あさくら・ふみお <名>朝倉文夫
 1883(明治16)年〜1964(昭和39)年。旧上井田村(現豊後大野市朝地町)に渡辺要蔵の三男として出生。10歳の時、養子として朝倉宗家を継ぐ。19歳で旧制竹田中学を中退して上京。1903(明治36)年、東京美術学校彫刻選科入学。在学中に1200点もの作品を制作し、1907(明治40)年、首席で卒業。その後、卓越した描写力で「自然主義的写実主義」といわれる作風を確立し“東洋のロダン”と呼ばれた。1919(大正8)年に帝展審査員になったのを皮切りに、1921(同10)年に東京美術学校教授、1924(同13)年に帝国美術院会員となり、1948(昭和23)年には文化勲章を受けた。代表作に「墓守」など。母校(現県立竹田高校)敷地内には「競技前」がある。また、旧制竹田中学の校章は在学中にデザインしたものとされる。郷里である朝地町には記念館があるほか、東京都台東区に朝倉彫塑館がある。舞台芸術家で画家の朝倉摂(本名・摂子)は長女、彫刻家の朝倉響子は次女。

うたひめでんせつ <名>宇田姫伝説
 平安時代中期、関白藤原基経(ふじわら・もとつね=836〜891年)の次男仲平(なかひら=875〜945年、後に左大臣)が大宰府に下向し緒方荘に居を構えた。宇田(現豊後大野市清川町宇田)の富豪の娘を側女とし一女をもうけた。女児は「華の本」と名づけられ、後に里人から「宇田姫」と呼ばれた。その姫のもとに夜な夜な通う男があった。男が素性を明かさぬため、母の命で姫は苧環(おだまき)の糸に針を付け男の衣の襟に刺しておいた。男はいつものように夜明け前に姿を消したため、姫は家来とともに糸を手繰って、男を追った。糸は祖母山の嫗嶽(竹田市神原)の岩屋の中へと続いていた。姫は岩屋の中に向かって男に姿を現すよう求めたところ、二抱えほどもある大蛇が現れた。姫が首の針を抜くと大蛇は「我は嫗嶽大明神の化身、我の遺した子により、そなたの家は代々栄えるであろう」と言い残し息絶えた。姫はやがて男児を産み落とした。この男児が大神惟基(おおが・これもと)であり、その五代目の子が緒方三郎惟栄(おがた・さぶろう・これよし)である。
 ※清川村作成の冊子「神楽の里」より抜粋、加筆。

おうぎもりじんじゃ <名>扇森神社
 祭神=猿田彦神、保食大神、大宮女命、稲荷神。
 所在地は竹田市拝田原字桜瀬811で、第二代岡藩主・中川久盛公により元和元(1616)年に創始された。
 天保年間(18301843年)、第12代岡藩主・中川久昭公が江戸屋敷でのある夜、枕辺に御神霊が現れ「明日の登城は危険である。十分に警戒せよ。我は領内桜瀬の稲荷狐頭源大夫なり」と告げて消え去った。次の日、登城の途中、暴漢に襲われたが、十分に警戒をしていたので難を免れた。久昭公は稲荷神社の御神徳に感謝し、国許に使いを走らせて、社を新たに造営し、社号を「扇の森稲荷神社」とした。しかし、御神霊が「稲荷狐頭源大夫」と名乗ったことから、久昭公や家臣は通常「狐頭様」と呼んで信仰し、正式名称は「扇森稲荷神社」だが、通称は「こうとうさま」と呼ばれている。
 明治16(1883)年火災により焼失したが、ほどなく復興した。
 ※竹田市観光ツーリズム協会ホームページ・タケタンより。


おかじょう 
<名>岡城
 牛が伏せた姿に似ることから「臥牛城」の別名がある。大野川の支流、白滝川を見下ろす竹田市の天神山は天然の要害で、難攻不落の城として知られた。
 文治元(1185)年、緒方荘の緒方三郎惟栄(おがた・さぶろう・これよし)が、源頼朝と仲違いをした弟義経を迎えるために築城したといわれる。これについては、歴史的事実ではないとする学説もある。
 後に大友氏の支族である志賀氏の居城となり、天正14(1586)年から翌年にかけての豊薩戦争では、島津軍の前に大友方の諸城が相次いで落城する中、弱冠18歳の志賀親次(しが・ちかよし、ちかつぐ)が守将として猛攻をよく凌いでもちこたえ、豊臣秀吉から感状を受けた。文禄2(1593)年、大友氏が朝鮮出兵の際の不手際のせいで秀吉により所領を没収されると、志賀氏も城を退去した。
 翌文禄3(1594)年、播磨国(現兵庫県)から中川秀成(なかがわ・ひでしげ)が入部し、徐々に近世城郭としての姿を整えた。山城的殿舎(御廟)、平山城的殿舎(本丸、二の丸、三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成されており、近世城郭史上特異な城である。明治7(1874)年、県による入札・払い下げで建造物すべてが取り壊された(竹田市教育委員会「岡城の歴史」より抜粋、加筆)。
 <参>岡城は太平記にも登場してくる。「探題と大友とは豊後の高崎に引き籠り、太宰少弐は、岡の城にたて籠り、大宮司は宗像の城に籠りて、嶮岨を命に頼みければ、菊池は豊後の府内に陣を取り、三方の敵を物ともせず、三つの城の中を押し隔てて、今年はすでに三年まで、遠攻めにこそしたりけれ」。南朝方で活躍した菊池氏と、北朝方に与した大友氏、太宰少弐氏、宗像氏との戦いについて記述したくだりで、時は延文6(1361)年ごろの出来ごと。


おかはん 
<名>岡藩
 現在の大分県竹田市と同豊後大野市の大半を領した江戸時代の外様藩。藩庁は岡城。豊臣秀吉により大友家が所領没収された後は、豊後国は小藩分立状態が江戸末期まで続いた。その中でも岡藩は最大で、表高は7万石だったが実高は10万石と言われた。初代藩主は中川秀成。織田信長、豊臣秀吉に使えた中川瀬兵衛清秀の次男で播磨国三木城主だったが、1593(文禄3)年に岡城に移封された。1600(慶長5年)の関ヶ原の戦いで東軍に属したため徳川家康から所領安堵され、秀成から久昭まで12代、明治4(1871)年の廃藩置県まで一度の転封もないまま推移した。


おがたさぶろうこれよし 
<名>緒方三郎惟栄
 生没年不詳。平安末期、緒方荘の荘司だった武将。源頼朝に呼応して挙兵し、都落ちしてきた平家を大宰府から追い落とした。その一方で、対立した宇佐八幡宮を焼き討ちした上、神宝を奪う一挙に出、これが後に問題とされた。源平合戦では源範頼軍の九州渡海を助けるために82艘の船を調達するなど、源氏方として活躍した。惟栄の名は都にも知れ渡り、平家物語、吾妻鏡などの文献にも登場する。頼朝に追われる義経を迎えるために竹田の地に岡城を築いたとされる。また、義経を擁して頼朝に対抗するため摂津(現兵庫県)の大物浦から九州に向けて船出するも、時化のため難破。惟栄は囚われ、所領没収の上、上野国・利根沼田(現群馬県沼田市)の荘領主、波多野四郎太夫経家に預けられ、その所領である利根に配流された。後、赦されて帰国したと言われるが、その後の消息は不明。なお、配流先で惟栄がもうけた男児は、三郎、後に惟泰を名乗り沼田氏の祖となったとの説が現地に残されている。
 <参>「維栄は怖ろしき者の末なりけり」(平家物語)。「そもそも維栄と言うは、大蛇の末なりければ、身健にして心も剛にして、九州をも討ち随え、西国の大将軍と思うほどの人なりけり」(源平盛衰記)。「豊後国の住人臼杵次郎維隆、緒方三郎維栄、去る年の合戦の間、宇佐宮の宝殿を破却し、神宝を押取る。之に依りて配流の官符を下さると雖も、去る四日、非常赦に逢い…」(吾妻鏡)。※中央の文献では「惟栄」ではなく「維栄」あるいは「維義」とされている。


おんだけじんじゃ <名>御嶽神社
 豊後大野市清川町宇田枝字御嶽3368番地。主祭神は「国常立命(くにとこたつのみこと)」「彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)」「少彦名命(すくなひこなのみこと)」。宝徳元年(1449年)、豊後国太守14代大友親隆が宮崎・南郷村の行縢(むかばき)山の麓で薩摩軍と戦った際、行縢山に向かい「神のご加護によって戦に勝利したならば、自分の領地に行縢の神をお迎えしお祀りいたします」と誓い、戦に勝利した。凱旋した親隆の夢枕に「行縢の神」が立ったため御嶽山(標高560メートル)の山頂に社を建立した。御嶽神社は江戸時代に入っても岡藩主中川公から代々手厚く保護されており、神社の紋所が中川家と同じであることからもそれが伺われる。

おんだけかぐら 
<名>御嶽神楽
 宝徳元(1449)年、豊後国守大友14代出羽守親隆が島津軍の戦に勝利し、その祝いの宴の余興として始まったのが御嶽神楽と言われている。舞には33通りあり、口伝によって伝承されている。2007年3月7日、国の重要無形民俗文化財に指定された。御嶽神楽の流れをくむ神楽は県内外各地に伝わっており、御嶽流神楽と呼ばれる。毎年4月の第1日曜日に行われる「御嶽流神楽大会」には県内外から御嶽流の神楽が一堂に会し、本格的な舞いを披露する。

きっちょむ <名>吉四六
 江戸時代の野津市(旧臼杵藩領、現臼杵市野津町野津市)を舞台に、ユーモラスに描かれた「吉四六ばなし」の主人公。一見間抜けに見えながら、生き生きと、しかもしたたかに日々を過ごす吉四六さんの活躍譚は、今も大分県民に読み継がれている。
 吉四六さんは野津市に実在した廣田吉右衛門とされる。代々、吉右衛門を名乗ったらしいが、物語の主人公は、大分合同新聞社刊「吉四六ばなし」の後がきによれば、寛永15(1638)年生まれで正徳5(1715)年に88歳で死去。屋敷の敷地は数百ヘクタールにわたったとされ、相当な大百姓であったと思われる。物語では、主要な登場人物の一人に「庄屋さん」もいて、吉四六さんはお百姓の一人として描かれている。
 この吉四六ばなしを題材にした県民オペラ「吉四六昇天」(初演1973年)は東京などでも上演され、好評を博した。大分出身のバリトン歌手、立川澄人さん(後に清登、1985年死去)が吉四六さんを熱演した。
 なお、一風変わった「吉四六」の名は、「吉右衛門」から「きちえむん」→「きちえむ」→「きっちょむ」と転化したと見られる。ちなみに、物語の登場人物「ごんよむ」は「権右衛門」からの転化か。では、妻「おへま」は?

くじゅうさん <名>
 古来、「九重山」と「久住山」の二種類の表記があるが、今では主峰を「久住山」(標高1786.5b)と表記し、三俣山(標高1745b)、大船山(標高1786.2b)なども含むひとつの山塊としての存在を「九重山」あるいは「九重連山」と書く。これは九州山岳連盟会長をしていた加藤数功氏が昭和12(1937)年に出版した『九州山岳』で「九重山を山群の総称とし、久住山を主峰の名とすれば良い」と提起したことによる。ただし、国立公園の名前としては「阿蘇くじゅう国立公園」である。かつて一帯を含む公園名は「阿蘇国立公園」であり、大分県が名称変更を国に働きかけた際に「九重」と「久住」のどちらかに統一する必要が生じたが決着がつかず、平仮名を採用することにして昭和61(1986)年に「阿蘇くじゅう国立公園」となった。
 九重連山の最高峰は中岳(標高1791b)で、九州本島での最高峰でもある。
 竹田市の岡城から見ると、一連の山容が人の寝姿に見えることから釈迦入滅の姿「涅槃図」とも称される。山中の湿地「坊がつる」及び長者原の「タデ原」が平成17(2005)年にラムサール条約に登録された。
 万葉集に出てくる「朽網山(くたみやま)」であるとする説が有力。古くから信仰の対象であり、人々が崇めた神は「健男霜凝彦命(たけおしもごりひこのみこと)」とされる。これは祖母山の山頂にある神社「健男霜凝日子神社」に祀られる神の名と同じである。
 『豊後国志』には延暦年間(782〜806年)に「九重山白水寺法華院」が開山したとあり、法華院の別称として「歓喜院」の名称が見え、「九重山明神祠創建」とあるという。また、「大船山神祠」の創建も同時期とされる。さらに、久住山南麓にかつてあった「久住山猪鹿狼寺」(読みは「いからじ」で、もと大和山茲尊院)は延暦24(805)年に天台宗開祖である最澄が開基したとの説がある。両寺ともに天台密教の修験場の拠点として多くの天台僧が修行していた。また、ともに「十一面観音自在菩薩」を本尊とする。戦国末期、薩摩軍の来襲で兵火にかかり堂宇の大半が焼失した。、
 江戸時代になると、南麓の猪鹿狼寺は熊本藩、法華院は岡藩の領地とされた。江戸初期に中岳直下の賽の河原に造営されたとされる上宮は、両寺が共同で祀っていた。明治になると廃仏毀釈のために、隆盛を極めた往時を偲べるものはほとんどが失われた。
 法華院は戦後も台風などでたびたび被害を受けたが、平成18(2006)年に法華院観音堂が再建され、同時に法華院本尊十一面観音自在菩薩、二脇士の不動明王と毘沙門天の三尊の修復が成った。また、猪鹿狼寺は明治になって仏教排斥運動の煽りを受けて一旦は廃寺処分となったが、明治18(1885)年に復興が許可され、竹田市久住町の町中に移った。※『九重山 法華院物語 山と人』(弦書房)

くにみいわ <名>国見岩
 1794年?〜1846年12月21歿。江戸時代の力士。本名は衞藤文五郎(えとう・ぶんごろう)。旧清川村宇田枝の農業、衞藤養助の二男として生まれる。幼少時代より人並み外れた体格を誇り、長じて身長180cm、体重150kgに。岡藩お抱え力士の中でも随一といわれた。城下町の竹田で45kg入りの米俵2俵を両脚に結びつけ、更に2俵を両手に提げて軽々と街中を歩き回って見せ、「文五郎の力見せ」と有名になったという。大阪・天王寺で行われた全日本相撲大会で行われた力持ち競技でのこと。570kgの砂袋を12cm角の材木に結び付けて天王寺の階段を登るのを競った。国見岩ともう1人の力士が登りきったが、余力のあった国見岩が「ああ重かった」と言ったのに対して、もう1人の力士がへとへとでありながら「ああ軽かった」と言ったがために国見岩が日本一の力士になれなかった。木浦字生木(旧宇目町)で原因不明の最期を遂げた。死亡現場にあったのは頭蓋骨と胴籃、脇差だけだったという。豊後大野市清川町宇田枝天神久保に「国見岩」の文字が刻まれた巨大な石碑がある。

こうじょうのつき <名>荒城の月
 @明治時代の竹田市ゆかりの作曲家、瀧廉太郎が作曲した名曲。作詞は土井晩翠。廉太郎は岡城を念頭に曲を作り、晩翠は出身地の名城・青葉城をイメージして詞を書いたとされる。JR豊肥線・豊後竹田駅では列車がとまるごとにこの哀調を帯びた曲を流している。
 A竹田を代表する銘菓。創業1804(文化元)年の大分県で最も古い岡藩御用達の和菓子の老舗、但馬屋が作る名物和菓子。藩主家に献上していた当時は「夜越の月」(やごえのつき)という製品名だったが、後に瀧廉太郎の名曲にちなんで改められた。


じんかくじ <名>神角寺
 豊後大野市朝地町島田にある古刹。欽明天皇の時代(571年)に創建された。平安初期の朝地町周辺は原野に馬を飼育し、弓馬の術に長けた兵士が多い重要な地だった。そのため、大友氏が入部するまで豊後に根付いた大神氏は、武士を養成して強力な武士団を築き発展し続けていた。当時は、この地を支配していた豊後大神武士団の領袖、大野氏の庇護も大きく、神角寺は鎌倉時代のはじめまで西国の一大霊場として栄えた。その後は室町時代に大友氏が中興し、六坊を建設。現在の本堂は室町時代の1369(応安2)年に建立されたもので、六坊のうちの東の坊にあたる。三間四方四角形の建物に、宝形造り、檜皮葺き屋根が美しく、軒反りなど随所に禅宗様式が香る貴重な建造物。山門にある二体の金剛力士像は、本堂より古い製作といわれる。

そぼさん <名>祖母山
 九州山地の大分・宮崎県境に聳える秀峰(標高1756b)。九州山地の主峰。古称「姥岳(うばだけ)」。山頂には「健男霜凝日子神社(たけおしもごおりひこじんじゃ)の上宮である石の祠がある。祭神は風や水、霜を司るとされる健男霜凝日子神と豊玉姫、彦五瀬命。記紀によれば、豊玉姫はホホデミノミコト(山幸彦)との間にウガヤフキアエズノミコトをもうけた。ミコトは成人してタマヨリヒメと結婚し、カムヤマトイワレヒコ、彦五瀬命等4人の子供をなす。カムヤマトイワレヒコは後に初代天皇「神武天皇」として即位する。豊玉姫は神武天皇からすると「祖母」にあたる。祖母山の名前はそのことに由来するといわれる。

たき・れんたろう <名>瀧廉太郎
 1879(明治12)年〜1903(明治36)年。明治時代の作曲家、ピアノ奏者。東京市芝区南佐久町二丁目18番地で生まれる。官庁勤めの父について横浜、富山、東京、大分と移り、明治25年1月、12歳の時、直入郡長となった父とともに竹田へ。直入郡高等小学校第二学年に転入し、5月には第三学年に進級。約300坪の広い敷地に重厚な門と土塀がめぐらされていた武家屋敷が郡長官舎で、ここから約1`bの小学校に通学した。1899(明治32)年、20歳で東京音楽学校助教授に就任。「花」「四季」「荒城の月」などを作曲して日本の芸術歌曲を創始した。特に多感な時期を過ごした竹田に対する想いは格別であったとされ、「荒城の月」はかつて遊んだ岡城を念頭に作曲したといわれる。また、ピアノ奏者としても優れた技量を示した。1901(明治34)年、文部省の命でライプチヒ王立音楽学院に留学するも、翌年肺結核となり帰国。第二の故里大分で24歳で夭折した。竹田市には、かつて住まった屋敷が「瀧廉太郎記念館」として残されているほか、岡城にも銅像があり、所縁の芸術家の功績を讃えている。

たけおしもごおりひこじんじゃ 
<名>健男霜凝日子神社=式内社
 祭神=健男霜凝日子麓命、豊玉姫命、彦五瀬命。
 所在地は竹田市神原2441番地。
 白雉
2(651)年の創建とされ、風の神、水の神、霜の神と言われる。神紋は右巴。
 平安時代初期の延長5(927)年に成立した『延喜式神名帳(えんぎしき・じんみょうちょう)』には、直入、大野両郡内の神社としては唯一記載されている。ただし、「健」ではなく「建」となっている。所在地は「直入郡」とあることから、神原の社とみられる。「上宮」とされるのが祖母山頂にある石の祠で、竹田市神原の社は「下宮」とされる。
 このほか、豊後大野市緒方町尾平、同上畑、同小原、豊後大野市清川町六種字宮津留、宮崎県高千穂町に「健男社(たけおしゃ)」がある。
 上畑の社には「西暦512年、継体天皇の時代に大野郡上畑村、黒嶽に祖母嶽の神が御降臨されたことを知った奥嶽の宿彌は、この地に社廊を建て、神主となって以来、祭式を厳重に執り行った。その後、応永8(1401)年、奥嶽兵衛四郎入道道鉄(通称・奥嶽入道)によって、この地に遷座され社が創建される」との言い伝えがあるという。
 清川町の社には「祖母六社大権現」の扁額が掛けられている。元は同じ大字六種のうちの尾根筋に位置する佃原(つくだばる)にあったが、天変地異が続くため、尾根から外れた現在地に移されたという。ここは元、天満社の鎮座地であり、今も境内に天満社がある。しかし、健男社の社に比べて天満社は小さく、まるで摂社のようである。位置づけとしては、天満社が字(あざ)宮津留の氏神、健男社は大字(おおあざ)六種の氏神といったところであろう。なお「祖母六社」は「祖母麓社」の転ではなかろうか。
※延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)全国2861社を「官社」として収録する。これに載る神社を「式内社(しきないしゃ)」と呼ぶ。大分県に関係する神社としては、「豊後国」の直入郡「建男霜凝日子神社」、大分郡「西寒多神社」、速見郡「宇奈岐日女神社」「火男火女神社」、海部郡「早吸日女神社」、「豊前国」宇佐郡の「八幡大菩薩宇佐宮」「比売神社」「大帯姫廟神社」がある。
※健男霜凝日子神(たけおしもごおりひこのかみ)=祖母山の頂にある石の祠に祀られる神。祖母山の麓の竹田市神原(こうばる)には、直入郡唯一の式内社である健男霜凝日子神社(下宮)に祀られる神は、健男霜凝日子麓命(たけおしもごおりひこふもとのみこと)。九重連山の神としても「健男霜凝日子命(たけおしもごおりひこのみこと)」の名で古くから崇められた。日本書紀や古事記には出て来ないが、直入郡や大野郡の人々から風や水、霜を司る農耕の神として崇敬を集めた。

たじまや 
<名>但馬屋
 竹田市上町にある和菓子屋さん。創業は1804(文化元)年で、大分県で最も古い歴史を持つ。初代但馬屋幸助は、但馬の国(現兵庫県)豊岡の生まれ。京都駿河屋にて修行した後、岡藩主中川公に召されて御用菓子司となり、生国を屋号とした。代表銘菓「三笠野」は、十代藩主久貴公の命により作られたもので、歴代藩主のお茶の友として賞味された。また、満月のような「夜越の月(やごえのつき)」は後に瀧廉太郎の名曲にちなんで「荒城の月」と改められた。
 ※但馬屋HPを参照

たのむら・ちくでん <名>田能村竹田
 1777(安永6)年〜1835(天保6)年。江戸後期の文人画家。豊後国直入郡竹田村(現竹田市)生まれ。岡藩主中川氏侍医、碩庵の次男。藩校由学館に学び、絵は淵野真齋、渡邊蓬島に師事。熊本、京都に遊学、江戸で谷文晁に師事。のち藩校に出仕して総裁となる。画風は明、清風に工夫を加え、独自に研究の結果、穏やかな内に憂愁感を含む独特の画風を築いた。藩が江戸から招請した医師で学者、唐橋世済(からはし・せいせい、君山)による「豊後國誌」の編纂に参加した。1811(文化8)年、岡藩から東九州に拡がった専売制反対の農民一揆に際し、藩政改革の建白書を提出したが容れられず1813年致仕した。風流文雅を好み多才多能で、詩歌・文章、書画・茶・香みな通暁したという。しばしば京阪に遊び、岡田半江、頼山陽らと親交を結んだ。弟子に高橋草坪、帆足杏雨などがいる。著書「山中人饒舌」は、すぐれた南画論として知られる。竹田荘はその居宅の号。


たのむら・ちょくにゅう 
<名>田能村直入
 1814(慶応3)年〜1907(明治40)年。明治時代の南画家。6歳で田能村竹田に学び、その養子となった。維新後、京都に住み1880(明治13)年京都府画学校の設立に参画、また91年には自宅に南宋画学校を開くなど、南画の向上に尽くした。「名花十二客」「雪中山水」などが著名。


とくだ・はくよう 
<名>徳田白楊[解説]本名、森下文夫。1911(明治44)年〜1933(昭和8)年。緒方の生んだ歌人。旧制竹田中学時代から小説を書き同人誌「ポプラ」を発行。歌人、土屋文明に認められ若き天才歌人として注目されたが、21歳で夭折した。

中川家代々藩主=
「江戸300藩 最後の藩主」(八幡和郎著、光文社)と「中川史料集」(北村清士校注 新人物往来社)を参考にしました。
<初代藩主>なかがわ・ひでしげ <名>中川秀成、「ひでなり」とも
 戦国武将、中川瀬兵衛清秀の次男。幼名は石千代、後、小兵衛尉従五位下に叙し、修理大夫に任ぜられる。母は熊田隠岐守小野資利入道宗白の女。室は新庄駿河守藤原直頼の養女、実は佐久間玄蕃允平盛政の女で、諱は虎。兄秀政が朝鮮で死亡した後を継いで当主となり、文禄3(1594)年、秀吉の命で播磨国(現兵庫県)三木城から家臣4000人を引き連れて岡城に入る。


<二代藩主>なかがわ・ひさもり 
<名>中川久盛
 初代秀成の嫡男。幼名清蔵、従五位下に叙し、内膳正に任ぜられる。母は新庄駿河守藤原直頼の養女、実は佐久間玄蕃允平盛政の女、室は松平隠岐守源定勝の女、諱は万。


<三代藩主>なかがわ・ひさきよ 
<名>中川久清
 1615(元和元)年〜1681(天和元)年。二代久盛の嫡男。母は松平隠岐守源定勝の女。幼名津丸、後に清蔵、瀬兵衛。従五位下に叙し山城守に任ぜられる。室は石川主殿頭源忠総の女、諱は種。
 江戸初期の七賢将の一人。1635(寛永12)年、父の遺領である岡藩を継いだ。  1666(寛文6)年致仕、竹田で死去。九重連山をこよなく愛し、中でも大船山には何度も登った。険しい山道は馬や籠では行けず、人の背に置く鞍を作らせてそれに乗ったといわれる。「入山」と号した。大船山の中腹には「入山公墓」がある。

 
<参>入山公が大船登山をした際に人に担がせた「人馬(ひとうま)」については作家、白石一郎の短編集「島原大変」(文春文庫)に収められている「ひとうま譚」に、その様子が描かれている。それによると、人馬を担ぐ役目は直入郡荻村(現竹田市荻町)の菅家と大野郡清川村(現豊後大野市清川町)の三代家だったとある。

<四代藩主>なかがわ・ひさつね 
<名>中川久恒
 三代久清の嫡男、母は石川主殿頭源忠総の女。幼名清蔵。従五位に叙し佐渡守に任ぜられる。室は松平新太郎源光政の女、諱は佐阿。


<五代藩主>なかがわ・ひさみち <名>中川久通
 四代久恒の嫡男。母は室は松平新太郎源光政の女。幼名主膳。従五位下に叙し、因幡守に任ぜられる。室は酒井雅楽頭源忠清の女、諱は紀伊。


<六代藩主>なかがわ・ひさただ 
<名>中川久忠
 五代久通の三男。母は
酒井雅楽頭源忠清の女。幼名万之助、従五位下に叙し内膳正に任ぜられる。室は松平讃岐守源頼豊の養女、実は正親町前大納言藤原実豊の女、諱は久。

<七代藩主>なかがわ・ひさよし 
<名>中川久慶
 安芸広島藩主浅野綱長の十六男。室は久忠の養女、実は公族老職中川主馬源久周の女、諱は清、継室は松平甲斐守源吉里の女で婚姻前に久慶が死去。


<八代藩主>なかがわ・ひささだ 
<名>中川久貞
 下総古河藩主松平信祝の二男で、岡藩八代藩主。倹約令を中心とした改革で逼迫していた藩財政の再建を図った。学問や武道を奨励し、藩校「由学館」、医師養成所「博済館」、武道修練所「経武館」を設けた。


<九代藩主>なかがわ・ひさもち 
<名>中川久持
 八代久貞の二男である中川久徳の四男。幼名香橘、後に祝之丞、従五位下に叙し修理大夫に任ぜられる。室は藤堂和泉守藤原高嶷の女、諱は穀。婚姻前に久持死去。


<十代藩主>なかがわ・ひさたか 
<名>中川久貴
 九代久持の養子、実は松平甲斐守源保光の五男。幼名三千蔵、また万之助。従五位下に叙し修理大夫に任ぜられる。隠居後に隼人正と称す。室は松平伊豆守源信明の養女、実は信明の弟である長沢直次郎信邦の女、諱は満。


<十一代藩主>なかがわ・ひさのり 
<名>中川久教
 十代久貴の養子、実は近江彦根藩主井伊修理大夫藤原直中の四男。幼名悌之丞、従五位下に叙し修理大夫に任ぜられる。室は久貴の嫡女、諱は絢。


<十二代藩主>なかがわ・ひさあき 
<名>中川久昭
 岡藩最後の藩主。伊勢津藩主藤堂高兌の二男。久教に子がなく、没後に養子とすることを幕府に願い出て認められる。幼名茂丸また大蔵と称す。従五位下に叙し修理大夫に任ぜられる。
 勤皇の立場から御所の警備に兵を出した。しかし、兵の数が少なく東征に十分な対応が出来ず(朝廷に)叱責を受けた。その後も勤皇の姿勢を維持し、関東、東北方面に兵を送った。

<岡藩知事>
なかがわ・ひさなり <名>中川久成
 岡藩最後の藩主である久昭の嫡男。養母は加藤遠江ま持つ藤原泰済の女。室は細川中務少輔源之寿の女、諱は美。継室は押小路正四位藤原実潔の女、諱は潔、通称は恒。明治二年から同四年まで藩知事。


ひめだるま <名>姫達磨
 竹田市の特産民芸品。真っ白い顔に切れ長の目、おちょぼ口、真紅の着物には竹や松の模様が描かれている。江戸時代前期、豊後岡藩の貧しい武士の妻をモデルに作り始められたといわれている。正月の縁起物として飾る慣わしがある。また、嫁ぐ女性に健康や家内安全などの願いを込めて贈られ、今なお旧岡藩領の人々の風習として伝わっている。


ひろせ・たけお <名>廣瀬武夫
 明治元(1868)年〜同37(1904)年。竹田市出身。明治時代の海軍中佐、海兵15期。1889年海兵卒業後、少尉任官。1897年、ロシア留学、同駐在武官となり英、米、仏などを視察。1900年、少佐。02年帰国。04年、日露戦争に戦艦朝日の水雷長として従軍し、第一回旅順港閉塞に参加。第二回閉塞に福井丸の指揮官となったが、ロシアの魚雷攻撃を受けた。沈没に瀕した艦の中を、姿が見えない部下の上等兵曹、杉野孫七を探し続けた。その後、短艇に移ったが敵弾の直撃を受け戦死した。死後中佐に特進した。部下を思う姿勢が讃えられた。しかし、それが軍当局により「軍神」として軍人精神教育に利用された。竹田市内にある廣瀬神社は、廣瀬中佐の御霊を祀って建立された。


ぶんごじょうるり・らしょうもん <名>豊後浄瑠璃・羅生門
 渡辺綱(わたなべのつな)が愛妻へまの制止を振り切って羅生門へ鬼退治に出かけ、見事、鬼の腕を切り落として持ち帰るが、近所の老婆に化けて来た鬼の口車に乗り、腕を奪い返されてしまう御馴染みの筋。大分弁を自在に駆使する語り口は、大分県人なら抱腹絶倒。語る人によって使う方言に違いがあるが、大分弁の古典であり金字塔であると言えよう。


ぶんごふどき 
<名>豊後風土記
 713(和銅6)年の詔により諸国から撰進した風土記のうち現存する五風土記の一つ。著者や成立年代は不詳。巻首に国名の由来を記し、次に日田、玖珠、直入、大野、海部、大分、速見、国東の諸郡名の由来及び各地の伝説などを漢文体で記している。【直入郡(なほりのこほり)】昔者、郡の東に桑木の村に桑生ひたりき。其の高さ、極めて陵(たか)く、枝も幹も直く美し。俗(くにひと)、直桑(なほくは)の村といひき。後の人改めて直入郡といふは是なり。【大野郡(おほののこほり)】此の郡の部(す)ぶる所は悉皆原野(みなはらの)なり。斯れに因りて、名は大野郡といふ。


ぼうがつるさんか 
<名>坊がつる讃歌
 九重連山の内懐に位置する坊がつるを題材とした歌謡曲として知られるが、そもそもは広島高等師範学校(現在の広島大学)の山岳部の部歌として歌われていた「山男の歌」を基にした替え歌であった。
 『九重山 法華院物語 山と人』(松本征夫・梅木秀徳編、弦書房)によると、昭和27(1952)年7月28日、坊がつるの「あせび小屋」にいた山仲間である九州大学地質学研究室の松本征夫、同工学部の草野一人、同文学部の梅木秀徳の三氏が「歌詞を変えて九重に合うようにしてみようか」と一気に作り上げた。
 広島高等師範山岳部の部歌の原詞は千葉大学工学部教授の神尾明正氏、原曲は宇都宮大学教授の竹山仙史氏(本名武山信治)の作である。原詞は五番まであり、「坊がつる賛歌」の一番は原詞の一番をほとんどそのまま生かしたという。
 その後、歌手の芹洋子さんが歌って全国に知られるようになった。
 替え歌が作られた当時は題名を「坊がつる賛歌」としてあった。それは「賛歌」という字の中に「替え歌」の文字が入っているからで、素人の作だという一種の気恥ずかしさが込められていたようだ。その後、「賛歌」は「讃歌」に改められた。また、三番の「山はピンクに」は「山紅(くれない)に」、「段原(だんばる)彷徨(さまよ)う」は「段原」という地名が一般的ではないと「峰を仰ぐは」と改められた。
 以下にもともとの「坊がつる賛歌」の歌詞を紹介しよう。

 一 人みな花に酔う時も 残雪恋し山に入り
   涙を流す山男 雪解(ゆきげ)の水に春を知る
 二 石楠花谷(しゃくなげだに)の三俣山(みまたやま) 花を散らして藪分けて
   湯沢に下る山男 メランコリーを知るや君
 三 ミヤマキリシマ咲き誇る 山はピンクに大船(たいせん)の
   段原(だんばる)彷徨(さまよ)う山男 花の情を知る者ぞ
 四 四面山なる坊がつる 夏はキャンプの火を囲み
   夜空を仰ぐ山男 無我を悟るはこの時ぞ
 五 深山紅葉に初時雨(しぐれ) 暮雨滝(くれさめだき)の水音(みなおと)を
   佇み聞くは山男 もののあわれを知る者ぞ
 六 町の乙女ら思いつつ 尾根の処女雪蹴立てては
   久住に立つや山男 浩然(こうぜん)の気は云いがたし
 七 白銀(しろがね)の峰思いつつ 今宵湯宿に身を寄せて
   闘志に燃ゆる山男 夢に久住の雪を蹴る
 八 出湯の窓に夜霧来て せせらぎに寝る山宿に
   一夜を憩う山男 星を仰ぎて明日を待つ
 九 三俣の尾根に霧飛びて 平治(ひいじ)に厚き雲は来ぬ
   峰を仰ぎて山男 今草原の草に伏す

ほうしょうじ 
<名>宝生寺
 豊後大野市清川町宇田枝にある1000年近い歴史を持つ古刹。鎮西八郎源為朝の建立とも言われ、かつては「為朝公背負い仏」と称される十一面観音が本尊だった。同仏は現在も本堂に安置されている。一時、廃れたが、豊後の大守鎮西探題、大友出羽親隆公の祈願によって再建された。親隆公の菩提寺でもある。紅葉の季節には本堂などがライトアップされ、幽玄な景色を浮かび上がらせる。


みなもとのためとも <名>源為朝
 1139(保延5)年〜1170(嘉応2)年。平安後期の武将。源為義の八男、源義朝の弟、母は摂津国江口の遊女。別名鎮西八郎。巨大な体躯と強弓で知られる伝説的人物。13歳の時、父為義によって九州に追放される。豊後国に居住し、総追捕使と称して諸郡に騒擾を起こす。大宰府に鎮圧の勅が出され、そのため1154(久寿元)年、為義は解官された。釈明のために上洛中、1156(保元元)年保元の乱が起こり、為義に従い崇徳上皇方に加わる。勇戦の後逃走したが捕らえられた。弓矢の技量を惜しまれ、死を免ぜられて腕の筋を切られた(抜かれたとも)上で伊豆大島に流罪となる。後に近隣の諸島を従えたが、1170年に狩野茂光の追討を受けて自害した。後世、琉球に渡って琉球王朝の祖となったという伝説がある。為朝が豊後に居住した当時、久住山で狩をした際に鉾を立てたと言われる場所が鉾立峠として伝わる。また、豊後大野市清川町宇田枝の法生寺の本堂には「為朝公背負い仏」とされる十一面観音が安置されている。


ゆうじゃくこうえん <名>用作公園
 豊後大野市朝地町にある公園。「用作」とは鎌倉時代、地頭に与えられた田地。初代豊後守護、大友能直の八男、志賀能郷が1240(延応2)年、朝地に地頭屋敷を構えた。大友氏の所領没収に伴い志賀氏が岡城を退去した後、入城した中川氏が朝地の地も引き継いだ。岡藩三代藩主、中川久清は参勤交代の道筋にあたるこの地を家老の中川平右衛門長伸に別荘地として与えた。長伸は「心字池」「丹字池」を掘り、松と楓を植え庭園としたのが現在に伝わる公園の始まりだった。藩主は参勤交代の折に立ち寄って休息をとったという。



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