六道について
仏教成立当時、インドの人生観の基本にある考え方として、「輪廻」の思想がありました。これは、生まれては死に、死んでは生まれる繰り返しを無限に続け、しかもこれが永遠に続くと言うものです。しかもある時は人間、ある時は畜生と姿を変えていきます。
この輪廻の苦しみから逃れることが仏教の絶対幸福、「解脱」であります。解脱した後、得られるのが悟りの世界、「涅槃」であります。
仏教の説く輪廻の構造は三界・六道にまとめられます。そのうちの「六道」は以下の通りです。
1.天上(神々の世界)
2.人間
3.阿修羅(神々の敵たる魔神)
4.畜生(横たわるもの、傍生、動物類)
5.餓鬼(霊鬼、もとは死者の霊)
6.地獄(奈落)
この六道のうち、畜生以下の三を三悪道とよび、そこに生まれると仏の教えを聴く機会、能力がないとされました。
したがって、仏教的な考え方(いかに悟りをひらくか)にとって、人間と畜生は同じ次元で精進することはできない、と言うことになります。しかしながら、上記の考え方は生きている間のみあてはまることであり、死んだ後は仏になるか、中有(49日間)の後、また六道のどこかに生まれ変わるわけで、死んだ者との間に何らかの関係が有るわけではありません。例えば、亡くなった飼い猫が何らかの影響を人間に与えるとは仏教的には考えられないと思われます。もし悪影響がある、ということであれば、それは仏教以外からきた言い伝え、極端な言い方をすれば、迷信ということになります。ただ浄土宗としての考え方は南無阿弥陀仏と念仏を称えることによって、西方極楽浄土に往生できるということでありますから、この中有のあり方すら関係ないということになります。
よく聴かれる「たたり」「罰(ばち)」という考え方は仏教的にはあり得ません。なぜなら、仏教ではキリスト教など、他宗教に見られる全知全能の絶対的な存在自体を否定しているからです。罰を与えるような存在が無いということなのです。この考え方は仏教というよりも、日本古来の因習から来たのではないかと思われます。ただし、罰があたらないように常に自分を戒め、自己確認をすると言う意味であれば、仏教的には十分満足しうる姿勢と評価できるのではないでしょうか。また先祖は佛罰やたたりがないようにということでおまつりするのではなく、報恩のため、自分の心の養いの為に行うべきではないでしょうか。
蛇足ながら、墓にまつわるいわれ(墓の形によって不幸を招く、何でもないときに墓を建てると縁起が悪い、など)は仏教とはまったく関係がありません。ただ、「墓相学」という江戸末期に起こった「学」がありその学に拘られるのならば、色々考えられることもあるかもしれません。(しかし、これもまた仏教とは関係無いものであります)
2001.6.6