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日本の名機、YS-11引退

◎◎ ありがとう、YS-11 ◎◎

2006年9月30日、戦後唯一の国産旅客機として1962年の初飛行以来、各地を結んできたYS11が、沖永良部発鹿児島行きの便を最後に国内路線から引退した。YS11は座席数64席のプロペラ機で、耐久性が高く、離島などの短い滑走路でも離着陸できるという性能を誇る名機として知られる。73年までに182機が製造されている。YS-11は、日本航空機製造が製造したターボプロップエンジン方式の双発旅客機で、第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である。YS11は、64年に沖縄から鹿児島市の鴨池空港(当時)に東京五輪の聖火を運んだ航空機としても知られる。いわば、日本の戦後復興の象徴で、愛着を感じる人も多いはずである。1952年に日本が連合国の占領から再独立し、GHQによる日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除されて数年、日本の航空路線は、アメリカ製やのイギリス製の航空機が占めており、日本の航空機を再び飛ばしたいというのは、多くの航空関係者の切望であった。1957年に日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が全面解除され、1956年に通商産業省(現・経済産業省)の主導で国産民間機計画が打ち出された。翌年から専任理事に木村秀政博士を迎えた「財団法人 輸送機設計研究協会」が設立されて、旅客輸送機の設計が始まった。開発メンバーには、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で一式戦闘機(隼)を設計した富士重工業の太田稔、川西航空機で二式大艇を設計した新明和の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)を設計した川崎の土井武夫といった、戦前の航空業界を支えた人物が参加した。当時は、木村秀政博士を加えて五人のサムライと呼ばれた。それは、敗戦後の日本経済の復活を賭けた、男たちの情熱と執念のプロジェクトであった。一般の旅客機の強度は2倍〜4倍に設定され合理的に製造が行われるが、YS-11はそのようなコストパフォーマンスとは無縁であったため、予想を遥かに上回る設計強度を持っていた。1968年にはブラジルやアルゼンチン、ペルーでまとまった数の受注を獲得した。しかし、ヨーロッパでは競合機が多いため、ギリシャのみの受注となった。ブラジルを中心として海外からの受注が相次いだ。生産数は徐々に伸び、1968年末に受注が100機を超え、この年だけで50機以上を新たに受注、1969年には7カ国15社に納入した。小牧工場は月産3.5機となり、順番待ちで発注から納入まで1年以上かかることもめずらしくなかった。全部で182機が生産されたが、営業が販売網を構築できなかったため、予想より売上が伸びなかった。また戦後の日本で初めて作った機体で実績がないため足元を見られて、原価を割った価格で販売することもめずらしくなかった。赤字は積み重なり、国会でこのことを追及され、1971年12月28日の国会で佐藤栄作内閣はYS-11生産中止を決定したのだった。この時点でのYSの民需は145機、競合機ホーカーシドレーは118機で、YS-11はフレンドシップに次ぐ好調な売り上げであった。現在でもこの決定には批判が多く、日本から国産飛行機が生まれない一番の原因となっている。9月30日のファイナルフライトの機体はJA8766とJA8768。JA8768は徳島から福岡への飛行後に鹿児島へ、JA8766が最後の沖永良部へのファイナルフライトを行った。保存の声も強かったが、機体性能に問題はなく十分に現役で飛べるため、二機ともフィリピンへ売却された。戦後の荒廃の中、日本人の敗戦という深い心の傷を救ってくれた5人のサムライと、日本の航空業界の象徴とも言うべきYS-11を我々はいつまでも忘れないだろう。ありがとう、YS-11。

長さ
全長 26.3m
全幅 32.0m
全高 8.9m
翼面積 94.8m
座席数 64席
重量
自重 14,600kg
最大積載量 5,400kg
最大離陸重量 23,500kg
機関
エンジン ロールスロイス・ダート Mk542-10K ×2
通常出力 2,680shp ×2
離昇出力 3,060shp ×2
性能
巡航速度 245kt (454km/h)
最大速度 263kt (490km/h)
航続距離 2,200km
初飛行 1962年8月30日