ドーサンとわたし

 

 エイシンドーサンは、中央で25戦3勝し、高知に来たサラブレッドである。

 高知で、珊瑚冠賞・建依別賞などの重賞を取った、小っこい栗毛の馬である。

 

1・ナムラコクオー

 

 私が高知競馬に興味を持ったのは、中央で活躍したナムラコクオーが、高知で復活して走っている、との話を聞いてからだった。

 コクオーのことは、ビデオを見て知っていた。類稀なる素質を持ちながら、不治の病である屈腱炎のため、足にいいダートコースを求めて、高知に移籍した不屈の馬だ。

そのコクオーが、2002年の8月から、長い長い休養期間を経て、復帰したとのことだった。高知でも何度も、走ったら病気が再発、治って走ったらまた・・・・。という状態だった馬だ。

 2003年の1月、突然足腰に痛みが走り、私は倒れた。寝返りも打てない程、その痛みは凄かった。医者に行くと、椎間板ヘルニアだと言われ、長い年月の間にすり減った椎間板は治ることがないと言われた。ではこの痛みや痺れは?いつ治るの?一月?それとも二月はかかる?と更に医者に尋ねれば、「わからない。」とのこと。頭の中を絶望が走った。

 2日仕事を休み、1週間主人に車で職場に送り迎えをして貰ったが、私にかまっていると主人が残業できないし、杖をつきつき通勤を開始した。これくらいでは仕事を休んではいられなかったが、とても辛かった。

 2月になって、「だるま夕陽特別」というレースが高知であった。これに勝つと、3月に高知で行われる唯一のグレードレース、「黒船賞」に出走できるとのこと。しかもこのレースに、階級を乗り越えてコクオーが挑戦するというのだ。同じ不治の病を持つコクオーに、いつしか自分を重ね合わせて見ていた自分は、遠い大阪から応援の声をあげていたが、コクオーは2着だった。

 「黒船賞」に出られない・・・・・。私は泣いた。小さな四国の競馬場で、寄せ来る中央の豪傑たちに、「オレはまだ生きているんだ」と言って欲しかった。「負けてなどいない」と表明して欲しかった。

 しかし、コクオーは黒船賞に出走決定した。とても嬉しかったとともに、主人に無理を言って、高知へ連れていってくれるようお願いした。杖を突きつつの旅だったが、コクオーを見ることが出来るということで、心の中は舞い上がっていた。

 初めて見る高知競馬場。私はそれまで、地方競馬というと公営兵庫の、園田にしか

行ったことはなかった。園田は鉄火場という印象がある。しかし、観客には地方競馬独特の温かみはある。けれど、子供の姿はあまり見かけないように思う。

高知は違う。大人も子供も安心して来れるような、のどかな、陽の当たる競馬場だった。しかし、初めて来たということで、違和感もあった。そのとき、兵庫から参戦している岩田騎手の勝負服を見かけた。不思議に、気持ちが落ち着いていった。自分的にはだいぶ園田の空気に慣れてしまっているのだなぁ、と思う。

そうして、黒船賞のパドック。厩務員の鍋島さんに引かれて、2番目にコクオーが姿を現した。首をぐっと上にあげて、ひととおりずっと観客を眺め回す。「おまえら、俺を見に来たのか。しっかり目に焼き付けておけよ」そういう 眼差しだった。

どこから見ても、王様・・・・(King Of King)王の中の王だった。あれほど雄々しい馬を、私は見たことがなかった。私は圧倒されてしまった。見るものを惹きつけずにはいられない馬だ。

黒船賞が始まった。中央の馬を相手に、黒い王は果敢に攻めていった。しかし、最後の直線では叶わず、9着に終わってしまった。しかしそれでも、この「黒船賞」の主役は、まぎれもなくコクオーだった。中央から強い馬が来ているのにも拘らずだ。私のように、コクオーを目当てで来たお客さんもきっと多いはずだ。

コクオーは負けたが、私は満足感を胸に家路に急いだ。

 

そして、このときエイシンドーサンも、一緒にパドックを廻り、一緒に黒船賞を走っていた。結果はコクオーよりも先着の、7着に入っていた。それを当時の私は、心の片隅にもかけることはなかった。

この日ドーサンは、大切な相棒・徳留康豊騎手と決別していた。

 

4月になって、私の足は回復し、杖なしでも歩けるようになっていた。

高知、高知、高知・・・・。南国の競馬場が気に入った私は、高知競馬に夢中になった。とりわけコクオーにはそれこそ、恋愛感情めいたものを持つまでになっていた。高知に憧れ、高知競馬をパソコンで検索しては、高知についての知識を広げていこうとしていた。そんな矢先―――

「高知競馬という仕事」というサイトに行き当たった。高知新聞の石井研記者が、高知競馬を密着取材して夕刊に載せたものをまとめたサイトだった。このサイトで主人公的役割を務めていたのが、竹内昭利調教師と愛馬エイシンドーサンだった。

赤字続きで、存続が危ない高知競馬。賞金も手当もぎりぎりまで下げて、それでも辛抱に辛抱を重ねて、高知競馬を守ろうとする人々・・・・。そして大きな賞金を求め、

ドーサンと竹内先生は遠征の旅に出てゆくのだ。中央のような立派な、冷暖房つきの馬運車じゃなく、幌のついた小さな「高知」と書いたトラックに乗って・・・・・。

 笠松のオグリキャップ記念では「そんな馬知らない」と言われた。同じく笠松の、全日本サラブレッドカップでは、最後方で他馬の蹴散らした泥にまみれて「素焼きの土器」のようになり、「一頭だけひでぇ馬がいるなぁ」と笑われた。佐賀の「佐賀記念」では、取材に来てくれた高知新聞の記者のみの応援を背に受けて走った。

「この馬はコクオーのように王様じゃない。でも、高知の侍やなぁ」

 何度も何度も読み返し、気が付いたらいつも涙で顔がボロボロになっていた。こんな馬が高知にいたんや。気付かなかった。

 ドーサンの存在が、私の心の中に、小さな火をつけた。 

 

 しかし、だからと言って、私の中のコクオーへの気持ちは、少しも揺らぐものではなかった。しばらくぶりにコクオーを見たくなって、高知行きの計画を立て、宿を取ったはいいものの、うまくコクオーが発走するかどうかはわからない。コクオーだってローテーションに乗っ取って走っているのだ。

 そんな時、私の競馬のお師匠が、驚くべきことを言った。

 「どうせなら、何とかしてコクオーに会わせて貰えないかって、訊いてみれば?」

 コクオーに会う?胸が高鳴った。そんなの無理だ、と思いつつも、でも少しだけでも会えたら・・・・。心が揺れた。そして高知入り前の水曜日、思い切って高知に電話を入れてみた。職員さんが出て、コクオーが運良く、私が高知にいる間に走ってくれることが判った。その後、おずおずと「あのー、出来たらコクオーに会ってみたいんですけど・・・・。ダメでしょうか・・・・。」と訊いてみた。職員さんは少し考えているふうだったが、「田中調教師がいいと言われれば、会って貰ってもいいですよ」との返事をいただいた。それから少しして、田中先生からOKをいただき、一瞬、天にも昇る心地がした。

 

 初めて会ったコクオーは、飼い葉桶に顔をつっ込んでひたすら食事をしていた。漆黒の体毛、額に輝く白い星、そうしてその瞳は、この世のどんな宝石よりも綺麗に思えた。初めて接する馬という生き物のために、例えば耳を絞っているときは近づかないようにとか、様々な忠告を友人たちから受けたのだが、そういうものは殆ど頭の中からふっとんでいた。

 コクオーは、飼い葉桶から顔を上げると、私の顔の周りをふんふんと、その鼻で嗅ぎまわった。いきなり手を出すと馬が驚くと聞いていたので、こちらも顔をつきだして、コクオーの顔に鼻をくっつけた。やがて得心がいったらしいコクオーは、首を持ち上げて「ブホホ」とフレーメンした。「あいわかった、くるしゅうない」というところであろうか。

 そんなコクオーのことを、田中師は「誰かに耳を絞っているのは見たことがない」と言われた。誰かを威嚇する必要などないと、この王は理解しているのであろう。それほど、彼は威厳に満ちていた。

 この後も、ドーンと首を背中に乗せてきたりして、大分かまって貰ったりした。^^;

 

 翌日も、コクオーに会いにいった。りんごをいくつも持っていった。りんごをあげると喜んで食べた。しかし・・・・。

 その後、私はコクオーを怒らせてしまう。コクオーにりんごをあげていると、両隣の馬房から、自分も欲しそうに馬たちが首をのばしてじっと見つめていた。特に、左隣の馬房の、コガネユリという女の子は、前日、レースで頑張って、勝ちを収めていた。私はお祝いのおすそ分けのつもりで、ユリちゃんの飼い葉桶にりんごを放り込んだ。ユリちゃんは喜んで、りんごを口にした。そのときである。

 コクオーの表情が固まり、奥に入って、壁にぴったりと馬体をつけて、全く顔を出そうとしなくなったのだ。私は一瞬、何が起こったのか判らず、そのときは「レースの後だったから、愛想をふりまくのがしんどいのだろう」と思った。でも、後から考えたら違う、と思った。ユリにりんごをあげたのが彼のプライドに触ったのだ。「おまえはオレに会いにきたのではないのか、馬なら誰でもいいのか」コクオーは、そう言っていたのだと思う。何故なら、私が厩舎を立ち去りがけにふと、後ろを振り向いたら、コクオーは何もなかったように飼い葉桶に顔をつっこんで食事をしていたからである。どこまでも王様。コクオーは誇りと自信に満ちた、生まれながらの王である。

 

 今回の遠征では、しっかりドーサンも応援した。最後方に位置取ったドーサンを見て、家人が「あれは届かないね」と言ったのを、「いや、ドーサンなら来るよ」と私が言い切ったとき、鬼のような末脚で、2着に食い込んできたのを見てさもあらん、と思ったものだった。

 

2・ドーサンとの赤い糸

 

月は替わり9月となった。今月もコクオーに会いに、高知行きを決心した。それで、高知競馬の公式サイトに、「また高知に行きます!楽しみです!」と書き込みをしたところ、サイトの管理人さんから、突然メールを戴いた。それによれば、「ドーサンの調教師である竹内先生から伝言で、掲示板を見ていたら、あなたがエイシンドーサンの応援をしてくださっているようで、お礼を言っておいて欲しいとのことです」とのことだった。例の、「高知競馬という仕事」を読んで以来、ドーサンのことが気になりだして、「ドーサン頑張れ」というふうなことを幾度か書いたのを見てくださっていたのだ。本当に恐縮した。

今回もやはりコクオーがメインだったが、以前よりドーサンにも差し入れとかしたいと思っていたので、これもいい機会と思い、手紙と寸志をことづけさせて頂いた。竹内先生からは、レース後ドーサンに会いにきますか、という伝言を頂いたが、コクオーに会う約束をしていたのと、会えばきっと情が移る・・・・。という思いから、この時はお断りさせて貰った。

コクオーとは、鼻に触ったりして遊んでいたが、肩を甘噛みされてしまった。それでも、可愛いことには違いない。

ドーサンにこそは会わなかったが、竹内先生にはお会いして、ドーサンの話をいろいろ聞かせていただき、短いが充実した時間を過ごすことが出来た。

ただ、竹内先生の仰った、「みんながナムラコクオーだのハルウララだのと騒ぐ中で、ドーサンを好きだと言ってくれてとても嬉しかった」という言葉には、心の中で「ごめんなさい」と謝った。しかし、竹内先生が本当にドーサンを可愛くて仕方がないことは、身に沁みて判った。私ごときが書き込みしたことを、しっかりチェック入れて喜んで、先生自ら「お礼を」と言ってくださるこの気持ち。こんなことはまず、まず滅多にないことだろうと思う。こんなにもこんなにも愛されているドーサンを、私も愛しく思っていた。

翌日、コクオーが走った「桂浜杯」。なんとコクオー、かみのやまから来たベストライナーや中央の馬に抜かれて3着だった。レース後会いにいった友人たちから、洗い場でものすごく悔しがるコクオーの様を聞いた。馬も、自分が「負けた」ことを知っていて、しかも「口惜しい」という感情を持っているのだと、そのとき知った。

 

そうして、魔の2003.9.28・・・・。パソコンの配信でコクオーのレースを観戦中、コクオー鞍上の中越騎手が急に立ち上がり、ぐっとたづなを引いてコクオーを止めた・・・・。負けず嫌いのコクオーは、それでもゴールまで走りこんだけれど、足をやってしまったようだった・・・・。私は、取り乱して、泣いた。何が起こったのかわからず、公式サイトの掲示板に「コクオーに何が?」と書き込んだ。他にも、何人かの人がコクオーを案じて書き込みをしていた。

予後不良でないことが判り、それはほっとしたものの、コクオーとの長い別れのときの始まりだった。コクオーは、屈腱炎ではないものの、脚のすじをやってしまったようだった・・・・。

 

 10月になって、すぐにでも高知に行ってコクオーに会いたい、と思っていたが、彼は馬主さんが連れて帰って、自宅療養させているとのことで、姿を見ることは叶わなかった。しかし、最初は脚を痛がって暴れたりしていたものの、食欲も出てきて元気にしている、とのことでちょっと安心した。

 それでも、10月も高知に出向くことにした。コクオーはいないが、ドーサンが居るからだ。それに高知競馬場ののんびりとした雰囲気も、心の癒しには適していると思う。

ただ、園田と較べて配当などは低いと思う。鉄火場とはおよそ言えない別空間。

 ドーサンは、ぐりぐりの2重丸で予想されながらも、稀代のクセ馬。何故に?の7着だった。竹内先生は、「いや、もう本当に難しい馬だから」と言いつつも、声がめちゃくちゃ甘々な気が・・・・。^^;かくいう私も、ドーサンのパドックに向かい、カメラ片手に飛び出したとき、他のお客さんに「馬主さんですか?」と訊かれてしまった。ということは、私も自然と甘々な雰囲気をかもし出していたのかもしれない。

 この頃、世間はハルウララだった。90何敗目だったろうか?TVの取材などもあり、協力を求められたけれども、コクオーとドーサンのファンがしゃしゃり出ることもないと思い、控えさせていただいた。

 11,12月と忙しさに紛れ、高知に行けなかった。その代わり、大晦日と正月は、高知で過ごすことに決めた。生まれてこの方、自宅以外で大晦日・正月を過ごすのは初めてのことだった。

 楽しみにして行った高知だったが、意外な話を聞くこととなり、目の前が一瞬真っ暗になった。

 

3・ドーサンの運命

 

 竹内先生とお話する機会があり、先生が話されたことには・・・・。竹内厩舎を3月一杯でたたみ、ドーサンは引退させるとのことだった。先生も、さんざん悩まれてのことでもあり、私には何も言えなかった。ドーサンは、何とか引退後の行き先を見つけてやりたいとのことだったが、最初に交渉した牧場さんからは断られてしまった、とのことだった。

 いつかは聞かなければいけない話ではあった。このときに悩むのが辛くて、ドーサン本人とは今まで会わずにいたものの、会ってなくても辛さは一緒だった。

 コクオーの引退後にも、もし道がなければ何とかしたいと思っていたが、コクオーは引く手あまただった。前に休養のため預けられていた牧場が、彼の余生を看たいと言っておられたのを聞いていたし、今の馬主さんも「子供を走らせたい」というほど可愛がっておられて、手放される様子もないということだった。ましてや私の友人までもが、もし誰も看ないのならば、有志を募り、自分も働いてでもコクオーを養うと言っていた。

 コクオーは何の心配もいらない。でも、でもドーサンは・・・・・。

 しかし、自分も家のローンが残っている上に、子供もいないので余生を過ごすために、そろそろ蓄えも必要となってきた。ましてや、不況で前途は厳しい。ドーサンを看たいとは、とても言えない・・・・・。

 沈みきった私に竹内先生は、「徳島に、知り合いの乗馬クラブがあって、何とかならんかと話してみたら、今度馬を見に来ると言ってました。何としても行き先は見つけますから、心配しないで・・・。」と言ってくださったものの、心ここにあらずのまま、高知をあとにせざるを得なかった。

 ドーサンはアメリカで生まれたので、帰る生産牧場もない。遠い異国で一人ぼっちの馬なのだ。彼を愛してやまない竹内先生も、離れていってしまう。何も知らずにドーサンは、毎日をこれからもずっとここに居られると思って過ごしているのだろう。たまらず不憫だった。

 私の、悩む日々が続いた。それからは、仕事が忙しくなり、2月はとうとう高知には行けなかった。ただ、高知競馬では、協賛金を払うことにより、レースに好きな名前をつけることが出来る制度があるので、ドーサンの引退レースの時には、「ありがとうエイシンドーサン特別」などと銘打ったレースをして、盛大に送り出してやりたかった。それくらいしか、自分に出来ることが思いつかなかったのだ。この当時の成績では、3月の黒船賞(交流GIII競走)には、出場できないだろうと思っていたし、引退式などもやっては貰えないだろう。ならば、自分が引退式をやってやりたかった。正月の重賞レースで発走したとき、ドーサンは見せ場もなく終わってしまったが、スタンドを歩いていると、あちこちでドーサンへの声援が飛んでいた。ドーサンを思ってくれている人は、たくさん居るのだ。

 

 しかし、それも夢と終わってしまった。高知競馬事務局に電話して、ドーサンのラストランを調べて貰ったら、運悪く黒船賞の日だったのだ。おまけにこの日には、全国新人王争奪戦もあった。何とかドーサンの名前の入った協賛レースをとお願いしたのだが、もうこの日の協賛レースは埋まってしまっていた。引退式も、勿論なかった。

 途方にくれて、私は泣いた。家人が、「オレらだけでも、見届けてやろうや。ファンはきっと分かっているから。」と慰めてくれた。

 

 黒船賞の日は、ハルウララという連敗馬に武豊が騎乗するということで、きっと入場者が1万人は超えるであろうという前評判の高知競馬場であった。その2日前、私は初めて厩舎にエイシンドーサンを訪ねたのだった。締め切った、薄暗い厩舎の奥にドーサンは居た。私が近づくと、鼻をふんふんさせて私のにおいを嗅いできた。この反応はコクオーと一緒。竹内先生がドーサンに頭絡と引き綱をつけて、厩舎の外に連れ出してくださる。光の下で見たドーサンは、コクオーよりも一回り小さいものの、立派な馬体をしていた。「大丈夫ですから」と先生は、引き綱を私に渡してくださった。家人がカメラを構えて、写真を撮ってくれる間、ドーサンは私に頭をすり寄せて甘えてみせたり、いきなり「かぷ」と私の左肩に噛みついてきたりした。馬房に戻れば、飼い葉を食べている間も、私のコートの袖を噛んで引っ張ったり、人懐こい仕草を見せたりした。

「ドーサンは、知人の経営する徳島の乗馬クラブに行くことになりました」と先生は言われた。「でも、相手さんが気に入ったのはエイシンローレンスでね。ドーサンは言わば無理矢理、引き取って貰ったようなもので。俺の夢を叶えてくれた馬だから、何とかお願いして」

 どうやら、望まれていく訳ではないらしい。目の前がくらくらした。

 

 ドーサンの引退レースのある、黒船賞当日。私は高知に居なかった。たくさんの人ごみを避けて、公営兵庫の姫路競馬場、場外発売所に居た。ドーサンの単勝勝馬投票券を買い、小さな場内のテレビで、ドーサンのパドックを見ていた。後から友人に聞いたら、結構声援が飛んでいたらしい。鞍上は先生が特別にお願いして、中央の安藤勝己騎手に騎乗して頂いた。最後の晴れ姿だった。橋口アナウンサーは、ちゃんとこれがドーサンの引退レースだと放送してくれた。私はぼろぼろ、テレビを見ながら泣いていた。レースは8着だった。

 

 3月最終の日曜日、5時過ぎに先生から連絡が入った。「今、ドーサンが徳島に向けて旅立ちました。可愛がって貰えると思います。また、会いに行ってやってください。」

私の手元には、先日先生から頂いた、乗馬クラブの電話番号があった。

 

4・苦悩

 

 その頃の自分の中に、小さな苦い塊があった。

 今だから書けるが、竹内調教師に「北海道の牧場に知り合いがいるんですけど、余裕があればドーサンも引き取って可愛がってあげたい、宝くじが当たったらなぁって言っておられたんですよ」と、他愛ない世間話をしかけたら、先生が深刻な顔をして、「今からでも遅うないけん、そこが引き取ってくれたら・・・・・。」とぼそっと言われたのだった。え、でもドーサンは、乗馬クラブが引き取ってくれることになっていたのではないの?どうして?

「クラブのオーナーが見に来てくれて、ローレンスのことは気に入って連れて帰る言うてくれたけんど、ドーサンのことはどうしても首を縦に振らんかったんよ。それでも更に僕の夢を叶えてくれた馬ですけん、言うて連れて帰ってくれることになったけんど・・・。」

ドーサンは気にいって貰えなかったん?何で?ドーサンの方が強かったのに。ドーサンの方が活躍したのに。

けれど、乗馬というのは活躍したかどうかではなくて、適性や華やかさだったのだ。3月の終わり、先生はあんな電話をくださった。ドーサンは旅立っていった。でも、先生のあの心配は何なのだ?どうしてこう落ち着かないのだろう?

前に読んだ本の中に、キョウエイボーガンという馬を愛し、引き取って自分のパート代で預託料を払い続けた婦人の話があった。北海道の奥様が、ドーサンの先行きを心配して、預託料の安い乗馬クラブの情報を下さったりもした。

もう、間に合わないのかも知れない。家にだってまだ返しきれてないローンがある。何よりも自分が病弱で、医療費もかかればいつ仕事を辞めるかもしれない。主人にだって迷惑がかかるだろうし、好きなことや今までやってきた気ままについても、諦めなければいけないことも出てくるだろう。

いや、・・・そんなことはみんな「逃げ」だ。自分に自信がないことへの逃げだ。でも、「引退する」「じゃ引き取る」って即答できるものなのか?ワタシには時間が欲しかった。時間が足りない、足りない・・・・。引き取るってどこへ?どこなら安心して預けられるの?下見にだって行かなきゃ・・・・。お金は?生涯のライフプランを計算しておかなきゃ、馬と自分達で共倒れだよ・・・・。競馬についても馬についても、知らないことが多すぎるよ・・・・。

そうしている間にも、処分されてゆくドーサンの姿が目にうかぶ。この命の重さ、一度出会ってしまったこの馬の命の尊さを、見捨てることができるのか・・・・・。それで後悔は一切ないのか。

主人や、実家の母とも相談した。とにかく会いに行ってみよう。それで本当にダメなら・・・・引き取ろう。命だけはなくしてはいけない。あの「高知競馬という仕事」という記事に載っていた馬、もうこの世にはいないよ・・・・・。本当にそんなことが許されていいのか?それがあの、頑張ってきた子に対する神様のご褒美なのか?

それを何故自分がしなければいけないか?ということもある。じゃ、誰かがしてくれるのか?恨み言をくどくど言ってるだけで行動を起こさないこと・・・神頼みばかりして自分はこれだけあの子のことを心配する気持ちだけはありますよ、ってのが正しいことなのか?違う、それは断じて違う。何とかして欲しいことがあったら、自分がまず動くのだ。誰も何もしてくれないのだ。「くれない族」になってはダメなのだ。とはいえ、自分が自分がと、でしゃばるつもりもない。自分の出来ることを全力でこの子に注いでやればいいのだ。それで、ドーサンの命が助かり、更にちょっと彼が幸せを感じればそれでいいのだ。

幸いにも、コクオーには行き先が決まっていそうだ。なら、この子に、小さな、本当に小さな手だけど、伸ばしてみてはいけないか?

 

7月の初め、ワタシは意を決して乗馬クラブ・コルツに電話してみた。「もしかしたら、もういないかもしれない・・・・。」とも思いながらの、不安な電話だった。

「はい、コルツです」女性が出た。「あの、そちらにエイシンドーサンは居ますか」「ええ、いますよ」「元気にしていますか?」「はい、元気にしています」

その後、にんじんか何かを送ってはいけないかを訊いた。そういう方もおられますけど、社長に聞いておきましょうか?との返事。やっぱり送るより、行くべきなんだ。

もういい。もう行ける。ドーサンに会いにいこう。「もしものことがあったら、引き取りますので、連絡ください」と書いた手紙を持って。

 

5・再会

  私達家族を乗せた車が、明石海峡大橋を渡る。昔ドーサンが、ここを渡って遠く笠松へと遠征していったのだったね。朝の瀬戸内がまぶしい。

  鳴門へ入り、徳島市内へ。県庁の横を通り、南へ下る。以前に四国遍路を2回廻っている私達にとっては、四国の道は庭みたいなものだと思っていた。でも今日通る道は、全く初めての、知らない道のように思える。

  小松島市に入るとすぐ、競輪場の場外馬券売り場の横を通る。やがて阿南市へ、そうして那賀川を渡ると、どんどん山の中へと入ってゆく。山を北に隔てた吉野川沿いでは、高速道路も鉄道も通っており、交通の便はいいのだが、こちらの地域は交通手段は路線バスくらいしかなさそうで、徳島のガイドブックにも記載が殆どない、そんな地域だった。それでも、四国札所20番の太龍寺ロープウェイや、22番札所平等寺の看板を見かけ、ああいつかは通りかかった場所なんだ、と安心しもした。

  国道195号沿い、ずっと走るとやがて右手に「観光乗馬 クラブコルツ」の看板が見えてくる。右折して車を走らせれば、山の中を通り、「相生町」の看板を過ぎ、やがて下手にサイロのような建物が見えてくる。ここがドーサンの新しい住処である、コルツ乗馬クラブである。

 

 馬が総勢12頭(うち一頭がポニー)。アットホームな山間の、乗馬クラブである。オーナーは建設会社の社長で、昔からポニーを飼ったりしておられたそうだが、馬好きが嵩じて、田を整地して馬場を作り、厩舎を建て、必要だからとクラブハウスも作ってしまった人だった。

恐る恐るハウスの中に入り、「すみません、こちらにエイシンドーサンが居ると聞いてきたんですが・・・・。」と話しかける。「ええ、いますよ」

 社長のお嬢さんと馬の世話をしてくださっているKさんが、暖かく迎えてくださった。

そうしてここから、物語は始まっていくのである・・・。

 

(後は「うまうまSTORY〜ドーサン」を読んでくださいね^^)

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