イランに来てからも多くのイラン人に声をかけられた。
「日本は良い国だ、技術もあって素晴らしい、俺も日本に行きたいよ」
イラン人は皆日本が好きなようだ。
カーペット屋の主人は僕にこう言った。
「日本人は慎重にカーペットを選ぶよね。そうやっていつも先のことを考えているから素晴らしい技術と開発力が生まれたんだね。それに比べイラン人は駄目だな。
目先のことしか考えないから買ってもすぐに後悔するんだよ。」
パキスタンで出会ったおじいさんはこうも言った。
「日本人は優れた民族だよ。多くの文化、SONY…松下…技術もすごいけど、でも俺は日本人のこころが好きだね!自分の家族や社会だけでなく、地球全体の調和を図ろうと考えているからな。」
日本は世界の憧れなのだ。
さて、この日僕は、世界遺産都市「イスファハン」の街の川辺チャイハネ(紅茶屋)で一人日記を書いていた。すると一人のイラン人が声をかけてきた。
「コンイチワ」
(あれ?日本語?)
「ワタシニホンゴワカルヨ・・」
「あっ!日本語わかるん?なんでですか?」
「グンマ、ハタライテイタ・・」
東京に住んでいた頃、渋谷でよくイラン人を見かけた。彼らはいつも集団で固まって、路上で偽造のテレホンカードを売っていた。僕にとってイラン人は不気味な存在でしかなかった。彼は物静かな態度で僕に接してくる。
「名前は?」
「ファーザン」
「どこに住んでるの?」
「コノチカクデス」
歳は40代、もう家族がいるのだろう。落ち着いた雰囲気で淡々と僕に話す。
(当時日本に来ていた不法労働者なのだろう。日本でたくさん稼いだに違いない。)そんな気持ちでこの時いたのだが、時間があったこともあって、僕は日本語で色々と彼に質問をしてみた。
「どれくらいすんでいたの?いつ帰ってきたの?楽しかった?」
すると、彼は何度も「ワカラナイ」と返事する。どうやら、あまり日本語がわからないらしい。2年も滞在していたのに、もう少し話が出来てもいいのでは?と思いながら、再び質問をした。
「また日本に行って稼ぎたいでしょ?」
この時、僕は当然帰ってくる言葉を予想した上での質問だったのだが、彼の口からは想像もできなかった言葉が飛び出した。
「モウイイ・・イキタクナイ・・」
僕は一瞬聞き違えたのか?質問が通じなかったのか?自分を疑い、ふと顔を上げ彼の顔を見た。その時の彼の瞳には、涙が溜まり、遠い一点を見つめている。40歳過ぎの一人の男性が日本のことを思い出して泣いている。僕の頭はパニックになり、同時に僕まで涙がでてきた。そしてとっさに謝った。
「ごめんなさい・・」
何故僕はとっさに謝ったのだろうか。旅をしてきて日本を悪く言う人々には今まで誰一人出会うことはなかった。「日本」という国がどんどん好きになっていく矢先のことだった。彼の日本での生活は一体どんなものだったのだろうか。それから僕は根掘り葉掘り彼から日本での生活のことを聞きだした。
当時、正規ルートで日本へ入国した彼は、群馬の工場で働いていた。しかし、職場環境は彼が想像していたよりも悪く、外国人であるイラン人に対して、とても冷たかったらしい。10年前、何も分からず日本に飛び出しお金は得たものの、苦しい毎日だったようだ。彼は唯一、友達が2人出来たと教えてくれた。それゆえに日本語もあまり上達しなかったのだろう。
彼とは短い時間だが、話をしていて、とても心の温かく、誠実そうな人柄のイラン人に思えた。そんな彼に対してどんな差別があったのか、詳しくはわからない。しかし僕はこの時、彼の受けた仕打ちに対して、同じ日本人として心から謝りたかったのかもしれない。
その後、僕はもっと彼と話がしたくなって、食事を一緒にすることにした。日本の話を聞きだした中で、パチンコによく行ったと話すときの彼の笑顔が、一番楽しそうだった。
ファーザンと食事をしてる2時間、僕は必死で自分のこと、日本のことを話していた。
「その国で出会った人の印象でその国が好きか嫌いかが決まる。そして僕の態度で日本の印象が決まる」
そんなことを思い続け旅をしてきた僕は、この時ファーザンにもっといい「日本」を伝えるのに、必死だったに違いない。
帰り際、ファーザンが、ふと僕に言ってくれた。「デモ、ニホンスキダヨ・・」
少ない時間、「イラン人」と「日本人」として時間を共有しあったことで、新たにそう言ってもらえ、僕は嬉しかった。
その後、彼は僕を家に招待すると言ってくれた。自分と同じ立場にあった、異国人の僕を見つけ、僕に「自分のような寂しい思いはさせたくない」と思ったからだろうか。理由はわからないが、いい思い出のない「日本人」の僕をここ故郷イランで誘ってくれた。
1990年前後、日本で多くのイラン人が出稼ぎに来た。当時は合法での入国だ。一説によると、このときの大量受け入れは、政府のオイルショック対策によるものとも聞く。彼のように法に従い労働していた者もいる。
日本人は旅に出るとビザを含めて何処へ行っても歓迎を受ける。それは戦後の日本を作った人々の恩恵によるもので、その度に僕は自国のアイデンティティーを強く感じてきた。しかし、ここイランでは同時に、自分の心の奥に存在する大きな差別感を否定することは出来なかった。