ご無沙汰です。1ヶ月ぶりかな?放浪記。ネット代が高くて読むのに精一杯。返信出来なかった人すいません。今エジプトカイロにいます。アジアが終わり、ヨーロッパ西端へ目指す予定だったのですが、アジアの端「イスタンブール」にて僕を引き付けるものが「トルコから西」にこの時ありませんでした。そして何故か「中東」へ向かう事になりました。潜在的に行かなくてはいけないと思っていたのでしょうか。これからはアフリカ南下しようと思っています。アフリカはとにかく病気、強盗が最大の難関、むしろ登竜門ですらあるかも。下手したら残り4ヶ月を待たずして帰国する羽目になるかも。とにかく気を付けます。それでは「中東編」です。

 

 

  アジアの果て

 僕はとうとうイスタンブールに辿り着いた。もう地球1周4万キロは移動してきたかと思われる。アジアの終着点。遠かったようで近かったようにも感じる。それは僕の心の中で「アジア人」としての意識が芽生えたからであろうか・・。
 イスタンブールは今までにないぐらいの大きな町だ。この日、僕は早速イスタンブールを自分の肌で感じるために町中を歩き回った。中心街「タキシム広場」に向かうバスの車窓から、新しい世界が目の前に広がる。オスマン帝国時代最も栄え、当時多くの人々がここに目指したであろう、数々のモスクが立ち並ぶ。
「トラム」といった路面電車は、ヨーロッパ調の建物の中を縦横無尽に突っ走る。若者達や観光客、そして釣り人達が集まり整備された海岸。アジアには決してなかった目新しいものばかりだ。
アジアとヨーロッパを繋ぐ「ボスポラス大橋」。僕はもうヨーロッパ側の地に立っている。橋の向こうは僕が歩いてきた「アジア」が見える。そして、その遥か向こう「日本」では僕の友人達が頑張っている。
「ずいぶん遠くまで来たもんだ・・」 何度も月並みなフレーズが頭に浮かぶ。

中心街を歩くと、様々な顔をした人種が行き交う場面に直面する。イラン人やアルメニア人といったような、アジア混ざりのアーリア系。瞳は青く、フランスやギリシャから観光に来たと思われるヨーロッパ系。そして我が国日本からも、遥々飛行機でやって来たモンゴロイド系。現地のトルコ人よりも目に付く団体旅行軍団。正にここは東と西の人々が出会う歴史と文化の交差点というわけだ。
 さてこのような西側への新しい出発点であるここイスタンブール。本来なら旅人達はわくわくするであろう。しかし、僕はこれからの新しい世界を待ち受ける喜びよりも、僕の中でひとつの「アジア」が終わってしまったことを何故か感傷的に捉えてしまっていた。「アジア」民族とはまた違う国へ足を踏み入れてしまったからだろうか。
  東から来た旅行者は皆口を揃えて言う。「トルコはもうヨーロッパだ。トルコには人の温かみをあまり感じない」そして西から来た者はいう。「トルコはアジアだね。人が皆温かいよ」と。どっちが本当なのだろうか、よく議論になっている場面を目にする。いや、どっちも事実でありお互いギャップを感じているだけ。そして僕は「東から来た者」であるだけ。皆自分の価値観でしか判断できない。
 ボスポラス大橋の真下で、僕は今まで出会った各国の「友達となった人」「お世話になった人々」「巧みに騙してくれた人々」たちの顔が思い浮かんだ。長いようで短かった7ヶ月、11ヶ国の国々で様々な生き方をのぞいてきた。今思えばとてつもなく大きな「心」や「価値観」に出会えた7ヶ月でもあった。今回、僕の旅のテーマでもあった「人」。世界遺産でもない。自然でもない。「彼らの心」。彼らの気質を肌で感じたい。彼らとふれあうことができたこの7ヶ月は、僕の人生の中でも大きな財産となった。
 旅に出る前、西洋的な考えを持っていた僕は、感覚的に人間社会の中でイスラム文化圏は遅れていると感じ、いつか彼らも僕たちの考え方に追いつくんだとすら思っていた。それは大きな過ちであり、そして深いおごりでもあった。
彼らには彼ら独自の文化があり、決してそれは先進諸国の価値観でははかれない。いつの時代も経済的強者の意見が『グローバルスタンダート』となりがちであるが、最近の僕はそうではない気もしてきた。
人類の長い歴史上、最後に世界を動かしてきたのはやはり「民衆」であり、大多数の「世論」だ。僕が思っていたよりもイスラム圏は大きい。そしてこのイスラム圏は、今の複雑な世の中でも、世界的にも拡大しつつある宗教だという。もしかするとこれから、イスラムの教えがスタンダードになる日も、遠い未来有り得るかもしれない。その日の為に、同じアジア人として、ふと、彼らの考えをもっと知る必要がある気がした。

 

 

  ごみと環境


シリアは一般的に人が穏やかだと皆口を揃えて言う。この国にはパキスタン同様にムスリム独特の「やさしさ」が備わっている。すれ違う人々は、「どこ行くのだ?連れていってやるぞ」屋台で何かを買おうとすると「いいぞ食ってけ!金はいらねえぞ。」この国もイスラムの教えを忠実に守っているのであろう。
 シリアに入国してから僕はまず、ユーフラテス川を見るために半日かけてここデリゾールへとやってきた。これだけ街から離れると、子供たちはもう野生児のように元気だ。
 さて、デリゾールからダマスカスへ戻る道でのこと。地平線が続く荒野砂漠の中、ぼーっと窓の外を見ていると、カラフルなビニール製品が舞い飛んでいる。それはこの地に捨てられた「ごみ」だ。他国から輸入された化学製品が、自然に戻る場所もなく、風に飛ばされ散っていく。アジアを横断してきた6ヶ月、各国共通して僕が感じてきた事、それは『地球は本当に汚れている』ということ。
 近年日本では環境問題自然破壊が意識され、誰もが頭の片隅には自然調和への道を歩もうと意識しているはず。しかし、我々日本の数百倍の面積を持つユーラシア大陸に住む人々の心には、そういった意識は無いといっても大袈裟ではない。大都市での大気汚染は日本と比べ物にならないほど進行しており、1日歩いているだけでも日本人である僕の体は拒否反応を示す。「美しく広大な地球を覗いてみたい」と出国前に思っていた僕の妄想は見事に打ち砕かれた。
「地球は本当に汚れているのだ・・」
予想以上に大地に大量に捨てられた「ごみの山」。かつては彼らの生活に密着していなかった無機物が、先進国の技術のお陰で大量に輸入される。しかし彼らはいつもの如く、それら「決して大地に戻らないごみ」を当たり前のように捨てる。
「彼らの文化」と「我々の文明」の衝突がとんでもない悪循環を生み出す。 仕方がないが、誰一人として「地球を汚している」という意識は持っていないのだ。 バスの中から荒野に散っていくビニール袋を見ながら、本当に胸が痛む思いだった。
 人類は歴史過程の中で定住し、安定を得る生活を覚えてきた。そしてその後は農耕民族として「大地」に感謝にしてきたはずなのだが、「己の大地」のみに執着してしまい「地球」といった視野で、物事を見られない民族となってしまった。その時遊牧民達は、自分達が生活できるのは「大地」があるからだと言うことを理解してきた。何千年も「感謝」という言葉を忘れることなく。
 僕は以前本で、インディアンがアメリカに土地を奪われる時、「酋長がアメリカ大統領宛てに送った手紙」を読んだ。それは延々と長く、深い思いが込められた内容の手紙だったが酋長が言いたかったことはただ一つ。
「我々がこの土地を奪われるのは、時代の流れ、運命だから決してあなた達を恨まない。しかし、1つだけ約束をして欲しい。我々先祖が数千年守ってきたこの大地を汚す事だけはしないで欲しい。我々が今生きていられるのはこの大地のお陰であって、それを汚す事は代々の先祖達全てを裏切ることになるのだから・・・」

 何億年もの歴史を僕らはたった数十年で破壊してしまった。世の中は進化しているようで、物質的豊かさを手に入れる代わりに「人の心」はどんどん退化している。誰もが気付いているのに目を背ける。自分のことだとは思っていない。いや、そんなこと起きないだろうと思い込んでいるのだろうか。
もう自分の世代のことではないと思っているのだろうか。人間だけが他の動物に誇れるもの、そして実践してきたもの、それは「伝統」ではなかったのであろうか。

僕が小学生の時からずっと心に残っている短編小説がある。
「突然街に大きな穴が出来た。底が見えないほど穴は深い。不気味な穴の為、誰も近づかなかったのだが、ある日少年が「小さな石」を落としてしまった。底に届く音がしない。そして誰もがその穴に興味を持ち、色んな物を落とし始めた。最初は石とか軽いものだったのだが、次第に穴がとても便利なことがわかり、ある者はいらなくなった「食べかす」、ある会社はいらなくなった「産業廃棄物」、ある国は「国家機密文書」や「核兵器」まで落とし始めた。そうして世界中からあらゆるゴミが集まり「便利な10年」が過ぎたある日。遥か彼方、空から何かが落ちてきた。「何だろう・・」そう、それはあの時、少年が最初に落とした「小さな石」だった…

 

 

 

 

  日本赤軍


 中東は世界的にも緊迫した土地だ。散弾銃をもった軍事関係者が町中うろうろしている。そして検問の数も半端でないほど多いのだが、日本人は信用があるせいかあまり詰問されない。しかし、僕がそうやって安心していたのは「シリアとヨルダンの国境」までだった。
 バス、乗合タクシーと乗り継いで国境に着いたのは午前11時。車での国境移動手続きは、大抵すぐに終わるので、今回もすぐに通過できるものだと考えていた。ところが一人のヨルダン審査官が僕を個室に呼ぶ。
「お前はツーリストか?」
「なぜ独りなのだ?」
「ヨルダンに友人はいないのか?」(そんなもんおるか!おったら苦労せんわ!)
そんなことを思うも、相手は公務員なので、下手をしたら厄介だ。尋問は終わる気配もなく、手に持っていた鞄が開けられ、日記から友人の住所録、こずかい帳まで1ページずつ開けられ全て「これは何だ?!」と聞かれる始末。そして最後には、最近撮った証明写真をしばらく見つめ「こっちに来い!」と奥の部屋に連れ込まれた。そしてそこで待ち構えていたのは、彼の上司らしき男性。彼はパキスタンで親切にしてもらった「猪木ファンのおっちゃん」に書いてもらったペルシャ文字の住所を指摘し(勿論、僕には解読不明)
「お前はペルシャ文字が読めるんだな!彼は今どこに居る!」と叫んだ。
正直、何を言ってんだ?こいつは?!の世界だったが、追求がどんどん細かくなってくるので少々不安になってきた。そうしてビザを取るまでにあらゆる尋問を受け、僕のアホな絵を描いた落書きメモまで没収された。
(一体どうなるんや?!まぁ、とことんいくとこまで行ってみよう)
そんなことを思っていると、審査官上司は、渋るように僕に言った。
「おまえは RED ARMY か?(日本赤軍)」
「なんじゃそれ!?」思わず日本語が出る。
僕は予想もできなかった彼の言葉に驚く反面、大笑いして彼に伝えた。
「NO!」
自分でも言うのもなんだが、こんな穏やかな顔した赤軍がいったいどこにいるんだ。僕の呆れた笑顔に審査官はやっと理解したのか、ようやく僕は開放された。
部屋を出る間際、僕は没収されたメモ、証明写真等を返してもらい、確認しなおすと、そこにはもう今では剃ってなくなっている、ひげ姿の僕が写っていた。
「なるほどな、こいつが原因か・・・」

 

 

 

  死  海


 死海をご存知だろうか。僕が最初に死海を知ったのは、忘れもしない小学校6年の教科書に載っていた挿絵「海の上で新聞を読む女性」だった。世の中にこんな場所が存在するなんて・・。「世界最低海抜」「生物が住めない濃塩度湖」この未知のフレーズは僕の頭から決して離れることなく、死ぬまでに行っておきたい場所の一つとして残っていた。そして今日僕は、ヨルダンの首都アンマンから憧れの「死海」を目指して出発した。
 死海へ向かう道中、息の白かったアンマンとは違い、ぐんぐん気温は上昇していく。たった2時間の移動で僕はフリースからTシャツになってしまった。風邪を引いてもおかしくない環境だ。
 途中、僕を乗せたバスは一つの村に立ち寄った。そして彼らの顔を見て正直驚いた。今まで明らかに出会ったことのない人種の人々が存在していた。髪は金髪の縮れ毛で、アジア人とは決して言えないアフリカン。確かにアジアとアフリカは大陸でつながっている。
「ここが境目なのだろうか」
知らぬうちにアフリカはもう目の前に迫っていた。
「ずいぶん遠くまで来たもんだ・・」

 さて、死海は名前のイメージとはかけ離れ、一面青く澄んでおり、透き通ったきれいな湖だ。湖岸線は塩が凝固して白い岩が連なる。僕は目的地に到着すると、あまりもの暑さに、走って湖に飛びこみたかったのだが、ある友人の忠告を思い出した。
「顔を絶対つけたらだめだよ。下手したら失明するよ」
本当なのだろうか。僕は恐る恐る体だけ水につけ浮かんでみた。「浮かんだ!!」仰向けでも、うつ伏せでも、両手万歳でも沈まない。クロールで泳ぐといつもより二倍くらい早くなった気分だ。笑いが止まらない。
そして次に僕は興味津々で水をなめてみた。むちゃむちゃ辛いだろうと思っていた僕の舌に激痛が走った。舌に穴が空いてしまうのではと思うぐらい。「辛い」なんてものではない「激痛」である。確かにこれで顔をつけると失明するだろう。しかし僕はやめればいいのにこの「激痛」を何度も体験した。嬉しくて。
 死海の周りには温泉が沢山あった。そして僕の浮かんでいた辺りにも、温水が大量に注ぎ込んでいた。そのためぼーっとしていると沖に流されそうだ。沖を見ると別の国の対岸が見える。 「あそこがイスラエルか…あそこで戦争が起きているんだ・・」 今まで興味がなかったあの国に、僕はふと行ってみたくなった。

 

 

 

 

  ジャッキーチェン


  中東までくると「お前は日本人か?」と言われることが少なくなった。圧倒的に「チャイナか?」と尋ねられる。多くの子供たちは僕に向かって 「ジャッキーチェン!」と叫ぶ。
「おまえは強いか?おまえのスタイルを見せてくれ」という者もいる。東洋のイメージは「カンフー」だ。そして僕が「ヨルダン」と「シリア」の区別がつかなかったように、彼らにとっての「東洋」は「中国」も「日本」も一緒なのだろう。僕は毎日彼らに「へなちょこカンフー」を教える。

 

 

 

  ダマスカスのエロ親父


 ダマスカスはシリアの首都だけあり、さすがに大きな街だ。僕はここに到着した翌日、シリアで一番大きいと言われるモスク「ウマイヤド・モスク」に足を運んだ。
 モスクはパキスタンからずっと見続けていたので、正直お腹いっぱい状態だったのだが、このモスクはイスラム教徒の聖地ということもあった。一応足を運ばせた。
モスクは聞いていたとおり、今までとは比べものにならない程の規模で、シリア全土から人々が訪れてくる。四方は建物で囲まれており、中央の庭には一面大理石が敷かれている。拝観者は入場時に靴を脱いで裸足となる。庭は、両親を待っている子供達の遊び場にもなり、僕は気持ち良く長居をしていた。
すると、いつものように一人のシリア人が声をかけて来た。
「建物の中のホーリープレイスは見たか?」
 彼はどうやらここの看守らしい。正直僕は聖地などには興味はなかったのだが、暇つぶしに彼と話がしたくなり、早速ついていくことにした。
モスクの中に入ってから、彼はひとつひとつ丁寧に案内してくれる。しかしあまり興味のない僕は、どちらかというと、建物中で祈っているシリア人ばかり観察している。
しばらくして、僕が聞いていないとわかったのか、彼は黙ってしまい別の話をし始めた。
「おまえはパソコンができるか?もしできるならおれのパソコンを直してくれ」
(おっ!おもろそうな話題だ)
「簡単な修理ならできるぞ」
旅では人の役に立つことなど殆どない。できる限りということで僕は快くOKした。実はシリア人の家にもお邪魔できるということで有りがたい相談話でもあったのだが。
 パソコンの修理はインストールに関するもの。友人からもらったパソコンについて、彼はほとんど基本的な知識がなかった。シリアにおいて、パソコンのハードはかなり流通しているが、もちろんアフター面ではサービスが追いついていない。途上国独特の問題点だろう。

さて、彼のパソコンを直して、修理が終わりかけた頃、彼が僕に突然「SEX SEX」と耳元でつぶやいてきた。一体何のことだろうか?エロCD?聞き違いだろうこんなムスリムの国で・・。
彼は押入れを開けると、無言でにやにやしながら取り出した2枚のCDをパソコンにセットする。CDには「アジア版」と「欧州版」と英語で書かれており、彼は僕にこう言った。 「このエロCDだが、アジア版の女優が日本人か韓国人かわからないので聞き分けて欲しい」
「へ?!」
僕は一瞬ここがシリアであるということを忘れかけた。こんな中東の敬虔なムスリムの国でエロCDが見れるとは?!。一体どんなビデオだろうか。僕はわくわくしていた。ビデオが始まり、耳をすましてキャストの声を聞いてみると明らかに日本人の声だ。
「JAPANESE!JAPANESE!」僕は大笑いした。
こんな映像を見るのは何日ぶりだろうか。僕は聞こえてくるストーリーのセリフを聞き分けるべくボリュームを上げようとすると、
「今は大丈夫だが、本番が始まったら音が漏れて近所の人に恥ずかしいので後で小さくしてくれよ」と彼は言う。あほである。 10分ほどのストーリーが終わりると、彼は「ついでに翻訳してくれないか」と僕に頼みだした。
「へ?!ほんまかいな?!」
 僕は無茶くちゃ恥ずかしかったのだが、彼のために何となくストーリーを英語に訳してあげた。内容はこんな感じ・・。ある夫婦がいきなり行為を行う場面から始まり、それを終始窓からのぞいていた訪問販売のビジネスマンに盗撮される。そして翌日、彼は旦那が留守の間に家に押し入り、写真をネタにして強請って、そのままベッドへ行く。すると途中で旦那が帰宅して何故か3人で行為を行うことになる。べたな話であるが数多くのビデオの中でも彼は日本のものが一番お気に入りらしい。
「日本人は背も小さいけどあれも小さいね」と彼は僕に言うので、「でも堅いんやで」と反論しておいた。
  彼は40歳過ぎの立派なアラビア語からドイツ語の翻訳家であり、ドイツ語ガイドでもある。そして、超スケベで頭が良い知識人だ。彼は他にもエロ画像をたくさん持っており、妻に見つかりそうなものは消してくれ、と少々慌て気味であった。僕はムスリムであろうと、ここシリアでこうやって本能通りに生きる一面を持った人に出会えたことをとても嬉しく感じた。
 その後、彼とは馬鹿げたエロ話をしばらく続けていた。そして、裏の倉庫からワインやら出して来てくれたり、食事までご馳走してくれた。僕はまさかこんな遠い異国の地で「日本のAV」が見れようとは夢にも思わず、客観的な自分の姿を考えると笑いが止まらなかった。ここは日本からはるか遠い「シリア」。シリア人のええ歳したおっさんと、日本人の僕が奥さんに見つからないように暗闇に隠れて、日本のAVを見ている姿。思い出すだけで今でも吹き出しそうだ。