喧嘩腰の語彙
地方出身者が自分の思いを標準語で伝えようとすると、微妙な雰囲気が伝わらないもどかしさを常に感じる。とりわけムキになった時などはそうだ。人間、頭に血が上ると冷静なものの言い方など出来るものではなく、そんな時に方言がチラチラと顔をのぞかせるので、端で聞いている分にはなかなか楽しい。
改めて考えてみると、標準語での言い合いというのは世の中にありうるのだろうかという気がしてくる。関東だと東京や神奈川といった首都圏の方言が幅をきかせているので、地方出身者も喧嘩腰になった時には、テレビや映画でいつか聞いたようなお決まりの台詞を使うのが関の山だ。借り物の貧困な語彙では迫力が出ない。かといって、出身地の言葉では相手に通じないし、田舎者だと馬鹿にされるかも知れないと思ってしまう。そのために、舌鋒も湿りがちになってしまう。言いたいことも言えないまま、後で「こうも言えば良かった。ああも言えたのに」と悔しがることになる。
やはり、通じないかも知れないが、言いたいことを言えたという達成感を味わうためには、正々堂々と方言で渡り合うことをお勧めする。もしかしたら、多少の紆余曲折はあっても肝胆相照らす仲になれるかも知れない。
さて、喧嘩腰で話す際の大分弁の語彙をいくつか紹介してみる。
「手前(てめえ)、この野郎」は、江戸落語やドラマなどでよく出てくる啖呵だが、大分弁にすると「わらうな、こんやたぁ」となる。「手前(てまえ)」は本来「自分」のことを指す一人称だが、いつの間にか相手のことを意味する二人称になっている。それは大分弁でも同様だ。「わらうな」は「笑うな」ではもちろんない。「わら」は「我(われ)+は」が、「うな」は「自(うぬ)+は」が縮まったものだ。つまり二人称を続けて使用しているわけだ。「自(うぬ)」は古い言葉で、今でも「自惚(うぬぼ)れ」という言葉が標準語に残っている。時代劇などでも「うぬ、この下郎」などとやはり二人称に使われることがある。面白いことに「うなわら」とひっくり返しても使う。また「吾(わが)うな」、「うな吾」という言い方もある。さらに「わら」、「うな」、「わが」と、それぞれ単体でも使う。もちろん意味は同じである。意味と言っても大した意味はなく、物を言い始める際の枕詞のようなもので、これがないと威勢がつかず、どうにも座りが悪いのだ。
「こんやたぁ」は、既にお気づきの通り、「この奴(やつ)は」が縮まっている。
「このガキャー」「こんガキャー」は大分でも使わないことはないが、「こんがきさりゃあ」と顎を引いて低い声で言うと凄みが出ること請け合いである。「さりゃあ」は「され+は」である。「され」は強調の接尾辞で、「外道(げどう)され」「極道され」などと、相手をことさらに貶める際に使われる。
「殴るぞ」と標準語で言っても語呂は悪いうえに、何だか緊迫感に欠ける。大分では「殴(く)らすぞ」、またはそれが促音便化して「くらっそ」となる。福岡あたりでも「くらすぞ」を使うようである。
大分以外では聞いたことがない言葉として「ちちまわすぞ」がある。少し勢いがつくと促音便化して「ちちまわっそ」となる。「ぶん殴るぞ」に相当する。断っておくが、「ちち」は決して「父」や「乳」ではない。第一、父や乳を回しても事態は進展しない。「ちち投ぐる(ぶん投げる)」あるいは「ちん投ぐる」、「ちち小突(こづ)く」あるいは「ちっ小突く」という言葉があって、その場合の「ちち」「ちん」「ちっ」は強調の接頭辞だ。しかし、「ちちまわす」の場合、「ちち」を強調の接頭辞だとすると「まわす」に「殴る」という意味がなくてはならないが、大分弁にそんな語彙はない。結局のところその語源は定かではないのだが、往復ビンタを4、5回もお見舞いするというほどの意味で「張り回す」に近い。
「小突かるるど」という言葉は直訳すると「小突かれるぞ」で、これも「殴るぞ」という意味だ。今まさに殴ろうとしている相手に対して、どうして受け身で言うのかは分からない。勢いがつくとやはり促音便化して「小突かるっど」となるが、撥音便化して「小突かるんど」となることもある。「ちちまわすぞ」も「ちちまわっさるっど」または「ちちまわっさるんど」と受け身で使うことがある。標準語でも使う「張り倒す」は「はりたおすど」から「はりたおっそ」と使うし、受け身でも「はりたおさるるど」から「はりたおっさるっど」「はりたおっさるんど」となる。
「うったたくど」は「うち」と「たたく」で構成されている。同じような意味の「打つ」と「叩く」を重ねて動作を強調している。これも「うったたっかるっど」「うったたっかるんど」となる。
「ずぐらわする」は強調の接頭辞「ず」と「喰らわせる」で構成されている。これも「ずぐらわっそ」、受け身でも「ずぐらわっさるっど」「ずぐらわっさるんど」と変化する。
「ふざけるなよ」は「どおくんなや」である。大分には「ふざける」に相当する言葉に「どうくる」がある。これも大分以外では耳にしない言葉だ。「道化(どうけ)」が動詞化した「道化(どうけ)る」が語源だ。標準語では「おどける」という言葉がある。大分弁では本来「どおくるなや」だが、勢いがついて撥音便化することが多い。
「なんだと」「なにを」は、「なんや」となる。「何を言っているんだ」は「なん、いよんのか」だ。これを正確に文字にすると「なに、言いよるのか」だが、これではまどろっこしいので次々に撥音便化する。
急場の折に、言う側も言われる側も、「そうか、『わら』は『我は』で、元は一人称だったな」とか「『どうくる』は『道化』が語源だったよな」などと思い出していただけると、次第に怒りも収まるかも知れない。相手より早く冷静になれれば、しめたものだ。
(2011年10月6日)