こんにちは、イラン編です。
「またかえ!こんな長いの読めるか!」って感じですよね。すいません。興味がある人だけ、週末にでもがんばって読んでください。インターネットの通信代が値上がりして、今後はなかなか送れないかも知れませんが、できる限り読んで返信します。
 さて、この国も僕にとっては大きな意味のある国でした。地図で見てもらうと分かるのですが、イランはアジア、ヨーロッパ、中東アラブの中間に位置するんですよね。複雑に文化や民族意識が絡んでいた気がしました。彼らはパキスタンと同じイスラム教徒、もちろんムスリムは旅人にはとても親切なのだけど、「差別」問題を含めて僕にとっては引っかかる出会いもありました。とは言っても今までにないぐらい4件の家庭にお邪魔させて貰い、貴重な経験ができたのですから、満足です。
 あと、カスピ海見てきました!対岸見えません!もちろん北海道から九州ぐらいの距離あるんですから。世界一の湖。淡水だけど、舐めてみると、ちょっと辛い気がしました。学生時代クラブ活動で毎日「琵琶湖」のお世話になっただけに世界一の「湖」は大感激です。
 それでは今回も日記からの抜粋です。いつも抜粋なので、編集がうまく行かず、意図が伝わらない事が多々あるでしょうがお許しください。それでは。

 

 

  家庭訪問


 イランの街は何処に行っても本当に整備されていて奇麗だ。特にインフラに関してはかなりの投資がされており、日本を凌ぐのではないかと思うぐらい。これはイランが独立後、オイルマネーによって急速な近代化・西洋化を図った結果。対面道路8車線10車線は当たり前。時には一般道路とは思えない12車線も登場する。交差点の中心には必ずと言ってよいほど「噴水」が設置され、いつも大量に水が噴射している。そして周りには多数の植木や植栽、花が植えられており、この維持費はどこから捻出されているのだろうかと僕はいつも考えてしまう。大丈夫だろうか、この国は。

 イランに入って最初の町「バム」。ここは世界遺産にも登録されている遺跡のある町だ。一緒だった旅人に教えてもらった宿を訪れ、まだイランのことが何もわからなかった僕は、この宿の親父に尋ねた。
「イランの食い物は何がうまいんだ?この街で一番うまいレストランを教えてくれないか?」
 すると、なんと彼は自信満々に「それなら我が家の家庭料理が一番うまいぞ」と言う。家を訪れることを、旅のひとつの目的としていた僕はこの言葉を聞いて意気揚々と尋ねた。
「食べれるのか?」
どうやら、食事は少しばかりのお金が必要らしいが、それ以上にイラン家庭が覗けることにわくわくしていた。しかし、時間は20時からなのであと3時間もある。「ちょっと遅い時間だな・・」
色々準備があるのだろう。それまで、家族と会えないのかと欲が出始めたが、そこは我慢することにした。
さて、僕が「家」を訪れることを目的とするには理由がある。家にはその国の文化が集約されていると考えるからだ。建物、家具、家族、物理的なものだけでなく、その国のにおいや雰囲気、そして考え方や心の中まで見えてくる気がするからだ。
僕の移動好きの理由はここにもある。長時間の移動となると、実は現地の人々も案外退屈で、隣同士になった人とはすぐに会話が弾む。
「泊まるところはあるのか?どうだ家にこないか?」といった展開だ。しかし、安易についていくのも、犯罪に巻き込まれるもととなるので、ここで実は大変な観察力と演技力、そして何よりタイミングが重要。少しも話に食い違いはないか?胡散臭い点はないだろうか。家族がいるのだろか。すべての言動に注意するが、家への訪問と犯罪への道の境界線は紙一重なのだ。これまで、「一国一家」を目指して、順調にきているので、ここイランでも目的達成だ。
さて、約束の20時になると息子がホテルまで迎えに来てくれた。いきなりの登場だが、やけに不愛想だ。近くの大きな家まで連れて行ってくれた。
家は日本では中の上並みの家で、僕はリビング25畳ぐらいの部屋に一人通されたが、不気味なことに物音ひとつない。
「おかしいな・・」
僕の想像していた家族団欒の雰囲気とは無縁の世界だ。いや、むしろ軟禁されているのでは?と思わせる空気すら漂う。
部屋の中にはなぜか無意味に大きな「イラン絨毯1枚」と「FAX電話」しか置いていない。おまけにこの広さで蛍光燈が1本しか付いていないのだからかなり寒々しい。周りとの音は完全に遮断され、家族の幸せな会話など聞こえもせず「ここは防音室?」かと思うぐらいの静けさだ。
「一体いつ呼びに来てくれるのだ?」と考える一方、「もしかして、ここに料理が運ばれて来るのでは・・」と思っていると、これまた無愛想な嫁が料理片手に部屋に入って来た。「あれ?みんなで食べようよ…」そんな気持ちの中、彼女は部屋の中央に敷物を敷き、無言で料理を並べ始めた。僕の予想は的中した。どうやらひとりで食べなくてはいけないらしい。「一人ピクニック」状態だ。
音すら感じることのない、本当の意味での「一人飯」。旅をしてきてこれほどまでに静かな「一人飯」はなかった。時折、体調の悪い僕の咳が部屋中にこだまする。料理は野菜煮込みとヨーグルト、プルーン、サラダ、そしてせんべいのように固い『ナン』。「久々にあごが鍛えられてありがとう」といった感じだ。
彼女とは食事前後に「ありがとう」「どう致しまして」と2度言葉を交わしただけ。
料理は決してまずくはなかったのだが、あまりにも僕の中でのギャップが大きすぎた。45分以上かけて、「せんべいナン」をぽりぽり食べ終えると、誰もいないのだが静かに「ご馳走様」と言い置いて、この家からお邪魔した。もちろん誰も見送りなどしない。鍵も開けっ放しだ。
「これなら地元の人と食べればよかったな・・」
そんなことを思った翌日、腹が痛いと思って行ったトイレは予想通り下痢だった。とんだ食事会に誘われたものである。

 

 

  テレホンカードのイラン人

 
イランに来てからも多くのイラン人に声をかけられた。
「日本は良い国だ、技術もあって素晴らしい、俺も日本に行きたいよ」
イラン人は皆日本が好きなようだ。
カーペット屋の主人は僕にこう言った。
「日本人は慎重にカーペットを選ぶよね。そうやっていつも先のことを考えているから素晴らしい技術と開発力が生まれたんだね。それに比べイラン人は駄目だな。
目先のことしか考えないから買ってもすぐに後悔するんだよ。」

パキスタンで出会ったおじいさんはこうも言った。
「日本人は優れた民族だよ。多くの文化、SONY…松下…技術もすごいけど、でも俺は日本人のこころが好きだね!自分の家族や社会だけでなく、地球全体の調和を図ろうと考えているからな。」 日本は世界の憧れなのだ。

さて、この日僕は、世界遺産都市「イスファハン」の街の川辺チャイハネ(紅茶屋)で一人日記を書いていた。すると一人のイラン人が声をかけてきた。

「コンイチワ」
(あれ?日本語?)
「ワタシニホンゴワカルヨ・・」
「あっ!日本語わかるん?なんでですか?」
「グンマ、ハタライテイタ・・」
 東京に住んでいた頃、渋谷でよくイラン人を見かけた。彼らはいつも集団で固まって、路上で偽造のテレホンカードを売っていた。僕にとってイラン人は不気味な存在でしかなかった。彼は物静かな態度で僕に接してくる。
「名前は?」
「ファーザン」
「どこに住んでるの?」
「コノチカクデス」
歳は40代、もう家族がいるのだろう。落ち着いた雰囲気で淡々と僕に話す。
(当時日本に来ていた不法労働者なのだろう。日本でたくさん稼いだに違いない。)そんな気持ちでこの時いたのだが、時間があったこともあって、僕は日本語で色々と彼に質問をしてみた。
「どれくらいすんでいたの?いつ帰ってきたの?楽しかった?」
すると、彼は何度も「ワカラナイ」と返事する。どうやら、あまり日本語がわからないらしい。2年も滞在していたのに、もう少し話が出来てもいいのでは?と思いながら、再び質問をした。
「また日本に行って稼ぎたいでしょ?」
この時、僕は当然帰ってくる言葉を予想した上での質問だったのだが、彼の口からは想像もできなかった言葉が飛び出した。
「モウイイ・・イキタクナイ・・」
僕は一瞬聞き違えたのか?質問が通じなかったのか?自分を疑い、ふと顔を上げ彼の顔を見た。その時の彼の瞳には、涙が溜まり、遠い一点を見つめている。40歳過ぎの一人の男性が日本のことを思い出して泣いている。僕の頭はパニックになり、同時に僕まで涙がでてきた。そしてとっさに謝った。
「ごめんなさい・・」
何故僕はとっさに謝ったのだろうか。旅をしてきて日本を悪く言う人々には今まで誰一人出会うことはなかった。「日本」という国がどんどん好きになっていく矢先のことだった。彼の日本での生活は一体どんなものだったのだろうか。それから僕は根掘り葉掘り彼から日本での生活のことを聞きだした。

 当時、正規ルートで日本へ入国した彼は、群馬の工場で働いていた。しかし、職場環境は彼が想像していたよりも悪く、外国人であるイラン人に対して、とても冷たかったらしい。10年前、何も分からず日本に飛び出しお金は得たものの、苦しい毎日だったようだ。彼は唯一、友達が2人出来たと教えてくれた。それゆえに日本語もあまり上達しなかったのだろう。
彼とは短い時間だが、話をしていて、とても心の温かく、誠実そうな人柄のイラン人に思えた。そんな彼に対してどんな差別があったのか、詳しくはわからない。しかし僕はこの時、彼の受けた仕打ちに対して、同じ日本人として心から謝りたかったのかもしれない。
 その後、僕はもっと彼と話がしたくなって、食事を一緒にすることにした。日本の話を聞きだした中で、パチンコによく行ったと話すときの彼の笑顔が、一番楽しそうだった。
 ファーザンと食事をしてる2時間、僕は必死で自分のこと、日本のことを話していた。
「その国で出会った人の印象でその国が好きか嫌いかが決まる。そして僕の態度で日本の印象が決まる」
そんなことを思い続け旅をしてきた僕は、この時ファーザンにもっといい「日本」を伝えるのに、必死だったに違いない。

 帰り際、ファーザンが、ふと僕に言ってくれた。「デモ、ニホンスキダヨ・・」
少ない時間、「イラン人」と「日本人」として時間を共有しあったことで、新たにそう言ってもらえ、僕は嬉しかった。
その後、彼は僕を家に招待すると言ってくれた。自分と同じ立場にあった、異国人の僕を見つけ、僕に「自分のような寂しい思いはさせたくない」と思ったからだろうか。理由はわからないが、いい思い出のない「日本人」の僕をここ故郷イランで誘ってくれた。
1990年前後、日本で多くのイラン人が出稼ぎに来た。当時は合法での入国だ。一説によると、このときの大量受け入れは、政府のオイルショック対策によるものとも聞く。彼のように法に従い労働していた者もいる。

日本人は旅に出るとビザを含めて何処へ行っても歓迎を受ける。それは戦後の日本を作った人々の恩恵によるもので、その度に僕は自国のアイデンティティーを強く感じてきた。しかし、ここイランでは同時に、自分の心の奥に存在する大きな差別感を否定することは出来なかった。

 

 

  差 別


 2週間で僕の感じた「イラン」。彼らイラン人は親切であり、お洒落であり、紳士であった。しかし同時に「格好つけ見栄っぱり」でもあった。それはイランという地理的位置が正にアジアとヨーロッパの中間であり、彼らにとっても先進国である「ヨーロッパ」を意識せざるを得ない状況下に置かれているからではないだろうか。そして彼らは自分達がヨーロッパの一員だと感じている。多くのイラン人から数え切れないほどの親切を受けた。イスラムの教え、「旅人はゲスト」そんな気持ちは十分受けることができた。

 しかし気になることもあった。彼らの「親切」という行為は、下手をすれば一方的な行為、つまり自己満足にしかなりえないときもあった。パキスタンとは違う。気楽に同じアジアの仲間として親しみをこめた会話にはどこか欠ける気がする。アフガン人達の時のように、同じモンゴロイドとしての共通認識を持ち、コミュニケーションを取った感覚でもない。もちろん全員が全員ではないが、少々息苦しく感じることもあったのだ。
 それは僕の心の中に存在する民族アイデンティティーの問題なのだろうか。いや、彼らイランの人々の心の中にもそれは存在していた。パキスタン以東で感じたアジアでの「フレンド」関係と、イランにおける「来賓者」関係の違いが既にそこに現れていた。それもまた、「招待する」こと自体が彼らの『見栄』なのだろうか。

 僕はいつも彼らに笑顔を振り撒いていたので気がつかなかったことがあった。それは、他の旅行者から耳にした数多くの「差別」だ。アフガン人や中国人に対する差別発言。彼らも日本人と同じ異国からのゲストであるのに。彼らは明らかに「貧しい立場のアフガン人」「発展途上としての中国人」を嫌っている。「日本人」だけに対して特別やさしいのだろうか。それとも彼らはお金にしか興味が無いのか。僕は彼らに何度か問うた。
「日本のどこが良いのか?」
多くのイラン人口から出る言葉は「金がいいから・・俺に招待状書いてくれ」と。自国より富があるものにしか興味が無いのだろうか。それも彼らの『見栄』なのだろうか。「なぜアフガン人を差別するのだ」僕は彼らに問いたかった。
しかし、自分の心の中にあった一つのことにもこのとき気がついた。旅に出る前『イラン人がアフガン人を嫌う』ように、僕の心の中で『イラン人を嫌う自分』が明らかに存在していた。僕には考えなくてはいけないことがまだまだたくさんある。

 

 

 

 

 

  ト イ レ


 イランに来てからトイレ事情は大きく変わった。特に中国と比べたら雲泥の差だ。あの中国の仕切りのない一本溝だけのトイレ。数十分に一度だけ川上から大量の水が流れてきては、今まで溜まっていた数人分の汚物が一気に下水管に流される。こんなわけのわからないトイレシステムは中国だけであろう。大便中に水が流れてきたらもう悲惨!流れてくる水と溜まった汚物がぶつかり自分に跳ね飛んでくる!!
インドの公衆トイレでは、大抵下水管がなく(あっても壊れている)全て道路へ垂れ流しだった。雨水時にはそれらが混同して排泄物の水溜りがそこら中にできる。これまた悲惨な状況で歩いているだけで病気にかかってしまいそうだ。
またパキスタンはトイレすらなかった。道路脇に男も女もうんこ座りして垂れ流し。人の家の壁など誰も気にせずかけまくり。地元民にトイレの場所を聞くと誰もが適当に茂みの中を指差すだけだ。そして、大をしようと場所を探していい場所が見つかると、必ず先客が既に終えた「もの」が無数に残置されている。
アジアではこんな国々を歩いてきただけに、イランのトイレが少々汚くてもきれいに見えてしょうがない。ほとんどのトイレは男女共に完全個室。男にしても宗教上「もの」が見えないようにしているからだ。
やっと普通のトイレに巡り会えた。今考えると僕はとんでもない国を渡り歩いてきたのだ。

 

 

 

  抑圧開放


 イランという国は「政教一体」ということで民衆の心が少なからず本能に反して押さえつけられている。ラマダンや異性への抑え方にしてもそうだ。ギャンブルも無ければディスコも無い。日本人の僕にしてみればとんでもない国だ。どこで本能が爆発するのか恐いぐらい。しかし、実際の彼らの生活を覗いてみると、こっそりラマダン中飯を食うこともあれば、こっそり家で酒を飲むこともある。町中で出来立てのパンをつまみ食いしている人と目が合うと彼はさっとパンを後ろに隠していた。またイラン人の家に招待されたとき、酒を頂いた。そして、結婚式の日などは皆こぞって踊りを披露し、とても楽しそうだ。外国人が町で現地の女の人と二人で歩いているだけで、下手をすれば警察に捕まるこの国で、実は痴漢もあれば、逆ナンもあるのだ。そして娼婦も存在する。表では国家規則に従順に従い、裏では本能のまま生きる「ええかっこしい」も短期間ながら垣間見ることが出来た。この国もまた同じ「人間」が違った環境の中で生きている。ただ、国家の政策、歴史背景が違うだけなのだ。

 

 

 

  ラマゾン


 イランで僕は毎日何を食べていただろうか。覚えているのはハンバーガー。それだけだ。イランでは外食をする文化があまりない。昼食時は大抵ハンバーガーを食べ、夕食時になると皆家に帰宅して家庭料理を食べるので、我々旅行者は手頃なレストランを見つけるのに苦労する。そして見つけたとしても文化がないゆえ、非常にまずい。しかしそれとは対照に、イランの家庭料理はとにかくうまい。煮込み料理が中心で、僕は何度もイラン人の家庭にお邪魔してイラン料理の奥深さを知った。とはいっても基本的には毎朝、昼、夕とハンバーガーの生活。それだけでもげんなりしていたのだが、イランに入国して1週間目に、僕の食生活に追い討ちをかける行事が始まった。ご存知「ラマダン」である。
 イスラム教徒はラマダンの期間中、日の出の朝6時から日の入り夕方6時まで飲物食物一切食べらない。町中のレストランも一斉に閉店である。外国人の僕は食事を取っても大丈夫なのだが、実際現地人が我慢している中、一人むしゃむしゃ食うことも出来ないのだ。
 この日お腹の空いた僕は、地元民大行列のレストランを見つけ入ることにした。満員となった店内をよく見ると、殆どの人が机の上に並べられている食事に手をつけない。時計を見ると17時半。どうやらあと30分は目の前の食事とにらめっこらしい。そして18時に近づくにつれて徐々に店内の人が増えてくる。座る場所がないくらいに人が増えてくる。全ての人が18時に一斉に食べるわけではないのだが、18時15分頃がピークにみえた。
そして始まるパンの奪い合い。煮込みの奪い合い。明らかに店員の数は足りない。会計もいい加減だ。大パニック。僕が「おかわり」という空気すらなく、大きな鍋の中のおかずはものの15分でなくなった。1日のうちで人間の食欲がわずか30分の間に集中する。とてつもないエネルギーだ。
ラマダン期間中はとにかく痩せた。最初はあまりの空腹に辛くて、ホテルの中で食べたり、こっそり人の居ない山奥まで行って食べたりしていたが、次第に慣れてくる。基本的に毎日18時までは絶食していた。慣れると何でもなくなるのだが、この時の夕食の嬉しさ有り難さは、通常の食事時の何十倍だ。またイランでは酒も飲めない。トルコに入国した時の酒の味は格別にうまかったのを今でも覚えている。「イラン」は食事環境さえ整っていれば最高の国なのだが・・。