アンコールワット

 「アンコールワット」。世界遺産でもお馴染みの13世紀に建築されたクメール文化の最高傑作。遺跡に対してそれほど興味を持たない僕にまでも飛び込んでくる迫力は、全体のシルエットからだけでなく、細かに当時を再現させている壁画からも感じられる。むしろ近寄って見てこそクメール人達の思いが伝わる気がする。壮大壮麗荘厳、まさにこの言葉が世界で最もふさわしい建物かもしれない。入口の巨大顔石像を真下から眺めた時、僕は心を射ぬく何か大きなものを感じた。700年間一体どれ程の人々が僕と同じ気持ちになったことだろうか・・。
 敷地内を3日間自転車で動き回ったが、全て見終えられない広さだ。日本では決して見ることのできない巨木が立ち並んでいる。敷地内は今では完全に道が舗装されてしまっているが、発見された当時、130年ぐらい前はジャングルの中にそびえ立つ神秘的なものだったのだろう。建築当時、文明の利器たるものはまるでなかったのであろうが、今のカンボジアとは変わらぬ社会体制は出来上がっていた気がする。壁画から読み取れる市民の生活は本当に今と何も変わらない。むしろ、道徳観念、倫理意識は今のカンボジアよりかはるかに高かったのではないだろうか。そんな気持ちでこのアンコール遺跡群を3日間かけて動き回った。
 こういった遺跡や自然の中に自分を置いてみると「自然摂理」といったものが偉大に感じられる。毎日東から日が昇り、西へと沈む。自然の流れは何も変わらない。変わっていくのは人間の心だけ。やっと平和が訪れたカンボジア人の心も急激に変化していくのだろう。

 


 

 

  心

 カンボジア人の心は明らかにラオス人たちとは違っていた。それは勿論彼らの表情からも読み取ることが出来る。僕を騙したトラックの兄ちゃん達、そしてアンコールワット内の土産屋の売り子たちの対応、気が抜けないのは明らかだ。それはカンボジア王国建立までの険しい道のりが引き起こした副産物で、仕方がないのかもしれない。フランス植民地時代を過ぎてからも、ポルポトによる大量虐殺時代を経験し、その後はベトナム戦争に巻き込まれ、他の東南アジア諸国が安定していった中でも、国王と首相との内戦が引き続く。これは僕が高校生の時の出来事だ。
そういった世界情勢も詳しく知らず、僕は平和な時を過ごしていた。この国を知れば知るほど非常に恥ずかしく感じる。国連UNTAC介入後のカンボジアも、まだまだ安定しない。世界中がカンボジアの平和を祈る中、再び武力衝突を引き起こす内戦混乱状態。これもまだ4年前のこと。今のカンボジアの状態を見て、そこまで重たい歴史のある国だったとは信じることができない。今カンボジアは、当時の知識人達が殆どポルポトに殺され、若い世代を教育していく人々が不在となっている。まだまだカンボジアの自立は先が長い。観光地は高級ホテルの建築ラッシュ。
ようやく「平和」を手に入れた反面、アンコールワット内の客商売人などは、資本社会がもたらす拝金主義に心が染まっていってしまっている気がする。今はある意味この国がもっとも変化していっている「転換期」。 「アンコールワット」は彼らの先祖が激動の情勢の中を生き抜いてきたカンボジア人達に残してくれた「贈り物」。散々国家に裏切られた彼らが唯一信じるものは「アンコールワット」だけらしい。なるほど「決して裏切らず、人々に恵みと安らぎ、幸せを与え続けてきたもの(観光収入含め)」とはよく言ったものである。 

 

 

  大虐殺 


 僕が生まれた1976年からおよそ4年間、カンボジア国民600万人中1/3の人々が狂人「ポルポト」に殺された。ブルジョア階級、知識人達を無差別で投獄し、その後拷問にかけ虐殺を繰り返した。彼もまた毛沢東を崇拝して共産主義を徹底し、人民に地獄を味合わせた最高権力者の一人である。また、毛沢東と同じ政策のもとにあらゆる国の文化を尽く破壊した為に、現在寺院等は殆ど残っていない。
 僕はプノンペンにてこの大虐殺、拷問が行われた刑務所「トゥールスレン」と死体埋葬所「キリングフィールド」へこの日足を運ばせた。異様な空気、雰囲気、臭い、ここは昔の高校校舎を利用した虐殺所。校舎は4棟あり、独房棟、虐殺棟、体罰棟、管理棟とぞれぞれ別れている。僕が最初に足を踏み入れた虐殺棟はベトナム軍がポルポト派を制圧した時、ベットには死体がつながれていたままだったという。辺りを見回すと床に残る血痕、ゆがんだベッドや窓枠、徐々に苦しみもがき死んでいったカンボジア人の姿が目に浮かぶ。体が熱くなる。生きるってことは彼らにとって何の意味があったのだろうか?並べられた殺されたカンボジア人達の写真、皆同じ表情をしている。何かを訴えているのか。死を直前にした彼らの表情は絶望を感じさせる。数々の拷問イラスト、幼い子どもの足をつかみ大木の幹に打ちつける物、ペンチで指を切る物、拷問する側の彼らの表情はもはや「人間」ではなくなっている。
「人形=ドールだ…」
 彼らに殺されたカンボジア人の表情を見ているとなぜか涙が止まらない。なぜ人はこのような残忍な行為ができるのか・・。自分もこのような環境で生まれ育っていたなら、同じ立場なら、彼ら(犠牲者)に対して、自制心なくして同じ行動をし得ていたのだろうか?木に投げ飛ばされていた赤ん坊は、もし成長して大きくなっていたらこの国を支える立派な青年になっていたはずだ。僕と同じ26歳という青春真っ盛りである。一人の狂人が国のトップに立ってしまったた為に起きた悲劇。
 20世紀最後で最悪の悲劇ともいわれている惨殺を受けたこの国の人々が背負った苦しみ、悲しみ、そして解放されたときの喜びは計り知れないものであろう。街歩くプノンペンに住む人々の眼の奥からも、旅人である僕は何かを感じる。平和になった社会、外貨で溢れかえり、幸せを掴んだ笑顔とは別に、時々彼らが見せる悲しみの表情である。
 ポルポト時代におけるカンボジア人達(殺す側も殺される側も)は果たして自らの行動を認識できる状態にあったのだろうか。いや、僕は全くなかったと思う。
「その時彼らがあるようにしかあり得なかった」

誰が悪かったわけでもなく、ただ一人の狂人が人類の中に生まれてしまい、運悪く国のトップに立ってしまった。そうとしか思えない。戦時中、戦後も含め「あるようにしかあり得ない」社会が続いていた。それは「政治」「宗教」「貧困」という問題を含めると世界中がそういった状態。日本も例外でなかったはずだが、今の僕の時代は「あるようにあり得る」時代となった。
 それは本当の意味での自由。何のために生きているのか、求めるものまでも自由。しかし、これは一番難しいと僕は感じる。だが、自分の中で何かを信じて信念を持ち、行動していかなければならない気がする。それは「この時代に僕が生まれて果たすべき責任」である。
トゥールスレンに並べられたあの写真、完全に望みを失ってしまった彼らの瞳がそう教えてくれた。

 

 

 

 

  ピピー!止まりなさい!

 この国には武器を取り締まる目的もあり、警察の検問が沢山あるが、しかし闇の警察もごろごろしており、冤罪に伴う賄賂も氾濫している。有料通行手形みたいなもんだ。そんなとばっちりに僕も巻き込まれる事になろうとは。
それは一昨日この国の首都プノンペンでレンタルバイクを借り市内を観光している時のことだった。
 突然、「ピピー!!、止りなさい!さあ歩道に上がって!」
(おいおい、わしが何したんやっちゅうねん?!)
「ここは公用車しか通ったらあかんのや!お前はそのルールを破った!」
「知りませんがな・・帰ってええか?」
「だめだ!ここはカンボジアだ!ルールに従い警察署まで連れて行く!」

「待ってくれ!皆同じように走ってるやん?!」
「あれは公用車だからいいんだ!」
「わしのバイクも公用車やろ?!」
「あほか!」
「とにかく待っておれ!」
(えらいもん巻き込まれたわな・・どうしよか?!)10分ぐらいして・・
「後ろのれ!」
(あーー罰金かいな・・いくらやろ??)
「なんぼや?」「5$」(しゃあないな・・)
すると何故か警察の下っ端が現場近くをうろちょろうろちょろ・・
僕になにか言っている。

「20$20$・・・ボソボソ・・・」
(あ・・こいつ賄賂要求しとんねんな・・下向きながらボソボソ言いいやがってしかも人の顔も見んと話しやがって!ほんまむかつくぞ!絶対払わんからな!)
「すいません。1000リエル(30円)しか持ってなくてどうしたらいいですか」
「20$20$・・」
「しつこいな!」
「もしこのまま警察行ったら100$やぞ、見逃したるから。」
(あほか、誰がお前に屈するか!)
その後、僕はノーマネーと言い続けてたら、元の場所に連れて行かれた。
すると今度は
「かばんを開けろ!」
(何でお前に指図されなあかんねん!)
「カメラしかないよ・・・」(隠し金見つかったらどうしよう・・)
すると、下っ端警察官が僕のカバンから何かを奪って自分の鞄の中に入れた。
「帰っていいぞ」
(何取ったんじゃい!!)
僕は怒りが頂点に達していたが、これ以上もめると彼らの権限で100$どころかとんでもないことなるかもしれない。
(とりあえず逃げよう)

そうして僕はその場を離れた。そして、カバンを開けて中を確かめてみると、先ほど奪われたものは「電卓」だった。これは後輩が旅出発間際に僕にプレゼントしてくれたものだった。非常に申し訳ないと、その時思ったが、運が悪かったと思って欲しい。本当にはらがたつ出来事だった。しかし現地の人に事情を聞くと、1000$2000$取られてる外国人もざらにいるとのこと。僕は最低限ですんだのだろうか。本当に有り難う、後輩達よ。 

 

 

 

  世界一の列車

 

 この国には世界でもすごい鉄道路線がある。週3本という信じられない少なさ。しかしこの鉄道の本当の「凄さ」は乗車するまでまだまだ僕は理解していなかった。
 この日出発予定時刻はAM6:40。チケットを買うために受付けへ行き、行先を告げるが、駅員はクメール語で「No!」としか言わない。しかも殆ど米ドルを使ってきたこの国で、現地通貨しか使えない。予定時刻ぎりぎりに走って両替を済ませて無事乗車することができた。

 この列車何が凄いって、まず車両本体だ。照明は全て取り外され、窓枠ガラスもなく、床は1部剥がれ線路が見えている。また、座席は半分近く床に食い込み、荷台は全て撤去され、壁中落書きだらけだ。車輌18輌中、客車輌は1輌だけで、残りは全て貨物。列車のスピードは時速15キロで260キロ駆け抜けるので、目的地にまで18時間もかかった。
さて、6時出発の列車は予定が遅れてなんと9時出発。列車に乗っていた乗客は約20人だけだった。灼熱の炎天下の下で6時間走り抜いたあと、東南アジア名物、横降りのスコールがやってきた。もちろん窓がないため全員びしょ濡れだ。その後、一気に気温は下がり自然のクーラー地獄となった。列車は18時を過ぎると、隣人の顔すら見えない暗闇になった。レールと車輪がこすれる音と、蛙の鳴き声で隣人の声すら聞こえない。車内では意味不明のクメール語が飛び交う。ニワトリが僕の足元を何羽も走り抜けた。途中、笛を吹く人、太古を叩く人、歌を歌う人も乗車してきた。視界0の暗闇の中、こんな状態が7時間も続く。唯一頼りの車掌は、車内の窓の左右にハンモックをくくりつけて寝てしまっている。僕の体は緊張で固まり続けていた。
「盗難に気をつけて」
夜になると車掌もさすがに心配してくれて、見回りに来てくれたが、懐中電灯がないとやはり辺りは何もみえない。そうして、ようやく目的地に辿り着いたのは深夜の1時だった。駅に人影はなく、タイミング悪くどしゃ降りになっていた。市の中心街までタクシーを探すべく、ずぶ濡れで歩き続けていた。その後、バイクタクシーを見つけることができたので、宿まで送ってもらうことが出来た。
 こんな列車未だかつて見たことがない。いや今後もあり得ないだろう。この列車がいつ「世界の車窓から」に取り上げられるか楽しみである。