派祖 西山国師 御法語
鎮勧用心
眠りて 一夜を明かすも、 報仏修徳(ほうぶつしゅうとく) のうちにあかし
さめて 一日を暮らすも、 弥陀内証(みだないしょう) のうちにくらす。
機根(きこん)つたなくとも 卑下すべからず。 仏に下根(げこん)を摂(せっ)する願います。
行業(ぎょうごう)とぼしくとも疑うべからず。経に乃至十念(ないしじゅうねん)の文あり。
励むも悦ばし、正行増進(しょうぎょうぞうしん)の故に。
励まざるも悦ばし、正因円満(しょういんえんまん)の故に。
いたずらに機の善悪を論じて、仏の強縁(ごうえん)を忘るることなかれ。
不信につけても、いよいよ本願を信じ、懈怠(けたい)につけても、ますます大悲を仰ぐべし。
一夜の眠りにつくのも、仏への感謝と恩に報いる気持ちからでなくてはならない。
目覚めて一日を暮らすのも、阿弥陀仏の救済のあかしのうちに暮らしていかなくてはならない。
その人(機)の能力や性格(根)が不十分であっても卑下することはない。なぜなら仏にはそのような能力の乏しい人を救おうとする願いがあるから。また、もし善い行いが少ないからといって仏の救済を疑うべきではない。(無量壽)経に十回南無阿弥陀仏と念じればよいという文があるからである。
念仏や善い行いに励むのも大変よろしいことである。なぜなら、正しい行(口称の念仏)が増進しているからである。また励まないのもやはりよろしいことである。なぜなら励む、励まないに関わらず、阿弥陀仏の本願、すなわち慈悲心をもって私達衆生を救済することは既に円満に決定しているからである。
いたずらに人間の行いの善悪を論じて、仏と人間の強いご縁を忘れてはならない。もし信じる心が揺らいだなら、この仏の衆生救済の本願を思い起こし、怠け心が沸いた時には、この人間を救済しようという仏の慈悲の心を頂くべきである。
〜意訳・大意〜
法事、年忌法要での読経の中ごろに住職が読む御文に「鎮勧用心」というものがあります。
この「鎮勧用心」ですが、私達浄土宗西山禪林寺派の派祖であり、浄土宗の宗祖・法然上人の弟子である西山上人の教えの中心とされています。上人は1247年11月26日に71歳で亡くなられるのですが、この4年前の春、天台座主であった道覚法親王(承久の変で隠岐に流された後鳥羽上皇の皇子)のご希望に応えて、この御文を書かれたといわれています。
下に意訳を記してありますが、念仏の信者としてますますの精進に励むのは大切なことであるが阿弥陀仏の衆生救済の本願を信じて、その法縁を感じ、感謝して生きることが肝要であるという内容であります。次回皆様が法要でこれを聞かれた時に、このようなことを言っているのか、と受け止めていただければ幸いです。
鎮勧用心
2005. 5. 16