しよいねえ

 さほど大分弁に詳しくないと自ら言う知人に「どうしようもないことを大分弁で何というか」と尋ねたら、ためらいも見せずに「しよいねえ」と答えてくれた。
 何気なく使われているこの言葉、実は大分弁の特性である極めて重要な要素を含んでいる。

 この言葉を品詞ごとに分解すると、<仕様・い・ねえ>だ。
 標準語なら、<仕様・が・ない>である。
 つまり、ここでは標準語の「が」に相当する言葉として、「い」が使われていることが分かる。

 本サイトの「い」のページの冒頭に掲載してあるとおり、大分弁には主格を示す格助詞「が」と全く同じ使い方をするもう一つの格助詞「い」が存在する。
 例えば、「山が動いた」は「山、いごいた」
       「風が吹いた」は「風吹いた」
       「俺がか?」は「俺や?」

 前の言葉の語尾が「い」の段で終る言葉の場合、次に来る格助詞は「が」だ。
 例えば、「箸が折れた」は、大分弁でも「箸折しょれた」
       「橋が落ちた」も、「橋落てた」

 格助詞「い」は、遠く奈良時代には一般的に使われていたらしい。大分県高等学校国語教育研究会編「総合国語事典」(昭和51年3月1日発行)の「奈良朝文法」の項には、「い」を格助詞として示し、「主語であることを示す」と解説している。
 使用例:いなといへど語れ語れと詔(の)らせこそ志斐は奏せししひ語りと詔る(申し上げませんというのに語れ語れと仰せになればこそ、この志斐は申し上げるのです。それを私の強物語とおっしゃいます)

 本サイトの「い」のページと重複するが、萬葉集における格助詞「い」の使用例を以下に引用する。

 言清く いたくもな言ひそ 一日だに 君しなくは 堪え難きかも(そんなにあっさりと、ひどくおっしゃらないでください、一日でも、あなたがいらっしゃらないと、たまらないのです=537)
 筑波嶺の をてもこのもに 守部すゑ 母守れども 魂そ合いにける(筑波嶺の、山のあちこちに番人を置くように、母は見張っているが、私たちの魂はもう合ってしまった=3393)


 上記の訳は小学館発行「萬葉集」によったが、第一の使用例ではきちんと「が」と訳されている。また、第二の使用例も「母は」と訳しているものの、「母が」の方が訳として適切である。

 気になって、書店で古語辞典を片っ端から立ち読みしてみた。すると、どの古語辞典も、こうした「い」を「主格について強調する」と説明するが、一方で、どの辞典も「主格を現わす格助詞とする説もある」と、異説を紹介している。それだけ無視できない有力な説であるということだろう。

 我が総合国語事典は、奈良時代に限ってのことではあるが、そうした辞典よりさらに一歩踏み込んで「い」を格助詞とする立場を鮮明に打ち出している。
 しかし、惜しいことに、編集に携わった人々は、足元の大分県で、この格助詞「い」が今もなお使われていることには気づかなかったと見える。それが証拠に「後代にこれと同じ用法の語はない」と断言してしまっているのだ。
 巻末に「大分県方言」の項まで用意しているだけに、あとひといきのところだった。う〜ん、惜しい

 さて、ここで、問題提起をひとつ、しておきたい。
 韓国・朝鮮語にも、格助詞に「イ」と「ガ」があるのだ。
 前の言葉の語尾が子音の場合、「イ」を使う。イルボン+イ=イルボニ(日本が)
 前の言葉の語尾が母音の場合、「ガ」を使う。フランス+ガ=フランスガ(フランスが)

 大分弁と韓国・朝鮮語では、使い分けのルールこそ違うが、主語を表す格助詞を二つ持ち、しかも、ともに「い」と「が」であることは、単なる偶然の一致だろうか。
 奈良時代、都の人口の約7割を渡来人が占めていたという説もあるそうだ。
 そもそも奈良(ナラ)という言葉は、韓国・朝鮮語では「国」を意味する。
 文法的にも、日本語と韓国・朝鮮語はまったく同じである。
 仏教をはじめ文化が西から伝わってきたとおり、言葉にも大陸からの影響が少なからずあっただろう。
 ここまでは一般論としては分かりやすい。が、各論として「大分弁と韓国・朝鮮語の共通点」と言っても、なにやらつかみ所のない話ではあり、浅学非才の身には、これ以上の詮索は手に余る。
 どなたかにお教えを請いたい。
                                                     (2005年03月20日)

 広辞苑の編者として知られる新村出氏は1940(昭和15)年に出版した「日本の言葉」(創元社刊)の中で、万葉集や奈良時代の宣命などの中に、主格を示す「が」に相当する部分に「伊(い)」が用いられていることを挙げ、これを「純然たる主格を現はすところの助詞であります」と断定している。
 それによると、天平の改元の詔(みことのり)の中に、藤原朝臣麻呂が亀を献納したとのくだりで「藤原朝臣麻呂伊」とあり、また「(弓削)道鏡伊」といった使用例が十五、六カ所にあるほか、「万葉集の中にも少しばかり現れておる」としている。
 この「伊」についての新村氏の考察を、以下に引用しておく。旧仮名遣いや旧漢字は改めたほか、一部を読みやすいように修正した。
――学者によっては奈良朝前後朝鮮人で日本へ移住したものが上層階級にあったからそれ等の朝鮮の移民によって朝鮮語の「伊」が伝えられたのだと理解する人もあります。こういう解釈をする人はないではないが、しかしながらちょっとやそっと移住の結果として単語ならいざ知らず文法上の主格を現わすところの助詞などにもそういう外来の影響があることは、これは各国の言語の歴史の上から見てあり得ないことである。もっとも国を挙げて他国にスッカリ征服されるとか、他国の文化や言葉のために自国の文化や言葉が侵略されるという場合においては、その結果他国の文法に従うということがあるけれども、日本と朝鮮との間においてそういう結果を招いたとはわれわれは夢にも思えないのである。これはどうしても日本語と朝鮮語とが歴史以前に最も密接な関係に立っていたがために元来共同に持っておったところの「伊」というテニオハが、日本朝鮮分離以後日本は日本である程度まで用いられて保存し、朝鮮は朝鮮でそれを後代に持ち伝えて相互に分有したと見る方が正しい。(『日本の言葉』天平時代の国語より)
                                           (2011年10月08日)