「ラオス」という国は皆さんあまり馴染みがない国だと思われますが、1994年に鎖国状態から開放した国で旅行者の間ではそんなに辺ぴなところではありません。現地には日本の経済援助にて建設した道路、学校、バス、井戸がそこら中にあり「JAPAN」の看板が数多く建っています。また第二次世界大戦時日本はラオスの独立に(大義名分として)手を貸していたこともあるからでしょうか、ラオ人たちはそんな日本に感謝しておりとても親日です。
話はそれますが、日本は中国にも巨額のODAを行っているのにそんな看板全くありませんでした。政府の政策の違いでしょうか。むしろ中国はアフリカ数ヶ国に経済援助を行っているぐらい。内部も外部も闇のODA世界です。

 

 

  何もない

 
ラオスで僕は毎朝5時に目が覚めた。何故だろう。
延々と続く水田から昇る美しい朝日が僕を起こしてくれる。日の出と共に僕は村を歩き出す。旅行者に「ラオスってどんなとこ?」と尋ねられたら僕はこう答える。
「何もないよ。覚えているのは子供の笑顔だけかな」
 ラオスの子供達の遊びは「水浴び」「果物取り」、「探検」が殆どだ。子供達は全身泥んこになりながら裸足で駈けずり回る。彼らは皆歩いている僕に向かってこう叫ぶ。
「サバイディー=こんにちは」。
 
僕が一言返すだけで子供達は周りに群がり始める。あまりの彼らの可愛さに思わずカメラを出してしまうと、子供達の気分は最高潮となる。その瞬間彼らからはとんでもない笑顔が飛び出しその場の雰囲気は和やかになる。決して日本人にはできないであろう「自然」の笑顔だ。子供達は兄弟や姉妹で遊んでいる姿が目につく。田舎へ行くと全裸で走り回る子供達も少なくない。
 夕方涼しくなると学生達が裸足でサッカーをし始める。僕がふらっと覗いてみると必ず「来いよ!」と声がかかり、僕は一緒に裸足で走りまわる。全面芝の校庭でサッカーをするのは気持ちがいい。しかし地面は凹凸が激しいのでボールは何処にいくかわからない。そんなことは誰も気にせず、試合が終わると負けたほうが勝ったほうにジュースをおごる約束だ。どこの国の子供も同じだ。

 この時期ラオスは雨季真っ盛り。毎日どしゃぶりの連続だ。特に夕方からの大雨は半端でないぐらい降ってくるので身動きが取れなくなる。腹が立つというより笑いが止まらない。ほんの小1時間で町中洪水状態だ。その後1時間で水は引いて行く。何度町中の閉店した店の前で雨宿りしたことか。こんな雨が日本で降った日には大パニック間違いない。ここで降る雨は全て目の前の土の中に吸収されていく。ここでアスファルトを探すのは難しい。
 夕方街を歩いていると民家の中から声がする。「楽しそうだな」と覗いてみると彼らと目が合う。ラオ人たちは僕に向かって「おいでおいで」と手招きを。彼らの輪の中心には地酒「ラオラーオ」の一升瓶が何故かいつも置かれている。僕が輪の中に入っていったとき、彼らはもう既に出来上がっている。この国ではロックで瓶が空くまで回し飲みするのが習慣。珍しい日本人が来た日にはもう彼らのおもちゃになること必至だ。この「ラオラーオ」のお陰で僕は何度ぶっ倒れたことか。気が付くとその場に倒れて一眠り。彼らは毎日これを続けているらしい。

 ラオス国内は殆どが長距離バスか、ダットサンを改造したようなトラックバスでしか移動できない。舗装されていない道は赤い砂埃がずっと舞い続けているため、8時間もバスが走れば体中埃まみれだ。トラックバスは地元ラオ人を乗車させるために何度も泊まる。地元の高校生から農作業中の地元民と様々な人が乗車してくる。雨が降り始めると客自身が簡易ビニールカーテンを開け閉めしなくてはいけないが、閉めても殆ど効果はなく、いつも僕はずぶ濡れだ。トラックは荷台が空いていると上に乗せてくれる。窓なしトラック。時速90kmで、直線の道路を掛け抜けるのは本当に気持ちがいい。
高速ですれ違う小学生がいつも僕に手を振ってくれる。遥か遠くから手を振っているのでかなりの視力に違いない。バスの中には一時間経っても二時間経っても来ないのもあるが、そんな時は近くの売店でおしゃべりだ。この国に定刻は存在しない。のんびり時間が流れる。一日がとてつもなく長い。

 ラオスの面積は日本の3分の2。人口600万人(横浜市ぐらい?)で、首都ビエンチャンでは5階建以上の建物を見かける事がなかった。世界最小の首都ではないだろうか。僕の実家「枚方」の方がまだ都会だ。ある日本人が僕に教えてくれた。
「国家収入の四分の一が外国人ビザ代」。面白い国だ。
 この国はまだまだ発展途上だ。輸出は「木材」若しくは、メコン川や人口湖を利用したタイへの「電気」だ。労働力も少なく、観光地もこれといったものが何も無く、これからの発展性はあまり感じられない。それなのに彼らは何も無いこの地に贅沢も何も求めずに幸せに生きている。
「何もない平和なこと」が彼らの生き様。
「自然と共存していくこと」が彼らの贅沢。
物を作り消費することに必死となっている日本人の対極にいるラオ人、果たしてどちらが幸せなのだろう。


 

  タイムスリップ


  ラオス南部には「シーパンドン」(四千個の島という意味)という地域がある。僕はこの中の三番目に大きな島「デット島」に5日間滞在する事にした。さてここには何があるのか。正直ここにも何もない。何をするのか。正直何もする事がない。
「何もないことが一番の魅力」
美味しい空気と豊かな自然、無邪気な子供、気さくな人々、ここに来ると二千年前の日本にタイムスリップした気分だ。もちろんそんな日本は知らないが。

 デット島は1日あれば歩き回れる小さな島。村がいくつか点在しているが、どの村にも電気はない。夜になると持参のライトだけが頼りだが、地元の人達は月明かりを見て移動する。この島のトイレは水汲み式だ。毎回桶で「もの」を便器へ流す。もちろん紙などはなく手で拭くのが習慣だ。トイレの横には数匹の豚がぶーぶー泣いている。風呂は大きな水槽が一つ備え付けられているだけだった。恐らくこの水槽の水は雨水であろう。また、側には小さな桶が一つだけあり、全ての作業、洗濯、シャワー、トイレをこれで済ませる。
 ラオスの交通は全てバス移動だがここシーパンドンには国内唯一の鉄道が存在する。なぜこんな島に鉄道があるのだろうか。ラオスは第二次世界大戦時、仏領植民地であった。当時、フランス政府はメコン川を利用して船にて物資を内陸に供給していたが、唯一ここに障害となる巨大な瀑布群があった為、一時的に荷揚げして陸路で運ぶしか方法がなかった。つまり当時の残骸が今もここには残っているのだ。今ではこれらの残骸線路は川の架け橋や崖の階段として地元民に利用されている。もっとも現在一番の利用方法は子供達の遊び場になっているのだが。

 島には「市場」がない。僕達の夕食の材料を仕入れに行くために女将は毎朝5時に対岸の本土へと足を運ぶ。この日僕は興味本位で「荷物持ち」役として、彼女の後について行く事にした。彼女は片手に昨日川際で釣った魚を6匹持っている。
「どうするんだい?」と僕が尋ねると
「これを市場で売ってからバナナと水を買って帰る」という。
魚一匹8000キープ(80円)で売りたいと言っていたので全部で48000キープ(480円)だ。果たして希望通り売れるのだろうか。
 市場に着くと多くの露店が立ち並んでいた。そして彼女は、さっそくその中のひとつの魚専門の露店を選んで交渉を始めた。ラオス語の数字ぐらいは理解していた僕は、彼女のやり取りを終始眺めていた。
「8000でどうだ?」
「んーそら4000だな」
「7000でどうだ」
「4000以上無理だな・・」
しぶしぶ店を替えて再び交渉開始。
「8000でどうだ?」
「んーそら3000だな」
「6000でどうだ」
「3000以上無理だな・・」
同じ会話が交わされる。彼女の顔も行きの船で見た笑顔とは程遠い。
その後5軒ほど彼女は同じような会話をしていたのだが、結局彼女は諦めたのか一匹4000キープで売ってしまった。始めから予想していたのか、思惑以下だったのか僕にはわからないが帰りの船の彼女は口数が少なかった。そんな文明とは程遠いこの島で僕は5日間過ごしていた。

「ケンジ、ちょっとおいで」
デット島で過ごした最終日、宿主は僕をある場所へ連れて行ってくれた。宿から歩いて5分の場所だ。そこは小学校らしきところだったが今日は休みのため子供達は誰もいない。彼は壁の下の部分を指差して説明してくれた。『WATANABE JAPAN』「ワタナベは10年前この地に遊びに来た。そしてこの村に一つの学校を作ってくれた。彼はお金を出すだけでなくここへ来て業者達を指導し学校を建てた。そうやって今では3つの学校がここにあるんだ。彼には感謝しているよ。」世界中の見えないところで日本人が活躍している。ふと自分の立場を考えてみた。

 

        

            (シーパンドンに残された鉄道跡)          (川魚を捕るための網)   

シーパンドンの写真は友人のHPにも載ってますよ。 → 山家蔵 ほろほろ日記へGO

 

 

 

 タイといえば「バンコク」。アジア人だけでなく、欧米人、南米人と世界各国からこの街に旅人が押し寄せる。バンコクは奥が深い。コストパフォーマンスといいエンターテインメントとしても魅力的な街だ。それゆえ旅人なら皆バンコクが好きだ。しかしこの時の僕の気分は「バンコク」でなかった。何故だろう。今思えばもう少し遊んでおけばよかったと後悔する。(帰国後筆)  僕が唯一向かったのはタイ北部のみ。熱帯真っ盛りの「タイ」だった。その時を思いだす。何故あんなに僕は急いでいたのだろうか。旅に対して少々疑問を感じ始めたころだった。無茶な移動で昼間寝たり、夜起きたりと生活は乱れて、駅で風呂に入ることもあった。汗だくの中、ウエットテッシュだけで体を拭き終える日もあった。よく風邪を引かなかったと今では思う。

 

 

 

 

 

 

  POLICE

バンコクからバスで12時間、タイ最北端ミャンマーとの国境の町「メーサーイ」。一日だけならこの町からビザなしでミャンマーへ陸路入国ができる。しかし今年2000年の4月に、ミャンマー軍がタイ側へ突然砲撃を行い民間人2名が死亡するという悲惨な事件があった。ミャンマー側は誤砲だと説明しているが、この事件以来ミャンマー国境周辺は緊迫した状態が続いている。 境界は今も尚閉門しているとのことだが、僕はどのような空気になっているのか確認したく、「メーサーイ」へ向かった。

 「メーサーイ」は小さな町だ。丘に展望台とマーケットがあるぐらい。こんな事件が起きたばかりに土産屋の人達はさっぱり売れず商売上がったりだ。イミグレーションではやはり「You can not go MYAMER」と吐き捨てられてしまった。
 この町の近くに「中国人」が多く住む町があると聞いていた。僕はタイ名物トラック、ソウテウで「メーサロン」へ向かった。この町は中国が毛沢東政権の時代、旧国民党が政府に追われてこの町に逃れてきた場所らしい。タイなのに町中、中国語が飛びかっている。この町ではお茶の文化も中国と同じようにありくつろぐ人々は皆お茶を飲んでいる。
 さて「ソウテウ」とは民間のトラックタクシーで、ダットサンの後部に椅子や屋根等をつけて改造したもの。人数(6人ぐらい)が集まるまで出発せず、料金を倍払えばその場で出発してくれる。効率がよいといえば効率がよい。ソウテウ乗り場には車が10台近くあり、運転手は賭け事をしたり、裁縫をしたり、テレビを見たりと、タイ人らしくほとんど働かずまったりしている。客の人数を考えれば一日中働かない輩も恐らくいるだろう。何とも効率がいいような悪いような商売だがこれがタイの国民性を表しているのだろう。何もなくのんびりと・・これがタイそのものだ。

この日夕方僕は更に「タートーン」という町まで移動してきた。この町で僕が宿探しの為にぶらぶらしていると、一人の警官が近づき話しかけてきた。
「ようこそようこそ。タートーンへ!どっから来たの?どれぐらいこの町にいるの?」
いきなり警察に歓迎されることは今までなかったので僕は一瞬驚いた。屈託のない笑顔で握手を求めてきたこの町のおまわりさんの名は「ノイ」。彼は早速交番の中を案内してくれこの町の見所と安宿を僕に紹介してくれた。
紹介してくれた見所の一つに「少数民族訪問」というのがあった。
「この町には少数民族が数多く住んでいるんだ。ラフ族、アカ族、ヤオ族と。そして実はカレン族という首長族もここに住んでいるんだよ。」ノイは首に手を回して説明する。

「彼女たちはもともとミャンマー国内の内戦から逃れるためにこの地に2年前にやってきたんだ。 そしてタイ政府は行き場のなくなった彼女達に、 今では国籍を与えて守ってあげているんだよ。 何だったらタクシー呼んで遊びに行ってみるかい?教えてあげるよ。」。
別の町に首長族がいるのは他の旅行者から聞いていた。 しかしここにも住んでいたとは。 僕は嬉しくなって、早速彼に頼むことにした。
「10分後タクシーが来るから・・」 そして言われた場所に行ってみると、そこには「ノイ」が笑顔で待っていた。
「??!!タクシーってあんたかえ?」
どんなタクシーかと思えば彼の自家用車。仕事は途中でおいてきたという感じだ。まあ警察がガイドをしてくれるなら逆に頼もしい。
  ここからカレン族の村へ時間にして約30分程だった。「ノイ」はとてもフレンドリーで色んなことを話しかけてくれる。僕は決して英語が堪能ではないのだが、彼に
「ケンジは英語は上手いね」と言われて上機嫌で楽しく会話する事が出来た。彼の話の中でも印象的だったのは「何故このあたりは犬が多いの?」と質問したところ、「アカ族が食料用にするからさ」と言っていたことだ。中国と同じようにタイでも犬を食べるのか。中国の市場で食用用につながれた犬を思いだす。

さてカレン族は本当に奥まった山の中で生活していた。ここに単独で入りこむのは難しかったかもしれない。彼と出会えてラッキーだった。入口には男性が門番をしていて入場料を払う。これは彼らの生活費になる為のもので寄付みたいなものである。  
村に入ってからはすぐに彼女達を目にした。気分はもう「ウルルン!」だ。彼女達は援助を受けている事もあってとてもフレンドリーである。僕は子供みたいに単純に嬉しくなって何度も何度も握手を求めていた。 彼らの首に巻いた金属はとても重い。女性は15歳になると「幸せ=lucky」を呼ぶために少しずつ首の輪を増やしていくらしい。

少し日本語の話せる「パダム」さんのお腹はふっくらとしていた。僕は勝手に彼女のお腹を見て、このお腹の子もやがて沢山の輪を首につけ大きく成長していくのだろうかと想像を膨らませていた。 ノイは巡回でこの地へは何度も見回りに来ているらしい。その為彼女達とも世話になっているのだろうか、とても顔見知りで、気兼ねなく写真も取らせてもらった。思わぬ町で思わぬ人と出会い貴重な体験が出来た。旅はそういった偶然の出会いが一番楽しい。

さてその後ホテルに戻り、今日あった出来事を自分の部屋で日記に書いていると、 ドンドン!!
「 ケンジーもう寝たかー?」ノイの声だ。
「飯食っていないんだったら一緒に飲んで歌いに行こうよ!」
僕は食事を既に済ませ寝る直前だったのだが、楽しいイベントに僕が参加しないわけがない。すぐにOKと伝え着替えて表に出た。するとそこには一緒に遊びに行くメンバーが集まっていた。一人はタイ人「ラッキー」ともう一人、あれ??「日本語を話すぞ?!」もう一人は日本人だ。何とノイの妹さんと結婚し3年前からここに住んでいるという50歳過ぎのおじさんだ。すごいメンバーだ。  そしてこれから何処へ行くかと思いきや、何と目の前の「パトカー」でカラオケパブに行くとのこと。
「おー!!タイのパトカーに乗れるとは!!」
「ん?!でも帰りはもちろん飲酒か??ええんかえ!!」
 タイ人は昼間寝ているくせに夜になるとごそごそと動き出す。しかも毎日3時、4時と疲れ知らずで遊んでいる。この日も結局3件梯子して帰着は1時前だった。前日夜行バスで着いて朝7時から活動していた僕には少々辛かったが最後まで楽しい一日を過ごす事ができた。

 

(ノイとパダムさん)