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突厥の鎧

ヒッタイトは現在のトルコ中部アナトリア地方にBC1750年頃突然表われBC1200年頃又突然姿を消しました。最盛期のBC1400年頃から1300年頃までの100年間はエジプトと覇権を争う程でした。ヒッタイトの首都は現在のトルコの首都アンカラの東150キロ程の所にありハットウシャシュと言いました。ヒッタイトはインド、ゲルマン語族の言語を使用するアーリア民族の一種で、原郷はロシア南部黒海北岸地帶と思われます。ヒッタイト戦士は当時アーリアにしかない特有の技術を身につけていました。ヒッタイトでは六本の幅(や)を有する軽快車輪、二輪の馬車を工夫していたから戦争の仕方そのものが他の民族よりも数段優れていて、この機動力により彼等はまたたくまにアナトリアを征服し巨大帝国を作り上げました。ヒッタイト帝国は跡形もなく地上から消え失せたはずですが、その消えたはずのヒッタイト即ち聖書で言う「ヘテ人」がヨルダン河西岸から地中海沿岸までのカナンの地に存在していて、ユーフラテスからレバノンまでがヘテ人の全土となっていました。ヒッタイトの後に鉄文化が極立つのはロシア南部に蟠踞した騎馬民族スキタイです。スキタイはBC1000年紀前半から中期にかけての頃黒海北岸を根拠地としていましたが、もともとはアジアが原郷です。BC1000年紀の前半にはコーカサスと外コーカサス、現在のグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンに相当する地域は鉄器の製造が盛んで、それが黒海北岸にもたらされます。そこに入って来たのが遊牧騎馬民族スキタイです。コーカサスと外コーカサスはトルコの東北に位置するから当然ヒッタイトからの影響が強かったのですが、ヒッタイトそのものがこの地方に鉄文化をもたらしたとも考えられます。BC1000年紀になると鉄文化は広範囲に普及し、北は中部ヨーロッパ、南はアフリカ北岸、西はスペインから東はコーカサス、メソポタミヤに至る広大な地域で鉄器が使用される様になります。ヒッタイトはイラン系と同種のアーリアです。騎馬民族はジンギス汗の蒙古も含め総じて鍛冶師を尊重しますが、これはスキタイから伝わる遊牧騎馬民族の特徴です。ヒッタイトは歴史から消えたのではなく、実は騎馬民族の中に溶け込み技術民化した可能性があります。AD5世紀頃、突厥(とつけつ)のカガン(王)が柔然(じゅうぜん)のカガンにその娘を嫁に欲しいと使者を送ると、柔然のカガンは激怒し、「もとは俺達の鉄工ではないのか?思い上りもはなはだしい!!」と言いました。有力遊牧騎馬民族には鉄工が従属していたようです。そればかりではなく遊牧騎馬民族は首長自体か又はその祖先が鍛冶師だったとする伝説を抱えていることが多く蒙古ではジンギス汗が若い頃鍛冶師だったと割合最近まで信じられていました。遊牧騎馬民族ほど鉄の霊力を恐れるものはなく突厥の首長である阿史那(あしな)氏などシャーマンであり、鉄の兜をかぶって巫術を行い、その鉄の兜を「突厥(チュルキュト)」と言うことから、民族名にまでされてしまいました。遊牧民族でなくても鉄の霊力を信じるのは古代ギリシャ、ローマでも見られる世界的な俗信です。中国タクラマン砂漠の西カシュガルは随分古くから鉄細工が盛んで鉄製品の豊富なシルクロードのオアシスとして有名です。「たたら」はタタールを言うのではないかと言われますが、砂鉄製錬や鍛造技術を中国語ではない「たたら」と呼びます。タタールの名が歴史の上に登場するのは突厥碑文に於いてで、タタールは興安嶺西側即ち外モンゴルの東北部を根拠地とする遊牧民でありジンギス汗のモンゴル族ももとはタタール族に属していました。これから独立するのはジンギス汗がこれを破った後です。タタールは突厥碑文に突厥の一氏族として記されているから突厥即ちトルコ系の種族です。モンゴル族がこれに属したと言うからトルコ系種族を首長として多数のモンゴル族がそれに従っていたに違いありません。但しトルコ族とは言ってもモンゴロイドには違いないのであって後世西へ西へと移動し現在のトルコの支配民族とはなっていますが、先住のアラビヤ系の人々と混血を繰り返しているうちに現在ではモンゴロイドとは必ずしも見えなくなっているので、現在のトルコ人を想像しては唐の時代に外モンゴルに居住した突厥の本当の姿を想像できません。「たたら」がタタールであるのならば匈奴の中にタタール族が含まれていた可能性もあります。突厥は匈奴から出ていると中国史書に記されているから匈奴の中にタタールがいたとしても別に不思議ではありません。匈奴の最盛期はBC200年頃丁度秦の始皇帝が中国統一を果した時に重なります。匈奴は恐しく広範囲に亘って移動していて西はウラル海にまで達しここでスキタイと接触しました。突厥は柔然の鉄工部族と言われるから匈奴の中の鉄工として突厥の下部々族となってタタールが従属としていたのかもしれません。スキタイはヒッタイトから鉄文化を継承し、それを更に継承したのがタタールであったのかもしれません。その継承の時に常に影の如く付き従う技術者としてヒッタイトが存在したのかもしれません。ヒッタイトは鉄文化の伝達を媒介として遊牧騎馬民族の中に紛れ込んだのかもしれません。ウイグル族ももとは遊牧騎馬民族で、この中にヒッタイトが紛れそれが自立してオアシス都市を作ったのがカシュガルです。ヒッタイトは遊牧騎馬民族の中にあって鉄文化を伝播拡張する役割を演じていたとするなら最終的には出雲まで達っしたのかもしれません。出雲の直前に伝達したのは朝鮮半島南端の伽耶(かや)国、古代日本では任那(みまな)と呼んだ所です。伽耶国は日本に領有され562年にはそれも滅され新羅に併合されました。