、掃除を含めていろいろ大変です。

 満中陰法要が終わって忌が明けました。法要のたびに和尚さんから供養や法要の意味を説明してくれました。

 その話を要約すると、人の死後49日の間を仏教では中陰の期間といって、六道輪廻の間をさまよう期間とされています。六道とは人間がこの世の行いによって、死後に行かなければならない、「人間」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」の六つの世界の事です。七日ごとに裁判があり、この世の行いを裁かれます。その最大の裁判が49日で裁判官が閻魔大王だそうです。その時、親戚や家族が法要を開いて供養をすると、亡くなった人の応援をしたことになり、その裁判が有利に働くのだそうです。だから、49日は死者の運命(六道のどこへ行くか)が決まるので、満中陰といわれるそうです。また、その時に忌の汚れが除かれる(忌明け)ので、それを祝うため49日の法要は盛大に行なわれます。