ヨーロッパ海外旅行
旅の心得
海外ビジネスに必要な5V1Eとは
VENTURE 何にでも首をつっこんでいく冒険心。
VOLITION 自分自身の考えを持ち、自分の意思で決める。
VOLUNTARY どんなことでも自分から進んで行動する。
VITALITY どんな環境でもやっていける心身のたくましさ。
VERACITY 正直・誠実であること。
ENTHUSIASM 何をやるにも情熱が必要。

● パーティーでの話題

天候の話、世間話からキッカケをつくる。
食べ物・料理。
お互いの国の風土・風俗・歴史・文化など。
お互いの趣味・・・音楽・演劇・美術・スポーツ・旅行など。
最近のニュース、世の中の動き。

● 不適当な話題

政治・宗教・人種の話題。
金銭・病気に絡む話。
初対面の人にプライベートな質問は避けたい。
  (特に女性に対する年齢の質問。)

☆正しき旅の心

人は何故旅をするのだろうか。人生の壁に直面したときに沸き起こる、奮い立つ心。それは蛙が揺れる柳の枝を見て、ピョンと飛びつくような奮い立つ心である。必要なのは理屈ではなく、行動である。それが分からないようなら旅行なんてしない。旅行の中で沸き起こる不思議な力・・・それを私は感動力と呼ぶ。感動という字は感じて動く、あるいは動いて感じると書く。まず動く。それは心が動くことであり、体が動くことである。動くことで、さっきまでの世界と別の世界が見えてくる。視界が広がるし、別の角度でものが見えてくる。外の世界が応え始めるのだ。ヨーロッパ旅行は多くの感動を旅人に与えてくれる。感動とは人生の生きる意味そのものに直結している。それは人生を幸福だと思う快感に通じる。感動とはただ感じることではない。その数倍、数百倍の心の高揚、気持ちの集中のことである。感じたら、心も動く、の意である。感動している時、私たちはしばしば忘我の中にたたずんでいる。その瞬間を永遠のように感じ、快感に酔いしれる。そのときの心の弾みを一語で言い表せば、幸せということである。感動することは幸福を感じることである。よく感動する人の心には感動力というしなやかな筋力がある。感動とは心が集中することであり、それに伴い心が高揚することである。集中し、高揚するから手が止まり、他のことを忘れ、心にみずみずしい感情がみなぎってくる。感動とは強い感受性のことでもある。こうして心に起こった波紋は、さまざまな変化を心身にもたらす。血流が活発になり、毛細血管のすみずみまで血液が流れ、顔色は明るくなり、目が輝き、気持ちが弾み、体の免疫力が増大する。感動は免疫系に働き、病気を抑制する効果がある。笑いが諸病に効くのと同じ効果だ。抱えているはずの嫌なことはすっかり忘れてしまい、心の中に清々しい一陣の風が流れ込んできて、心がリフレッシュされる。心がうきうきする。気持ちが積極的になり、前向きになり、万事に気持ちがいい。感動の余波は続き、感動のキャッチボールがそこから始まる。感動には心にも体にも、そして人間関係にもいい結果をもたらしてくれる。感動力は恋とも関連がある。恋とは、心のときめきである。他者を自分以上に大切に思う心である。恋をするためには心の鮮度がよくなければならない。疲れて、感動を失った心に恋は訪れない。恋とは、異性への関心ではあるが、また異性を愛するように他のものを愛する心でもある。たとえばスイスの山の花でもいいし、伝説でもいい。心が揺れ動くことが恋なのだと思いたい。恋する対象のすべてを知りたい、いつも一緒にいたいと思うことが恋ならば、ヨーロッパを旅したい気持ちも恋である。恋は、感動を鍛える最高の舞台であり、感動そのものである。出会いには感動がみなぎっている。恋とは、豊かな心の共鳴であり、感動である。それがなければ、人生は一味足りない。それは生きている限り、心に栄養を届けるものである。ヨーロッパの旅は生きがいと言える。自然界、人間界を含めてすべてのドラマは、脳の中で解釈され、照合され、その結果として感動や喜怒哀楽の感情が生まれてくる。我々の脳の中にはすでにドラマ解釈本が入っている。我々が何かに感動するのは、そのテキストのおかげなのである。一言で言えば、それは日本の教養や道徳であり、考え方である。解釈本とはすなわち日本文化のことである。日本人の脳には、日本人用の感動受信システムが備わっているのである。そのシステムこそ文化である。感動はあふれるばかりの歓喜となることもあるし、涙になって流れる場合もある。涙が出てくると副交感神経が優位になる。副交感神経は交感神経のうちの自律神経によってもたらされた緊張をほどき、心を落ち着かせ、安らかな気分にする働きがある。感動力とは、閉じた心を開く力を持っている。感動力のない人は、マイナス思考にとらわれる傾向がある。脳の若さは、自分の中に芽生えているすてきな夢を満たそうとすることで得られる。足が痛い、トイレが近い、寝つきが悪いと旅行の実現をはばもうとする要因はいくらでもある。というより、そういう要因を数えたがるのはすでに脳が若くないのである。パリのカフェで街路を眺めながらコーヒーを飲むだけでもいい。旅行によって脳の老化現象を止めることが可能である。心に浮かんだ無邪気な夢を捨てなければ、脳はいつでも若返ることが出来る。人間は慣れの動物である。知らないことを知るということは、新しい脳の配線を作ることである。創造とはこの新しい配線作りに他ならない。感動力とは、この創造の世界にわたしたちを導いてくれる力でもある。ちょっとした工夫で、まったく新しいものが現れる。その味が従来のものと違えば違うほど、感動は大きい。感動力とは、このような新世界に踏み込む能力だと思えば、マンネリを防ぐことも出来る。そんな創造意欲が、感動力を高めてくれる。自然界はなぜ感動の宝庫なのか。きらめく星空を眺めていると自分がチッポケな存在であると感じる。森閑とした森の奥にいれば、言葉にならない畏怖を感じる。それは、圧倒的な存在に気づき、自然界の中で人間が選ばれた存在ではないということに気づいてしまった瞬間ではないだろうか。人間が威張っているのは、偶然、文明を手にすることが出来たからであって、その文明も自然界の前でははかないものである。古代文明が消えていったように、われわれの文明もあと何世紀かで終わりになるかもしれない。文明が消えても、自然界はずっと続いていく。そう思うと、すべての自然界の生物は、植物も含めて人間と対等であると分かる。そこに気が付けば、人間は謙虚になれる。謙虚になった心は、自然界にいくらでも転がっているさまざまな感動の種を発見できるのである。人間には恥よりも強い感情がある。それは感動である。人間のやっかいな感情に恥ずかしいがある。知らないことを恥ずかしいと思い、人に聞くことをさらに恥ずかしいと思う。恥をかいたなどというのは、頑張った後の感動の前では、ゴミみたいな感情であることがよく分かる。どうせに続く言葉はネガティブな言葉しか思いつかない。どうせが引きずっている世界はマイナス発想の世界である。どうせの代わりに、きっとを使ってみたい。きっとがもたらすのは、ものを見る際の心の明るさである。感動をもたらすのは、どうせではなく、きっとである。お金をいくらためても感動は生まれないだろうが、そのお金を有効に使うことで我々は感動体験を得ることが出来る。どうせお金を払うのならば、プロのサービスを百パーセント期待できる旅行会社にしたい。旅行の目的はそれぞれの価値観に基づくから、個人旅行もお勧めである。ヨーロッパ旅行の体験はそうザラにできるものではない。そういうお金の使い方はもったいなくないのである。人生とは、見ていないもの、体験していないものを求めて生涯歩き続けるものだと思っている。感動は、見ていないもの、体験していないことをやることで生まれるのである。見たいと思うのは、巨大な脳を持った人間の宿命的な願望とも言える。なぜなら、脳は情報処理の器官であるが、処理の幅は宇宙大に広がり、広大無辺である。しかし、普段脳が機能しているのは、伝票のことであり、家庭のことであり、生活に密着したものであることが多い。そういうことは脳のほんのわずかな機能でできることである。脳にとっては、とても満足のいく状態ではない。見たいというのは、分かりたいと同じ意味である。ヨーロッパにいくらでも転がっている不思議の正体を見たいということである。見るものを全て見たというのは、諦めである。見るべきもの、分かりたいものはたくさんあるが、わたしはもうそれらに挑戦する意欲がありませんと言っているのと同じである。そのとき脳は、成長から反転して収縮に向かう。老化の始まりである。実は脳は常に若返る力を持っている。脳は何歳になっても、新しい情報が入ってくれば、それに対応して脳の配線を増やしていく。配線が増えることが、脳の成長となるわけだから、新鮮な情報の入力こそが、脳年齢の若さの秘訣である。感情を無理やり抑えれば、抑えられた感情は鈍感になり、感動から遠ざかってしまう。開放された心には、見るものすべて新鮮に映り、感動の連続になる。大きな空、透き通った川の水、スイスの山の動物、自然のすべてが圧倒的な存在感を示し、感動を与えてくれるようになる。それに比べると大人はかなりやっかいである。知識や先入観で見てしまうからである。感動は楽なところには絶対に生まれないものである。楽をすれば、得られる感動は小さなものになる。水は、心のうるおいになる。人間は水辺のそばに行きたがり、住みたがり、水辺が遠ければ、近くに池や噴水を作った。人間が作り出すものは全て自然界の模倣になる。脳は自然から多くのヒントを得て、いろいろなものを作り出した。それが文明である。自然は人間が持っている感動できる力を呼び覚ます巨大な装置だが、そこに必ずあるものが水である。スイスの人や北欧の人はきれいな川や湖を大切にするが、水を大切にする心があれば、自然界は人間にうるおいを与えてくれる。きれいな水を求めるスイスの小さな旅はとてもいい。きれいな水からは、心地よい感動が広がる。ヨーロッパの人の心の豊かさは、そんなところから育まれるのではないだろうか。人はそれぞれに個性があり、違う価値観を持っている。そんな意味から、私は個人旅行を勧めたい。テーマパークの自然は、自然だろうか。否、断じて否である。テーマパークにも小さな感動があるのかもしれない。日常とは異質の空間に他ならないからだ。テーマパークはいつも同じところで、動物の人形が出てくる。それは作り物だから、当然一回目は驚いても、二度目は無理だろう。テーマパークにあるのは予定である。コンピューターゲームの世界も同じである。反対に偶然こそが、われわれを一気に感動の中に導いてくれる自然界の持つ大きな力と言える。感動とは、旅先での突然の出会いであり、偶然の驚き、ハプニングである。不意の体験だからこそ理屈以前に心が動かされ、感動が大きくなるのである。自然は、人間の予測がつかない世界である。ヨーロッパの自然は私たちの全身に問いかけてくる。それが自然のスケールの大きなところである。テーマパークのような確実性もないし、安全性もない。油断がならないのである。常にしっかりした備えと緊張感を持ち続けることが感覚を鋭くしてくれる。この自然を恐れる気持ちが人を謙虚にさせ、感動体験を得るための心の準備となっているのである。感動を配達する人がいる。自分が感動したものを人に勧めたがる。そして、自分が得た感動を共有しようとする。人こそ最高の情報源であり、感動の源になりうる。誰かにとってヨーロッパの感動配達人になってあげたいものである。感動は心が演出するのであり、旅は創造である。創造されるものは、思わぬ体験の喜びである。どこか遠くへ行きたい。目的地を決めない旅。これが感動への旅の始まりとなる。小さな家出と言ってもいい。小さな家出は、感動を鍛えるかっこうの手段となる。感動力は、一人の時間が育んでくれる。だからこそ、時間を作り、旅行の機会作りに気を配りたい。テレビという道具は、私たちの想像力を退化させてしまった。視覚から得る情報は、他の情報を排斥する。人間には五感という素晴らしい能力がある。テレビは五感の中の視力を肥大化させている。もう一度、五感を取り戻すために、たまには旅行をしてほしい。旅の景色からイメージを作り上げることで、感動力はぐんと向上するはずである。感動力をもともと人間は備えている。仮に退化していても、ちょっとしたきっかけを与えることで、感動はよみがえる。自然に感動できない、スポーツに感動できない、日々の生活に感動できない。もしそう思っているとしたら、感動は人が教えてくれるものと思っているのかもしれない。感動は教えてもらうものではない。分かち合うものである。共感し合うものである。そのためには、あなたが一人で感動できる力を、まず育てることが大事である。感動力があれば、脳は衰えることがなく、前向きな気持ちを保つことが出来る。感動力のある人は、喜びを感じるときも悲しみを感じるときも、人一倍反応する力が大きい。感動力はいい顔を作るのである。感動のない日が続くことは、脳に霞がかかるようなものである。全てがぼやけて活力を失い、感情の起伏が乏しくなる。今日感動するものがなかったら、明日はお金を払ってでも感動する旅と出会って見たい。刺激を上手に加えれば、脳はぐんぐん若返る。感動力のある人は、いろいろな旅の楽しみ方を知っている。バカになれるほど人生は素敵だ。バカの前では誰もが心を開くし、受け入れてくれる。この人は何も知らないのだと相手が思えば、いろいろ教えてくれる。バカのような生きかたをしていれば、ボケないし、さまざまな感動を味わう機会も多くなる。ヨーロッパ周遊のススメ。手当たり次第に旅するのである。武者修行しているようなもので、笑ったり泣いたり感動したりしているうちに、自分の好きなジャンルが見つかる。古い街並みもいい。そのときどきの生きた時代に出会える。感動力を持って旅先で過ごすことで、至福の体験をしてもらいたい。
聖なる旅の図形

人が旅をする目的はそれぞれ違うが、大きく分けて9つのタイプがある。各タイプごとに美徳や考え、執着といったものがある。自分がどのタイプに該当するかによって、旅のスタイルも独自の完成されたものにすることが出来る。これを聖なる旅の考えと言う。ここでは各タイプの旅の形態を説明したいと思う。

タイプ1 : 道徳
タイプ1の人は、旅をする上で完全でありたい、道徳的に正しくありたいと思う人です。このような人は体調が悪い時や落ち込んでいる時には、不完全であること、欠点があることを恐れて怒りやすくなり、憤怒の感情にとらわれやすくなります。このような時は、旅の中で常に落ち着くことを意識しましょう。そうすれば、本来の能力である聖なる完全さが戻ってきます。道徳的に正しくあるためには、儒教で言う仁の心が必要です。仁とは人を思いやる気持ちです。仁に目覚めると、義を行うようになります。義とは正しい行いをするということです。タイプ1の人は保守的な面が強く、危険を避けられる本能的行動力や運動能力が高いのが特徴です。タイプ1の人は基本的に本能的な能力が中心なのですが、正しくあろうとするために、本能を抑える傾向があります。また、本能の次に感情が発達しています。本能とは自然に関わる能力なので、スイスや北欧などのように、美しくて厳しい大自然をテーマにした旅行がお勧めです。自然の厳しさは人を謙虚な気持ちにさせてくれます。大自然とは親や学校の先生以上に厳しい教育者であり、人は大自然の中で生きる限り善良な存在でいることができるのです。厳しい大自然を前にして謙虚な気持ちになれば、無理に本能を抑えつけなくても道徳をはずれることを心配する必要はなく、人はのびのびと生きていくことが出来ます。そうなれば豊かな感情も、自然に育まれるようになります。タイプ1の人が道徳をはずれて怒りやすくなるのは、実は現代社会のように人が大自然から離れてしまったのが原因なのです。ヨーロッパの美しい自然に触れることで、本来の能力である聖なる完全さを取り戻すような旅をしてみては如何でしょうか。

ワンポイントアドバイス

儒教とは古代中国の思想で、世界4大聖人の一人である孔子が説いた哲学です。古代の中国は様々な民族がいる国際社会であり、その中で儒教の考えが生まれたと言われますが、本来のルーツは謎であり、未知の哲学とも言えます。未知とは三智の事で、人智・霊智・神智の意味と言われますが、孔子はあくまで人の生き方としての人智にこだわりました。人生を生き抜くためのすばらしい智恵が儒教にはあるのです。

タイプ2 : 自由
タイプ2の人は、積極的で周囲の人から必要とされたい、愛されたいと思う人です。イメージ力があり、「好き」という感情が特にはっきりしています。タイプ2の人の判断基準は心で受けた感情です。感情面が強く、自己イメージにこだわりをもっています。感情は、感じるエネルギーで、自分の気持ちをどう受け取り表現するかに関係しています。人々と助け合い、共存しながら、仲間全体を守ることで自分を守ります。タイプ2の人は他者から必要とされるかどうかに一喜一憂する、他者依存的な面があります。そのため、本当の自分を見失いがちです。ストレスが溜まると酒を飲みすぎたり、タバコがやめられなくなったりします。そんな時は山の中で自然に囲まれながらハイキングやバーベキューでもしてストレスを発散するのが一番です。スイスの美しい山々の中で自由に行動すれば、やがて本当の自分の気持ちも分かってくるのではないでしょうか。山の頂上から、どこまでも続く雄大な大地を見渡すと、人間の悩みなど大自然の中では本当につまらないものであると思えてきます。人は人間の世界だけで生きるのではなく、本来自然の一部として存在するのです。ヨーロッパのアルプスを旅しながら、本当の自分を見つめ直すことも大事なのではないでしょうか。タイプ2の人は、困っている人を助けるのが好きですが、自分が奉仕する人々から感謝され愛情を示されることに依存しているところがあります。愛の返礼がないと、人を非難します。しかし、実際には相手が自分に与えざるを得ないように仕向けているのです。相手が自分の操作に乗らないと、逆に自分が利用されたと感じます。本当の愛とは心の中で静かに祈るものです。自分から勝ち取るものではありません。タイプ2の人は感情の豊かさからくる本来の親切さと謙遜を大切にすることで、本当に自由になり、自分の幸せのために時間とエネルギーを使うようになるのではないでしょうか。相手を思いやり敬うことを儒教では礼といいます。まず最初に相手に感謝をし、それから奉仕をすることが大事なのです。感謝の気持ちを常に忘れず、相手の自由も自分の自由も尊重し、相手を思いやる。そのとき初めて、本当の旅の仲間に出会えるのではないでしょうか。自然は飾らず、ありのままで、一つ一つが個性的で新鮮です。自分を飾らず、自分をありのままに表現できる、そんな自由な旅をしてみては如何でしょうか。

タイプ3 : 希望
タイプ3の人は希望を求めて旅をする人です。とても調和的で、自分は世界とともにあると思っています。感情が強いのですが、周りの人を気づかい、いつも感情を抑えています。何をするにも効率を重視するので、より俊敏に効果的に物事を達成する方法を探し求めています。そのため、常に効率に脅迫されています。タイプ3の人は、価値ある人間でありたいと思い、無価値な人間であることを恐れます。感情を司る右脳を抑えることで、思考を発達させているので理性的に見えますが、最後は感情で決定します。合理的な判断とは、思考か感情のどちらかですが、タイプ3の人はあくまでも感情的な力が本来の能力なのです。人間は危険と遭遇した場合、行動は3つに分かれ、第一に逃げること、第二に戦うこと、そして第三の選択肢として周囲と行動を同じくするという方法があります。タイプ3は第三の選択肢に該当します。突然に危険に出遭うとすると、群れと同調した行動をとります。つまり、衆にまぎれて自分を守るのです。これが調和タイプです。生物は環境に調和できたものだけが生き残ることが出来たのですから、人間の本来の性質は調和タイプであると言えます。タイプ3の人は人々と調和していくために、イメージ力を使います。自分の価値が高いことをアピールして、仲間の中で目立つ存在になり、警戒色を出して、自分を守ります。感情を外に出し、内にもこめていき、揺れ動くので、モジモジしていることがあります。イメージ力があり、自分の感情の揺れを、ごく親しい人以外には見せないので、感情タイプには見えません。タイプ3の人は体調が悪い時や落ち込んでいる時には、虚栄心が強くなり、周囲の人を欺くようになります。人を欺き、褒められようとするのです。欺瞞とはとても邪悪です。また、自分の成功に直接関係のあるものだけに興味を示し、自分の感情を殺し、家族を犠牲にするようになります。本当の自分を表現せず、透明な壊れやすい仮面を付けて、社会で美しく舞っているのです。しかし、感情とは人間にとって最も大切な能力であって、感情の豊かさこそが本当の人の幸せなのではないでしょうか。自分の感情を殺して、思考や本能を発達させても、その先に幸福はありません。日本の社会は知的な教養ばかりで、心の教養を教えないから、社会がおかしくなるのではないでしょうか。おかしな社会の中にいたら、いつまでたっても真実は見えてきません。日本を離れてヨーロッパを旅したとき、初めて日本という国が見えてくるのです。タイプ3の人が欺瞞という囚われから解放されるためには、後述するタイプ6の忠実さを持つことです。社会の一員であるという自己イメージを心に叩き込み、本当の自分の気持ちや家族のきずなを大切にし、家族のために尽くすことが大切なのです。タイプ3の落とし穴は、実は効率の考えにあります。人として価値あるためには、効率的でなければならないと思い、競い合って何かを達成しようとしますが、それは野心に満ちた目標になります。相互依存の精神を通して社会に心を広げれば、たとえ失敗しても社会にとっては必ずしも失敗とは限らず、失敗の中から希望を導き出すことができるのです。他の多くの人々と協力して目標を達成するという使命感を抱けば、他の人々をライバル視したり、自分の成功がおびやかされるなどと思ったりしなくなります。そして目標達成を本当に喜べるようになります。儒教では、家族の大切さを説いています。タイプ3の人はストレスを感じたら、少し仕事から離れて、スイスやドイツのロマンチック街道などを家族旅行して、自分の心の歪みからくる透明で壊れやすい仮面をはずしてみては如何でしょうか。仮面をはずすことが出来たとき、初めて真実と出会うことが出来ます。そして、真実によってのみ、さまざまな人や社会は相互の信頼を保つことが出来ることを知るでしょう。その時こそ、タイプ3の人は希望と真実で満ちた新鮮な世界を羽ばたく、一羽の美しい白頭鷲のような存在になることが出来るのです。その神聖さを象徴する白き頭は、もう二度と人をだます事を考えないでしょう。

タイプ4 : 個性
タイプ4の人は個性を求めて旅をする人です。いつもユニークでありたい、特別でありたいと思っていて、平凡であることを恐れます。基本的に感情型なのですが、感情表現が発達不足で、芸術や耽美的な生き方などを通じて、間接的に自分を見せようとします。防衛的な面が強く、危険を大きくイメージしたり早めに感知したりして直観力を使って、素早く、身を隠すことで、自分を守ります。タイプ4の人は感情を内側に押し込めていくので、屈折して繊細で、複雑な様子を見せます。イメージ力があり、「嫌い」という感情が特にはっきりしています。つまり、イメージ力が強く、考え方にくせはありませんが、感じ方にくせがあります。タイプ4の人が囚われやすい感情が、本当の自分でありたいという気持ちです。また、自分自身が本当の自分ではないと感じ取っていますが、いつか本当の自分になれると信じています。防衛的な面から、自分は外界より小さいという自己概念を持っています。そのため、乏しい自己概念の影響で他人が大きく見え、目立つ人を羨望したり嫉妬したりします。そして紳士気取りで相手に接して、相手が自分ほど洗練されていないと見くびるのです。相手に才能があると、それに対して感嘆するのではなく、自分の自己実現を脅かすものと考えます。また、過去に体験した感情にしがみつき、くよくよ考えて、今を生きることが出来なくなります。このような理由からタイプ4の人はよく憂鬱になる傾向があります。しかし、今この一瞬を精一杯生きる人には、本当の自分かどうかなどと言うことは関係ないのです。人は一人一人がかけがえのない存在であり、他人と同じくらい自分自身もまた大切な命なのです。そして、それぞれの人生の喜びや悲しみを通して、その人の独自性が発揮されるのです。過去を振り返るより、今に心を集中することで新しい自己表現は創造されます。平凡な生活の中であっても、今を大切に生きている人はみんな輝いています。それは、日常のあらゆることの中に喜びが見出されるからです。今を幸せに生きることで、過去に起きたつらい出来事を、楽しかった思い出にして自分にプレゼントするのです。そして、妬みの激情から平静さを取り戻すことです。過去の人生は決して悲劇的になるためにあるのではなく、誰もそんなことは望んでいないのです。タイプ4の人には少し難しいと思いますが、本能的な生き方をして見るのもいいと思います。そのためにもオーストリアやドイツで優雅な雰囲気を味わいながら、たくましく旅をしてみては如何でしょうか。旅の中で全力で走ったり、急に止まったりしながら自由な精神を持って堂々と行動をして、過去のしがらみを捨て、目覚めるのは今なんだと気付くことです。そして、本来の冷静で優雅さを持った特別な存在になることです。ただし、過去の悲劇的な自分を認識させて自己実現をさせようなどとは考えてはいけません。大切なのは自分らしい精神を持ちながら相手をじっと見つめ、思いやりを秘めた冷静な優雅さで相手に接することです。相手を思いやる気持ちを儒教では仁と言います。仁に目覚めれば、何が正しいかをその瞬間ごとに判断できるようになります。今の瞬間の秘訣。それは自分らしく個性的に生きるための秘訣なのです。生きる力は何よりも強い。それに気が付けば、今の瞬間の秘訣を自在に使いこなし、自分らしく明日に向かって生きていけるでしょう。明日に向かって精一杯生きていれば何とかなる。なんて事ないのです。

タイプ5 : 智恵
タイプ5の人は智恵を求めて旅をする人です。いつも知的に有能でありたいと思い、無知であることを恐れ知識を収集することに専念します。思考を行動の代用にし、複雑で孤立した思考に際限もなく夢中になります。タイプ5の人は多くの魅力的な性格の持ち主であり、その一番の理由は、理解力のたいへん鋭い聞き手であることです。そして、どのような行動からも、その根底にひそんでいる意味に大きな興味を抱き、他人を力づけ、柔和さを失わず、他人の過ちに対しても、多くの場合、穏やかに指摘します。また、人生の意義深さを知っており、さまざまな出来事の中にパターンを見つけ、日常の中にもその奥深い意味を読み取ります。他人に伝えるときは、複雑なことを分かりやすい言葉に置き換えて、簡潔明瞭に話します。他人を裁いたり、批判したりすることを好まず、物事を知ることのみに興味を持っています。このように人を裁こうとしない生き方は、彼らに分別を与えます。そして人生を洞察できるようになるのです。どんな困難に直面してもユーモアのまなざしで見ることができ、これには人々はほとほと感心するばかりです。日頃からよく観察して、対処法をよく考え、攻撃されたら、徹底的に抗戦して自分を守ります。攻撃的な能力とは集中力であり、刺激の強い対象にフォーカスしてエネルギーを注ぎ込む、一種の肉食獣的な能力であり、対象への執着にもつながります。現実の野生動物の世界では、獲物は逃げて行きますが、人間の世界においては知的な対象は逃げることはないため、そこから強烈な執着心が生まれます。何かを研究するためには膨大な時間が必要であり、そのため自分のプライバシーをたいへんよく守ります。自分の目に映るものに対し正しい判断を下し、判断が的確でなければ自分は無知に等しいと思います。正しい判断をするには、あくまでも一人で学び追求していくしかないという考えに固執しています。タイプ5の人は自分の時間や学んだ事を人と分かち合うのを惜しみます。知識はそれ自身が宝石のようなもので、心の空虚を満たすものであると考えています。周囲の人はこれほど本を読んでいる人はいないと思いますが、本人は学ぶ時間が足りないと思っています。また、相手からどのように感じているかを問われると、どのように考えているかを答えます。それは現実とはどのように感じられるかではなく、どのように意義付けられるかであると思っているからです。このタイプの人にとって、どのように感じているかを実感するのは非常に困難なことなのです。タイプ5の人はストレスによって心のバランスを失うと、自分自身に激情的な自己愛を集中し、その結果、出し惜しみをするようになります。周囲の人が自分の研究の時間を邪魔したとき、心の空しさからくる無知を感じ時間と孤独を獲得しようと懸命になります。そして、孤独になること自体が目的となってしまいます。しかし、知らなくてはならないことは無限にあり、一つの洞察は次の疑問を生み永遠の虚無の世界に落ちて行くことになります。その結果、知識や他人と関わる時間をけちるようになります。出し惜しみの激情に囚われたタイプ5の人は、まるでこそこそ逃げ回る狐のようです。狐は腐った肉を食べて暮らしているので食べたものによって害を受けることが多く、暗い穴に繁殖した病原菌に侵されやすく、獲物は小さいものだけを選びます。木の陰に隠れながら細事にとらわれるので、人生に深く関わることができませんが、自分のまわりに何が起こっているのかをよく知っています。もともと頭中枢の能力が人一倍強いため、臆病な面だけが出てくるのです。激情から解放されるためには、自分になにが欠けているのかを知らなくてはなりません。実はタイプ5の人の落とし穴は、知識へのあくなき探求にあるのです。他人から遠ざかり、知覚することと体験を同一視して、感じたり活動したりする代わりに観念にふけります。そして情報の量が体験の深さにとって代わるのです。何でも小間切れに仕切って考え、自分の人生さえも一連の個々に独立した出来事として見ているのです。タイプ5の人にとって一番難しいのは人に助けを求めることです。なぜなら、自分自身の中に助ける力を見つけようとするからです。そのため、人間関係は非常に弱くなり、人に対する責任や忠実さに問題が出てきます。タイプ5の人が忘れがちなのは、必要なものは人生における出来事の中にあるということです。本を無限に読まなくても、自ら望めば周りの世界が教えてくれるのです。探し物は何でしょう。見つけにくいものですか?カバンの中も机の中も探して見つからないのに、まだまだ探す気ですか?それより人生と関わってみんなと歌ったり踊ったりしている方がどれほど楽しいかわかりません。真実は図書室にあるのではありません。現場にあるのです。タイプ5の人に欠けているもの、それは後述するタイプ8の力属性なのです。頭属性で最強であるがゆえに、力属性が見る影もなくなっているのです。タイプ5の人がよく人の名前を忘れることがあるのもそのためです。記憶とは本能的な能力であり、思考で制御できるものではありません。本能的な能力は生きるための自然なエネルギーであり、それを思考で代替しようとするのが根本的に間違いなのです。人生が師であることに気が付けば、本に頼らなくても知識を収集できるはずです。世界や歴史は我々が考える以上にうまく出来ているのです。人や社会と関わることで、タイプ5の人は今まで気付かなかった本当の智恵に出会うでしょう。それは人が幸せに生きるための知識です。真実の知識を儒教では智といいます。智の心に目覚めるためには、知識への強烈な執着心から離脱することです。知識とは確かに素晴らしいものですが、それは過ぎ去った過去のものであることも忘れてはなりません。過去や歴史を振り返れば確かに素晴らしい知識があります。しかし我々は過去に向かって生きるのではありません。明日に向かって生きているのです。タイプ5の人が知識に執着し、自分の中に真実を見つけようとするのは、実は子供の頃に寂しい思いをしたのが原因です。寂しい思いを自分の空想の中で紛らわしているうちに、そのむなしさを知識で埋めるようになったのです。その気持ちはよく分かりますが、大人になって子供の頃の気持ちを理由になど出来ないのです。まずは知識への執着心から離脱し、空しさを超え、智の心に目覚めることです。そのためには、日本の社会を一度離れてドイツやスイス、オーストリア、フランスのノルマンディー地方やイギリスなどを中心にヨーロッパを周遊してやさしい人たちと触れ合いながら歴史を学び、旅の中でたくましさを身に付けることです。歴史を学び真実を見抜くことは、タイプ5の人にとってはわけない事でしょう。そして、世界には洗練された国がたくさんあることに気が付くでしょう。少なくとも政治家の汚職が起こる国の社会がまともであるわけがないのです。ヨーロッパのやさしい人たちに会い、美しい自然の中を旅すれば、意識しなくても智の心が目覚めます。タイプ5の人はコバルトブルーが好きな人が多いようですが、EU連合の旗も美しいコバルトブルーの中に、輝くたくさんの宝石のような星がちりばめられています。智の心に目覚めたタイプ5の人は、ふくろうのような存在になります。油断なく大きな目で観察しながら休息し、獲物に対して静かに襲撃をします。ねらいを定めたら、音もなく忍び寄る影となり、静かに羽ばたきながら天空から舞い降ります。目は動きの一瞬一瞬を見極め、耳は足音の一つ一つを聞き分け、飛んでいる間も情報を逃がしません。体ごと渦中に飛び込み、大きな動物をも捕らえる驚くべき能力を発揮します。そして必要なものだけを食べ、不要なものは吐き出します。ふくろうは古代ギリシャでは正義と戦いと豊穣の神アテナの使いと言われ、智恵の象徴とされてきました。智の心に目覚めたとき、人は知識というコバルトブルーの聖衣をまといながら絶望を退け、明日に向かって生きて行けます。そのとき、世界は真実を答え、幸せに生きるための智恵を授けてくれます。生きる力は何よりも強い。それに気付けば、智の力を自在に使いこなし、たくさんの笑顔を守っていけるでしょう。だから、好きなものを好きといい、泣きたいときに泣ける、そんな勇気を捨てないで下さい。

フランスと儒教

論語のラテン語訳は、イエズス会のイントルチェッタを中心とした人々によって行われた。キリスト教と儒教には共通する精神があるという。孔子は古代の教えを受けたと言われている。また、儒教はノアの洪水前の族長まで遡ると言う人もいる。イントルチェッタがヨーロッパに紹介した儒教の教えは、ルイ十四世の時代の知識階級に注目を浴びた。また、ヴォルテールはデピネー夫人に与えた書簡に、”孔子は本当に道理の味方”と書き、神秘や奇跡を説かず、人の道理にこだわる姿勢を賞賛している。法律も習慣も宗教も行儀もことごとく道徳であり、徳義なのである。よく自由と言う言葉を強調する人がいるが、自由とはもともとは自分が勝手なことをすると言う意味でもあり、自分中心の勝手から生まれるのは相手の支配である。そう考えると、今の日本の社会が何故良くないのか、どの国が勝手な事をしているのか、日本はどの国を目指しているのかが分かってくる。ヨーロッパの人々はしっかりと自分の意見を持ち、正しい国と間違った国を見分けている。ヨーロッパの洗練された社会や環境は、常識と道徳から来るのである。日本のように傲慢な国の言いなりになる人が得をする社会では道徳や洗練された社会など生まれないのである。日本人はもっと自分自身の考えを持ち、支配ばかり考える人達から離れるべきである。


儒について

儒教の儒とは、ひげが濡れると言う意味です。ひげは少し濡れると丁度よくなり、人間関係に潤いを与え円滑にする目的の儒教の教えにはぴったりの字と言えます。孔子は人の生き方を説きましたが、人の死については語らなかったと言います。弟子の子路が死についてたずねたとき、孔子はこう答えました。「なぜ生きるのか、または真の人間の生き方とはどのようなものかさえ不十分なのに、どうして死のことなど分かるだろうか。」孔子の教えは日常生活の教えであって、宗教とは違うものでした。人の死は生きる人の延長線上にあるのであって、生きている人間に誠を尽くすのと同じ心で死者の霊を奉ればいいのです。つまり、生と死とで心の区別はないのです。そもそも、まだ生きている人が死について考えること事態がおかしいのです。生きることの探求に心を打ち込んだとき、初めてその先の死に処することができるのではないでしょうか。孔子は天については、こう言いました。「天はいったい何を口出ししようか。何も言わない。しかし、春夏秋冬たゆみなく運行し、全てが成長している。」何も言わなくても教えはあるのです。昔の人がしつけに厳しかったように、大自然もまた、厳しい教育者であったのではないでしょうか。人間は進化によって多くのものを手に入れましたが、同時に失ったものも沢山あるのではないでしょうか。進化と言う字は進むと書きますが、戻化と言う言葉はありません。退化という言葉はありますが、これは失う事を意味しています。つまり、進化というものは、進む事と失う事は出来ますが、戻ることは出来ないのです。ただ闇雲に突き進むよりも、時には冷静に過去を振り返ることも大切なのではないでしょうか。進化には、正しい進化もあれば、間違った進化もあります。いずれにしても戻ることは出来ないのです。宇宙は広いし、科学を追及するにも色々な方法があります。単純に力だけではないのです。大切なのは、自分の考えを持つ事です。その為には、洗練された文化を知り、やさしい人たちと出会うことです。ヨーロッパの文化は様々なことを教えてくれます。少なくとも、石油を手に入れるために戦争を起こして世界征服をしようとする人たちに従っていても、社会は間違った方向にしか進化しないのです。我を空にして煩悩を断ち、正しき9つの心で精一杯生きたとき、人は一から十まで人生を理解し、希望の光を見るのではないでしょうか。このような心の境地を、断空光我見と言います。正しき人の心にこそ、限りない進化が存在するのです。老子は古代文明の後継者で、孔子はその文明の研究者であったと言われますが、孔子の教えは道徳思想が中心だったのです。



徳とは、欠点を持つ人間が、完成された人格を持つ人となるために必要なものです。そして、人それぞれ必要とする徳は違います。徳とは、武道で言えば構えのようなものです。構えとは合理性を追求した結果、考え出されたものです。しかし、人間にはクセがあり、それは日常生活の中で固定化しています。それが、やがて自己流となり執着となって、成長を妨げるのです。クセを直して基本的な構えも身に付け、習慣化するためには、数万回の反復練習が必要と言われます。基本的な構えが習慣になれば、成功するようになるし、楽しくなります。そして、ますます精進するようになります。これが上達のコツなのです。徳のある旅人とは、誰よりも情熱を秘めた凡人です。色々なものにいつも惑わされる人間は、何かに取りつかれ易いものです。それは、主体性のなさが原因なのです。旅の成功は14徳の習慣化にあります。

@節制
食事は腹八分目。酒は酔うまで飲んではいけない。腹八分目に医者要らず。腹十二分目に医者足らず。

A沈黙
自他に有益でないことを語ってはいけない。駄弁はよくない。寡黙は賢者なり。

B規律
物は全て所定の場所に置く。仕事は全て時間を決めてやる。A型が多いヨーロッパでは、得に重要。

C決断
やるべきことは、やると決心する。やると決めたら、必ずやる。

D節約
自他に有益でないことにお金を使わない。ムダ使いをしない。

E勤勉
時間を無駄にしない。常に有益なことに従う。無駄な行動は全て無くす。

F誠実
計略で人を害してはいけない。心を無邪気に公正に保つ。口に出すのもいけない。

G正義
他人を傷つけ、与えるものを与えないで搾取したり損害を及ぼしてはいけない。

H中庸
極端を避ける。たとえ嫌がらせを受けて、不安と憤りを覚えても、激怒は慎む。

I清潔
身体、衣服、住居を不潔にしてはいけない。

J平静
ささいな事や、日常、あるいは突発的な出来事で平静を失ってはいけない。平常心を忘れずに。

K純潔
性欲は子孫のためにのみ行い、これにうつつを抜かして頭脳を鈍らせたり身体を弱めたり、自他の平安や信用を傷つけてはいけない。信用と言うものは、壊すのは簡単だが、築くのは大変なもの。

L謙譲
孔子やイエスのような世界4大聖人に見習うべし。

M情熱
何をするにも、情熱が必要。情熱があれば、職業に関係なく成功するし、幸せになれる。それは、生きがいにもつながる。