浄土宗と浄土真宗について    

 圓光寺は浄土宗西山禪林寺派のお寺です。よく檀家様、またそのご親戚の方とお話した時に、次のようなご質問を頂くことがございます。「浄土宗と浄土真宗はどう違うのでしょうか?」というものです。ということで、これからちょっとその違いについて触れてみたいと思います。

 まずはそれぞれの宗派の開祖についてご説明いたします。浄土宗は法然(11331212)、浄土真宗は親鸞(1173-1262)ということは広く教科書等で知られるところであります。簡単にそれぞれについてご説明すると、以下のようになります。

 法然

1133年(長承2)に美作(現在の岡山県)に生まれる。役人(押領使)である漆間時国の子で幼名を勢至丸といった。9歳の時に父が夜討に遭うが、遺誡により仇討を断念、13歳で比叡山に登る。天台の教学や、その他多くの仏教教理を学び研鑽を積むも自身の納得のいく理解を得ることができなかった。1175(承安5)43歳の時、経蔵で中国の浄土教の大成者、善導(613681)の著『観無量寿経疏』散善義の「一心専念弥陀名号」の文により心眼を開き専修念仏に帰した。まもなく叡山を下り、東山吉水においてあらゆる人たちに浄土念仏の教えを説き、感化を蒙る人が激増した。1198年(建久9)九条兼実の請により『選択本願念仏集』を著し、一宗を確立した。その後、専修念仏の広がりとともに比叡山を含む旧仏教からの弾圧を受け、75歳の時土佐(高知県)に流罪となる。翌年流罪を解かれ、再び東山大谷に帰り、教化を続ける。1212年(建暦2123日弟子源智に『一枚起請文』を与え、25日に80歳で示寂。

 親鸞

1173年(承安3)に皇太后宮大進日野有範の子として京都に生まれる。公家とは名ばかりの貧しさのため、9歳の時に出家し比叡山に登る。20年間の常行三昧堂での修行では悩みを解決することができず、29歳の時に聖徳太子の創建した六角堂に参籠し、95日の暁に太子の示現を受けて法然を訪ね、自力雑行を捨てて、他力本願に回心した。1207(承元1)念仏弾圧で法然が四国に流された時、親鸞も越後(新潟県)に連座して流罪となる。4年後赦免にされると、家族とともに常陸(茨城県)に移住し、京都に帰るまでの20年間関東各地を流浪して布教してまわる。この頃『教行信証』が書かれたと言われる。1262(弘長21128日弟尋有の坊舎で没。90歳。

さて、この中で、法然をして浄土教に傾斜させた『観無量寿経疏』なる注釈書にあった浄土教の教えとは何でしょう。それは“自分は悟る力などない凡夫であることを自覚し、ひたすら阿弥陀仏にすがりなさい。阿弥陀仏はそういう人を救ってくれるのだ”という内容の教えです。またいわゆる“浄土三部経”とよばれる経典のうちの『無量寿経』の中に阿弥陀仏が仏になる前の、まだ法蔵菩薩と名乗っていた頃の物語が載っています。その中で菩薩は48の願を立て、それらが達成されなければ仏にならないと誓いました。その十八願、念仏往生願といわれるものですが、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」という文があります。これは十方の衆生が自身の浄土に生まれたいと欲して10回念じてもかなわないなら、自分は仏にならない、という意味です。逆にいえば、阿弥陀仏は既に仏になっているのだから、この願は達せられており、阿弥陀仏に対する信心さえ起こせば、我々は既に救われている、ということになります。だから、念仏は仏に対する報恩感謝のものであり、余計な自力の行を徹底的に否定し、念仏のみを肯定する、(絶対*)他力の思想であります。(注:真宗では信心を得ることも仏の願力によるという意味で“絶対”を付加することが多い。なお、“他力”を他人の力とするのは誤りで、いわゆる自力を支え自力の根源をなす超越的な力を意味する)

  法然、親鸞ともこの“他力”の教えを強調しました。時に時代は平安末期、1052年より末法(教えだけが残り、実践行・悟りがない)の時代に入ったと考えられていた。それを裏付けるように災害や戦乱が続発したため、末法意識が強まりこれを救う教えとしての浄土教が急速に広まったと考えられます。特に自力の修行の不可能な庶民の間で圧倒的な支持を受けました。

  さて、以上のように法然と親鸞はもともと師弟関係にあり、その信じる教えも“他力”の浄土教ということで共通しています。実際親鸞においては<浄土真宗>とは、特定の宗派名ではなくて、阿弥陀仏の浄土に往生する道そのもの、またはその教えの本質的意味をあらわしている。そして、親鸞は師の法然に対して反抗する意識はなかったから、彼のいう<浄土真宗>とは、法然によってあきらかにされた浄土往生を説く真実の教えなのであります。

  それでもあえて浄土宗と浄土真宗が分かれている理由は何なのでしょうか。法然の弟子は親鸞だけでなく、信空・聖光(浄土宗鎮西派の祖)・証空(西山派の祖)・幸西などがいて、それぞれが門流を形成しています。親鸞がその1人として、流罪以後師である法然との再会を果たさずして、関東の地で浄土の教えを説いています。浄土真宗としての立教開宗は『教行信証』の成立を以ってとされていますが、むしろその弟子達の活動によって教団として大きくなっていったところで、改めて親鸞を宗祖として立宗とみると言えるかもしれません。ただ、浄土宗がその根本経典である浄土三部経のうち、『観無量寿経』を重視する(上記『観無量寿経疏』のもとの経であり、当然といえば当然ですが)のに対し、同じ三部経の中でも『無量寿経』を取り上げたところに、独自の展開の一端が見られるように思われます。

  念仏に対しての考え方については、法然が観念仏(仏をイメージする念仏)などを廃して南無阿弥陀仏という「称名念仏」を行うことを選んだ一方で、親鸞はさらに、人が自力に頼ることを止めたとき、阿弥陀仏そのものに“称えさせられている”という他力の念仏を主張しています。前者を特に“念仏為先”という一方で、後者を“念仏為本”といって阿弥陀仏の本願を信じるという、その信心だけを強調する姿勢があります。

  あとは教義的にはあまり関係ないのかもしれませんが、浄土宗が出家仏教の伝統を継承しているのに対し、親鸞は肉食妻帯して非僧非俗を宣言し、自らを“愚禿”(ぐとく)と称しました(愚かな凡人の意)。親鸞は徹底して自己否定した上で、再度自分を見つめ直し、阿弥陀仏の本願を信じれば、愚かな自分でさえも救われるということを身をもって示そうとし、在家仏教を確立しました。のちに農民を中心とした信者が一向一揆を起こしたりしたのは知られるところでありますが、これはこの在家仏教が基本になっています。また、親鸞の妻帯は破壊に当たることから、真宗門徒には戒名ではなく、法名が与えられます。

  それから浄土宗の本尊である阿弥陀如来は観音・勢至の両菩薩を脇侍とし、機に応じて諸仏も礼拝します。これに対して真宗は、「南無阿弥陀仏」と書かれた名号のみを本尊としています(仏像を置かないということではありません)。

  最後に、親鸞は臨終を待たなくても、阿弥陀仏の帰依という信心が定まったときに極楽往生が確定するとしました。したがって、極楽往生するには臨終を待つことも、阿弥陀仏の来迎を頼むこともないと説きます。浄土真宗では臨終行儀を行わないそうです(葬儀を行わないということではありません)。

    結論としては、浄土宗の宗祖法然の死後、弟子達の間で浄土教の真理を追究していく過程で分岐していった一派の1つが、親鸞の浄土真宗であったと考えるのが妥当であると思われます。それは決して法然の教えを否定し自らの新宗派を立ち上げることを目的としたものではなく、むしろその浄土教の教えをさらに深めようとしたために法然の浄土宗と乖離していったということであります。教えが浸透していく地域、対象となる階級層などの要因によって、これらはそれぞれの特色を鮮明にしていき、今日に至って別の宗派として考えられるようになったのでありましょう。

2004.4.15

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