宗教、死、神

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 灰谷のエッセイ<子どもに教わったこと>を完読しました。その中で感じたことがありますので書きます。

◎ 大人と子どもの違いは、死に対する意識の違いだといった人がいます。例えば、私達は、そう遠くない日、この世をさるだろう、去らなくてはならないだろうという意識が強烈にある。いつも死を意識していて、それが今の生き方を律しているような所があります。でも、幼児は自分たちがいつか死ぬなどということは、決して考えないだろうなと思ってしまいます。

 

 四歳のわたしは 永遠であった。

 四歳のわたしには かげりなどなかった。

 いつかは死がくることを知らなかったから

 わたしの生涯に限りがあることを知らなかったから

  <ロシアの詩人で児童文学者のマルシャーク>

 

※ 少し、「死」の事について考えてみました。おつき合いください。私は、死を考える時、そこに神とか霊魂とか輪廻転生などの現象を抜きにして考えられません。

 神は、存在するのか?それとも人間が作り出した架空のものなのか?この問題はさんざん議論され尽くしたものです。紀元前から古今の著名な哲学者が考えても、結論が出ないものですから、私ごときに分かるわけがありません。ですから、正直言って分かりません。だから、神がいるともいないとも今の段階では結論は下せないと思います。ただ、神の存在が今だに見つからないということは、これから先も見つからない。そんな気がします。

 私は無宗教です。ただ、大学時代にドストエフスキーを愛読し、彼の影響から神とか死について、深刻に考えた時期がありました。今は、ほとんどその呪縛から逃れ、精神的には自由です。

 私は無宗教ですが、実を言うと心のよりどころに聖書があります。キリスト教徒ではありませんし、教会に行くこともありません。これを、無教会主義のキリスト教徒と呼ぶのだそうですが、教会の権威主義に翻弄されることなく、自由に聖書の言葉を生きる糧にしています。大学時代に、ドストエフスキーに傾倒し彼の本はほとんど読破し、評論も大半のものは読みました。彼の苦悩は、絶対の神が作った現実の世界が矛盾だらけであったことです。そして、神を信じている自分が、神を裏切るような事(飲酒、女性、賭博)ばかりする。この善と悪の間で苦しんでいました。天才といえども煩悩は凡人と同じなんですね。彼の有名な言葉に「神が真理の外にあるとしても、私は真理と共にあるよりも神と共にありたい」があります。信仰とはこういうものだと確信する言葉です。

 この年になる(死が近づいてくる)と、信仰なくして生きていくのが辛くなってきます。ただ、今の自分は信仰には消極的で、回りの様子をみたり、自分の中で信仰を持たないいいわけを作っている内は、信仰は持てないと思います。信仰とは、ドストエフスキーの言葉のように、疑問があってもそのまま信じる事ですからね。

 人間の生まれ変わりについては、いろいろな本が出ているけど、頭では分かっても、なかなか信じることができません。輪廻転生は、仏教的な教えですが、生まれ変わりの本は、ほとんど西洋の子供の話です。それ以外でも、人間の考えの及ばない不思議なことが一杯あります。人間の目に見えないものでも、信じる勇気が欲しいですね。ただ、インチキを見破る、適正な目が必要です。だいたい、奇跡や特別な力をお金儲けのために利用するのは、ダメですね。金儲けをする宗教はダメです。

 人間は何のために生まれたか?これは死んだらどうなるかに関係があると思います。これを考えると”サイモンバーチ”という映画を思い出します。主人公のサイモンは難病で、成長が止まり長く生きられない運命にあるのに、神は自分を小さく産んだのには、きっと意味があるんだと、それを信じて明るく懸命に生きている。そして、最後にそれが証明される。感動的な映画で、何度も何度も泣きました。人は生まれてきた目的、それを全うするのが人生です。だから自殺はいけません。生を全うし、自分の目的を達する。それが、その人にとって意義のある人生だと思います。

 人間は、夢(思い出)を食って生きていくと思います。特に年を取ってくるとそれを感じます。昔自分がもてたこと(もてたと錯覚していること)を思い出しては、ひとりにやついています。年を取ってからの楽しい人生はそういう思い出(恋ばかりでなく、いろいろな体験)が一杯ある人が幸福ではないかと思います。