中陰(四十九日)について

 2007. 6. 12

 仏教が興る前からインドにあった死生観に、転生輪廻説というのがあります。当時の人々は生命というのは、1つの生が終わるとまた何かに生まれ変わり、それはあたかも車輪が回転するように、留まることがないと考えていたのです。この説における、死の瞬間から次の生を受けるまでの間の時期、これを中陰(ちゅういん)または中有(ちゅうう)と呼びます。

 ところで、この生まれ変わり方ですが、七日を単位として生まれかわるというのです。ある者は初七日で、これを逸したものは二七日で、同様に三七日… 六七日で、しかしながらどのような者であれ、七七日を越えることはないというのが中陰思想です(今日、四十九日をもって満中陰というのは、これによります)。

 仏教は超経験的な転生輪廻の考え方は採りませんから、中陰思想もない筈ですが、仏教を分かり易く説くために、中陰思想を方便(真実を説くための手だて)として採り入れてきました。しかし、あくまでも方便であることを忘れてはなりません。

 さて、わが浄土宗西山禪林寺派では、「南無阿弥陀仏」と弥陀の慈悲を頂いて安心(あんじん)を得ている者は中陰の状態を受けない、と説きます。臨終間際のたとえ十声のお念仏であっても、また早口や口に称えることのできない状態に陥った者が、人の称えるお念仏を耳にするだけでも、直ちに阿弥陀仏の来迎を蒙って往生できる―、これがわが宗派の受けとめ方です。また経典によれば、往生の速やかなことは、壮者がヒジを曲げる程の速さであると説かれ、来迎にあずかったものは、速やかに極楽の宝池の蓮華に托せられると説かれています。

 ところが、このことを知らずお念仏に耳を傾けない者は、中陰を受けるのです。次の生処を求めて迷うことになります。それゆえ法然上人は、「六趣(迷いの世界)を指して、中有に生を求む」ことのないように、いまだ安心を得ていない人に念仏を勧め、浄土をねがわしめておられるのです。

 それでは、中陰中の法要を営むのはどうしてなのでしょうか。またどのような心でつとめればよいのでしょうか。
 経典によれば、浄土の蓮華の中に生まれた者も、その前生の善悪の果報によって、華の開く時期に早い遅いの差があると説かれています。その差を「華合の障り(けごうのさわり)」といいます。したがって、中陰中の法要は、亡くなった人の華合の障りが一刻も早く解けるように、亡くなった人と共に懺悔することなのです。
 
 中陰の間の四十九日は、このことに深く思いを致し、自分にとってかけがえのない人の死を契機として、仏縁に目覚めるよう自ら努めるための、いわば修養期間です。

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