現在パキスタン・ペシャワールです。僕にとって、ここにはメディアでは感じることのない世界が存在しています。自然、人々、宗教、食事、全て想像もできない世界でした。ムスリム圏に来て自分の肌でこの国を感じることができてよかったと今は思っております。心配なさっている方、ご安心ください。とてもいい国です。決してノー天気で言っているのではありません。情勢を調べた上でです。
 さて、1ヶ月程いた「インド」。僕にとってとんでもない国でした。正直、2度と来ることはないと思います(笑)。インドのイメージ・・うそつき、ガンジャ、ボランティア、これらが僕には合わなかったという表現のほうが正しいかもしれません。主観です。今回も日記抜粋です。パキスタン編は後日送ります。それでは。

 

 

 

  入  院


9月17日 晴

 カトマンドゥからの発熱がとうとう3週間経ってしまった。一体何が原因なのであろうか。日本より持参していた「旅の病気」という本を見ている時間が長くなる。「長期的微熱」「潜伏期間3週間」=A型肝炎。同じページばかり僕は何度も眺めている。 尿や便は大丈夫か、毎日10回以上体温計にお世話になり気が気でない日が続く。
「早く大きな街へ出なければ・・」
そんなはやる気持ちが治まらない微熱を更に長引かせていたのだろうか。

ここ二週間以上の間ツーリストと出会ったのはたったの二回だ。一人で食事をする日が続く。精神的不安定な状況が続いていたのも体力がなかなか回復しない原因かもしれない。音楽は邦楽ばかりを聞き、日本の友人へ会いたくなる気持ちは募るばかり。改めて日本での何もなかったように思えた日々が幸せに感じる。高校時代、大学時代、サラリーマン時代と多くの友人を得た。家族を含め、僕にはたくさんの財産が日本にあり、そして僕を待っている。。
「体だけは日本へ持って帰らなければ・・」
日本がとても恋しい。


9月27日 晴

 僕は今カルカッタの「ベルビュー」という病院に入院している。今日で2日目だ。何故僕はこんなところに寝ているのだろうか。2日前、ネパールより治まらなかった熱が再発した。それはバラナシ行きの切符を買いに、同じ日本人の女の子とカルカッタ駅へ向かったときのこと。
激しい倦怠感が僕を襲う。昨日の夕刻も同じように体にだるさを感じて体温が1度以上上がっていたので懸念はしていたのだが、今はその時以上の重みが体にのしかかる。
「重い・・一体何なのだこの重みは・・」

僕は不安になった。細菌なのか肝炎なのか。歩いていて視界に入るインドの光景は僕の目には何も写らない。
「もしここで一人だったら周りのインド人達と同じように道端で倒れ誰も気付かずに置き去りにされるのだろうか…。」そんな消極的な考えばかりが頭をよぎる。
重い体を引きずり宿に帰着して熱を計ると、平温より3度も高い。
その後、解熱剤を服用して一時は微熱まで下がったのであるが、夜半大量の汗と共に熱が出たのをきっかけに、僕はカルカッタで一番有名な医院へ向かう事にした。扱いに慣れていた旅行者専門の医者はすぐに入院にして安静にしておくようにと判断する。そして僕は海外旅行傷害保険に加入していた事もあり、病院一高いACテレビ付きの部屋に入院することになった。

入院期間は4日間。ここでは医師、ナース、清掃係、輸血係、X線係、尿便係、食事係と幾人もの人たちが僕の部屋を出入りする。何から何まで彼らが僕の面倒を見てくれる。そして旅をして6ヶ月間で一番清潔な部屋に泊まり、僕は自分でも「十分すぎる」と確信できる程体を休めることができた。今までどれほど汚く不衛生な宿に泊まっていたのだろうか、それを改めて感じると共に、日本での清潔過ぎた生活が懐かしく思い出される。日本でいくら不潔だと思っている行為でも、世界的にみればそこまで不潔ではない。世界全体からすれば日本は高水準の衛生を保っている国だ・・。

 この時の僕はもう日本に帰国したような感覚でいたが、自分の部屋、最も景色の良い4階からカルカッタの街を見下ろすと、老朽化したビルがいつものように目下に立ち並ぶ。昨日まで見てきたカルカッタ市内の光景、またインドに入国してこの10日間のことが鮮明に頭に蘇ってきた。
 平然と道路に汚物が垂れ流され、黄ばみきった道路には、日銭を稼ぐためのインド人たちが大勢大声で叫び通う。至るところに山積みされた放り出されたごみや、排泄物の山にはカラスや豚が群がり、人間の姿もちらほらとみえる。今は雨季のために感染症が蔓延しやすい環境。どこで人が死んでいるかもわからない。ふと1週間前に街で出会った『もの』のことを思い出した。その時の抑えることの出来なくなった何とも言えない感情。 

 その日も街を歩き、そこからたちこもる悪臭に正直嫌気がさしていた。僕のこの国に対する「汚い」という気持ちはなかなか拭えない。いくらこれがインドなのだといわれても、この時の僕は日本人として生理的に受け付けられないものが存在していた。
「早く出国したい、この国から・・」そんな矢先僕はこの街の真中で路上にて「死人」を目撃してしまった。まだ温かそうだ。僕は一瞬戸惑った。そして自分の目を疑った。
「こんな大都会の真中で・・有り得るのだろうか・・」
60代ぐらいのホームレスである。つい1時間前までは生きていたであろうその死体は、瞳孔が開ききったまま1mmたりとも動かない。あのダッカでの衝撃が再び僕の体を揺さぶる。僕は彼の姿をしばらく凝視しながら、
「この男もまたどうしてこんな状態になるまで誰も気が付かなかったのだろうか・・」
僕は頭が混乱し始めた。そして周りにいた警備員が僕に向かって「向こうへ行け!」という。彼はこのままバラナシへ運ばれて行くのだろうか。それともここに永遠に放置されてしまうのだろうか。 何故だかわからないが涙が溢れる。これが本当に人間の世界なのだろうか。誰も彼を助けてあげられなかった・・そしてこの僕も・・。
 僕の目の前ではあらゆる神が奉られ宗教と民族が絡み合っている。どの信者も頭を地面にひれ伏しただ一点を見つめるのみ・・

 ここには日本では想像のつかなかった巨大な「貧困」が存在する。街を歩けば、外国人旅行者を狙ったインド人が次々と声をかけてくる。彼らの目の前で僕たちは平然と彼らの年収以上の金を次々と落としているのだからそれは当たり前のことだ。彼らが生きていくのに、僕達は絶好の獲物になる。物乞いの子供達の中には、配給の食事を楽しみに笑顔で並ぶ子もいれば、小綺麗な服を身にまといながら、抱きかかえた赤ん坊を指差して悲壮な顔で僕に訴えかける子供もいる。皆己の「貧しさ」を嘆いているかのようにあらゆる「神」へとすがりつく。彼等にとって「神」は何よりも大きな存在、貧困すら解決してくれるものなのだろうか。神は自分の中にしか存在しないと思っている「無宗教」の僕には理解し難いのだが、あらゆるものを見てきた僕は、正直最近何が何やら分からない。僕の体は「富」と「貧困」の間を行き来する。夢と現実の間を行き来するかのように・・。
この日以来、僕の周りで血の臭いがする。路上で寝ているインド人が全て死人に見えるのは気のせいだろうか。
カルカッタだけでなく、このインドには病や体の不自由に苦しむ人々が何億と存在するはずだ。そして、今その中に混じってこの僕もインドの「病院」にいる。
 この私立病院に来る人の多くは一部の「富」を得ている人。僕もその内の一人に入る。今のところ検査によると熱の原因は「疲労」からきた細菌の侵入らしいが、これほどまでに自分に罪悪感を持ってしまうのは何故だろうか。生まれた環境が違う。立場が違う。育ちが違う。体質が違う。だからといって全てが片付けられるのだろうか。少なくとも同じ人間なのに。自分が生まれた国や環境が世界の中でも常に特殊なのは旅に出てから感じ続けてきた事だが、そもそも自分の立場を「特殊」と感じること自体が先進国の驕りなのかもしれない。この国の中ですら僕は特別守られて生きている。

 

 

 

  ヒンドゥー教聖地バラナシ


 インド・ガンジス川の中流に位置する「バラナシ」。ここはヒンドゥー教の聖地でもある為に、多くの教徒がこの地を訪れる。そしてこの地で「死を迎える」為に、多くの死者も運ばれてくる。
 この町に辿り着いてまず驚いたのは牛の多さである。川辺、繁華街、ところかまわず牛が居座っている、そして大きい。細い路地で彼らが邪魔して通れないこともしばしばある。僕は体を横にしてすり抜けようとするのだが、服が牛の体に触れてしまうと牛は「ビクッ」と震え出す。同時に僕のからだも牛の3倍震えだし大声を上げる。どうしてこんなに堂々と街中に牛がいるのだと思っていたのだが、実は牛はヒンドゥー教の神様の一つ。それゆえ牛は神聖視されている。貧困層の人々が飢えに苦しむ中でも増加し続ける牛をヒンドゥー教徒(国民80%)が食べることはない。
そんな神聖な牛を写真に収めようとピントを合わせていると、牛はふてぶてしく「早く撮れよ」といわんばかりに去っていく。その牛を追いかけ再びレンズを牛に向けると、僕のほうを見つめ止まってくれる。牛も神聖視されている自分の立場が分かっているのだろうか、妙に人間慣れしているところがかわいい。
 ガンジス川の朝日は美しい。僕を毎日朝の5時に起こしてくれる。バラナシの朝日は今まで見て来たあらゆる国の朝日と似ても似つかない。世界で唯一ここだけの輝きを放っているように感じる。
空は真っ青なのだが、地平線上に薄くかかった水蒸気がここバラナシには存在し、この地に飛び出しエネルギーを放とうとする「太陽光」を遮るのである。無駄なものを一切濾過させるかのようにフィルターに通された光はまるで「夕日」のような輝きを保つ。陽がこれから暮れてしまうのではないかと錯覚してしまうぐらい美しい・・。 ヒンドゥー教徒の祈りはガンジス川に向かって毎日行われる。最も盛んなのはその「朝日」が昇る瞬間。ぞろぞろと川辺の階段で祈りとも言うような言えないような「水遊び」が始まる。最初僕はその光景を見る前にその「水遊び」の話を聞いて「人が風呂入る光景見て何が面白いのだ?!」と、ばかにしていたのであるが、日本人にとって珍しいからなのか、ぼーと眺めているだけでも楽しい。

その祈りの場を通して観察できる「インド人それぞれの行動形態」、家族の輪を深める交流の場になったり、見知らぬ人間同士の雑談の場となったり、もちろん商売の場となったりもする。そして「人間の真剣な姿」が見られる場でもある。
 さて先ほど触れた「死者が集まる場所」というのはこの町に大きな火葬場があるからだ。ネパールでも僕は火葬現場を見ていた。今回で2回目だ。1日300体焼かれるとも言われるこの火葬場には「子供・妊婦・サドゥー(ヒンドゥーの修行者)」以外が運ばれる。子供達はヒンドゥーの世界では「焼くに値しない」人々と考えられているらしい。従って多くの子供やサドゥーは目の前のガンジス川にそのまま捨てられる。この火葬場の撮影は絶対禁止。最も「人間の最後の姿」を撮る気などもちろん僕にはない。自分だってそんな姿撮られたくないと思うのが普通であり、当たり前だろう。

火葬場には家族はもちろんのこと、地元の人々も多く憩いの場として訪れる。赤の他人だからだろうか、「悲しみに包まれた」といったような雰囲気を僕は感じない。立ち込める煙の煙たさと、観光客を相手にするぼったくりの輩共のけむたさを感じるぐらいである。
しばらく呆然と火葬を眺めていると一体の男性であろう死体が運ばれてきた。最後の彼に対する清めなのか、彼の体がガンジス川の水によって濡らされ山積みの薪の上に置かれる。僕は何故か祭りのセレモニーを見るかのような気持ちでいた。その横の薪の上には既に全身黒焦げになり、昔小学校の教科書に載っていたような戦時中の焼死体が僕の目の前に転がっている。
僕は冷静だ。否、何にも感じないといった方が正しいかもしれない。
隣でお喋りしている陽気なインド人達の雰囲気に飲み込まれてしまったのだろうか、それとも僕の体が麻痺してしまったからなのだろうか。僕は自分が恐ろしくなってきた。
「早くこの国から出なくては・・」
今まで見てきたものだけでなく自分自身すら訳が分からなくなっている。これがインドなのであろうか。 僕は火葬場を離れ、すぐ横の川辺に座りガンジス川を眺めていると男の死体が浮かんでいた。 何も感じない僕がここにもいた。

 

 

 

  シーク教の聖地アムリトサル


 インドを早く脱出したかった僕はパキスタンとの国境近くの街「アムリトサル」へ向かった。毎度のことながら、行きあたりばったりで電車の切符を予約していない僕は駅中にて路頭に迷う。インドの切符は買いにくい。カルカッタで買った時も信じられないくらい時間がかかった。事前予約だとか何だかで6箇所もたらい回しにされて3時間以上かかったのを覚えている。しかも前日ということで名簿や座席表は全て手書きで非常に時間がかかった気がする。7億人も住むこの国でまだ手書きでやっているのだから信じられない。今回の切符購入も予想通り時間以上かかってしまった。
「日本なら3分で取れるのに・・」
ぶつくさ文句を言いはするが、当日中に取れたのだからましなほうだ。
 デリーからアムリトサルまでは450km。中国の長期移動で鍛えた僕にとって、たった8時間の移動はあっという間である。「アムリトサル」にはシーク教の寺院があり、全ての巡礼者が無料で寝泊まり宿泊できると聞いていた。
「何て寛大な宗教なのだ」
インド中の乞食がここに押し寄せるのではないか。素朴に思ってしまう。そんな話を聞いたときから既に僕はこの宗教自体に興味津々であった。
 電車がアムリトサルに着き、聖地「黄金寺院」に近づくと、不思議なターバンを頭に巻いた人々が現れ始める。(このターバンは何なのだろう・・)
実はここ聖地では頭にターバンを巻かなくては入場できないことになっている。シーク教では髪を伸ばし、髭をはやし、頭にターバンを巻く事が戒律で決められているのだ。僕が聖地に入ろうとすると入口係員が「頭に何か巻きなさい」と注意する。いくら外国人観光客であってもここは彼らの聖地。彼らの宗教スタンスを守らなくてはいけないのだ。この時僕はターバンを持っていなかったので係員にバンダナを借りた。
次に入り口を通過すると全ての人が「靴置き場」に靴を脱ぎ裸足となっていく。殆ど大理石で作られている院内は土足厳禁らしい。しばらく歩くと水溜りがあり教徒は皆足を洗っている。ヒンドゥー教と正対照で清潔だ。久々になった裸足はとても気持ちがいい。(人間はやっぱり裸足がいいな・・)日本人の僕は何よりそう感じる。
 院内に入ると四方は城壁に囲まれており内側の通路以外は池になっていた。そこで巡礼者達は体をも洗う。広場中央には黄金の寺院がそびえ建ち入場ができるように一本の通路が外側に向かって伸びている。四方の真っ白な建物と中央の黄金に輝く寺院がこれまた微妙なバランスで建ち並ぶ。
院内で仲良くなったシーク教徒は僕にこの寺院について教えてくれた。黄金寺院内にはホーリーブックが置かれ、皆そこに向かって祈りを捧げる。そして毎日22時になると、聖本は多くの教徒によって神輿に担がれ、院外の寝室へと収められる。そして再び夜半2時には院内へと運ばれていくらしい。その寺院に僕も一緒に入りたくなった。
 さて、どうすれば院内に入場することができるのだろうか。僕はしばらく入場する教徒の行為を観察していた。黄金寺院の中に入るのに教徒たちは皆入口にて切符を買っている。そしてお金を払う時に謎の「魚のえさ」らしきものを一緒に手に受けている。係員に「いくらだ」と尋ねると「最低5ルピー」だということなので気持ち10ルピー払ってえさを受取り、僕は入場することができた。
「えさ売場」から黄金寺院内までは1分程の距離だが、多くの敬虔な巡礼達で込み入っている為、10分ほどかかってしまった。彼らの中にはこの寺院に入るため遥か何千kmもの道を歩いてくる人もいる。その最終目的地となれば感動も半端ではあるまい。しかしそんな彼らの真剣な思いとは対照に、僕の興味は別のところにあった。
「この魚のえさをいつどのタイミングで周りの池に放り投げればいいのか」が気になってしょうがなかったのだ。今か今かと目の前では多くの鯉が池際で大きく口を開けて待っている。寺院の中に入ると5名ほどの教徒が延々とお経が唱えられていた。周りの巡礼者たちは経典を広げ座り込んでいる者が多い。また中央にお布施を投げ込んだりしている者もいる。思ったよりも雑然とした雰囲気だ。そして僕は彼らにまかれて寺院内について行ってみると、何と寺院の係員が受付でもらった「魚のえさ」を回収しだした。少々驚いたが、「一度外でもらったものを半分は黄金寺院内で神に返却する。」それがこの宗教のしきたりなのだろうか。残りの半分はまだ皆手に持ったままだ。どこでこのえさを鯉に捧げるのだろうか。次々と巡礼が進んでいく。
 ところが、進んでも進んでも一向にえさを捧げるタイミングが見つからない。気付くと僕は出口まで辿り着いてしまっていた。
「何だったのだ?これは??・・」
そう思い回りを見渡した瞬間、僕は驚くべき光景を目の当たりにした。
周りの巡礼者が皆一斉に「魚のえさ」を食べ始めたのだ。
むしゃむしゃ…(魚のえさを食べている?!何という宗教だ?!)
僕は一瞬吉本新喜劇を見ているかのように転げたまげた。しかし詳しく近くの巡礼者に聞いてみると「魚のえさ」は「巡礼者用のお菓子」だったらしい。15分以上寺院内で悩み続けた自分が非常にばからしく感じた。あほである。そして僕もお菓子を手にとって食べてみると、見た目より美味しいものだった。院内で半分渡さなければよかったと僕は後悔した。
 シーク教はイスラム教の影響を受けてヒンドゥー教を改宗した宗教。インド国内では数%の教徒しか存在しないが、ここアムリトサルを含めるパンジャブ州内においては85%を占める主宗教だ。1947年インド独立後、この地域はジャンムー・カシミールと同様に宗教上複雑な地域となり、独立及び自治権を巡って数多くの武力衝突と数多くの犠牲者を生み出している。インドで二度も起こっている大統領暗殺も彼らシーク教の存在が大きく関わっているのだ。

 さてそんな複雑な歴史的背景は今の黄金寺院内では殆ど感じる事はない。過激なイメージより温かい雰囲気がここには漂う。黄金寺院内へ向かって、全ての巡礼者たちは頭を地につけ、両手を合わせて祈り出す。そんな深い思いを持った彼らの思いが目の前で見られるというのは、とても奥ゆかしい。
アムリトサルはインドでは珍しく物乞いが少ないが、理由は簡単だ。この寺院内には数百もの巡礼者用の宿泊施設が用意され、食事も数百人収容可能な食堂によって毎日3食供給されるからだ。そして我々旅行者も巡礼者として扱われ全て滞在費は無料である。もちろん全て信者のお布施で運営されているからだろうが。

 インドで僕は「ヒンドゥー教」よりも「シーク教」のほうが身近に感じた。宗教心自体は全くわからないのだが、雰囲気だろうか、肌で感じる人柄なのだろうか、また視覚的にもシーク教の方が清潔であることも一つの理由だ。身なりにしても寺院にしても「磨く」心がそこには存在する。
「身の回りを磨けば心も磨かれる」そう信じている日本人の僕にとって、ここアムリトサルはインドの中でも一番心落ち着く場所になった。
毎晩輝く黄金寺院、僕は美しさに見とれて多くの時間をここで費やした。

 

 

 

  ごちゃごちゃ


 インドとパキスタンは55年前イギリスの植民地からともに独立した。それは国家としてよりも「ヒンドゥー教」と「イスラム教」として別れたといってもおかしくない。日本人の僕には考えもつかないようなことだ。
僕は出会った多くのインド人にある質問をした。
「パキスタンは嫌いか?」
「当り前だ、大嫌いだ」と。そしてパキスタンに行こうとする僕に、
「どうしてそんなところに行くのだ?!」と止めに入る。理由はただ一つ。
「彼らはムスリムだから・・」 そしてインド人は力説する。
「500年前に多くのヒンドゥー教徒はムスリム達によって大量に殺されたんだぞ」
ここ近代における日韓の関係とは訳が違う。
「これからは僕達若い世代の時代、互いによくしていこう」
そんな論理は彼らの世界では全く通用しない。根本的に民族として憎んでいる。
そして更に輪をかけて政府がマスコミを使って、いいように情報操作に走る。国民はそれに翻弄される。僕はふと中国という国が思い浮かんだ。。一握りの政治家によって多くの国民の人生が左右される。日本以上に大きく影響する彼らの生活、ここインドもそうかもしれない。
イ ンドに来て約1ヶ月僕なりに色んなことを考えた。貧困について、宗教について、国家について、最終的にどれをとっても僕にはよく分からない世界だった。それは当り前かもしれない。あらゆる人種、宗教、もの、文化が混在し交じり合う地域として歴史上存在してきたのだから。
インドは「混沌」だとか「喧騒」だとかいう言葉がよく使われる。しかし、僕にとってはそんな難しい言葉よりも、日本とはかけ離れて「ごちゃごちゃしてよくわからない国だった」という表現のほうが伝えやすい。
僕は一生忘れないであろうインド人が2人いる。
1 人はインド入国一日目のこと。 手持ちにインド通貨が一銭もなく、リキシャ(簡易タクシーみたいなもの)の少年に銀行まで送ってくれるように頼んだ。そしてお互い交渉の末、10ルピーで成立したのだが、発車してわずか5秒でリキシャは止まった。「着いたよ・・」頭上を見ると銀行がある。(冗談か・・)僕は笑いながら降車しようとすると少年は「金を払え」と言い出し大もめになった。彼は銀行まで2KMだ、と言っていたのにそんなこと一切気にしていない。日本では有り得ない話だ。
2 人目はインドを出国する直前、ある駅の売店での会話。 僕が「サンドイッチ」より安い「ハンバーガー」を購入しようとすると、店員はハンバーガーを指差し「これはサンドイッチだ!あと2ルピーよこせ」という。どう見ても目の前の食べ物はハンバーガーなのだが、彼はそれを必死で「サンドイッチだ」と言って少しでもお金を稼ごうとする。この時僕は彼らに対して真面目に接してきた自分が馬鹿らしくなった。そして、同時に「これがインドか・・」と思えるようにもなった。嫌いだったインド人も少しかわいく見えた。

 

 

 

  動 物 園


 僕この日カルカッタ市内の動物園へと足を運ばせた。何故インドに来てまで動物園なのか、特に大きな意味はないのだが、単純に「動物園が好き」なのと「動物を見るインド人」を見てみたかった。ただそれだけである。
 動物園までは路面電車であるトラムという乗物に乗って行くことになる。インドだけでなく世界各国路面電車は何処にでも存在する。しかしここインドのトラムは他のトラムとは少し事情が違う。何が違うかというと、途中の駅でしっかり最後まで「止まらない」のである。僕が乗ろうとした時も、最後まで止まらずに進み出してしまった。お陰で慌てて飛び乗った時危うく落とされそうになったのを今でも記憶している。地元の人々はもちろん慣れているので軽快に駅に飛び降りる。

 さて、インドの動物園は日本と同じぐらいの大きさだ。そして雰囲気もさほど日本と変わらないのだが、見ている「人々」がやはり日本と全く違う。この動物園で一番人気があった檻は「ライオン」と「ホワイトタイガー」。殆どのインド人達がここに集中して、動物たちに対して「ウォー」やら「ぎゃ‐」やら威嚇するような発言を飛ばしている。日本で同じことをすれば一発で係員に捕まるような行為だ。彼らをみているほうが面白い。
 一人で動物園に来るといつも同じような思いが頭を巡る。動物園の動物たちの目はいつも悲しげだ。何て寂しそうな目をしているのだ。それはどこの国も一緒で、檻の中に入れられ人目にさらされる生活がそうさせるのだろうか。ふと3日前迄のバングラデッシュでの自分の立場を僕は思い出した。また精神的プレッシャ-のせいでもあろうか。衛生管理の問題だろうか。彼らの皮膚はとても痛々しく弱っている。そんな彼らをみるのが僕は辛くなりその場を離れることにした。帰り際、出口付近にサルの檻があった。僕は入園時つい売子に買わされてしまった餌用の「豆」を欲しがる猿に向かって無意識に投げていたのだが、その時ふと頭にインドの物乞い達の姿が浮かんだ。
「僕は一体何をしているのだろう・・」
 物乞いに物を与えず、動物たちに豆を与えている自分がいる。一貫性のない自分が恥ずかしくなり、残りの豆をポケットにしまって出口に向かった。せっかく楽しみにきたのまた憂鬱になってしまった。子供のころはしゃいで豆をあげていた僕はここにはいない。

 

 

 

  インド商法


 カルカッタについて早速インド人の魔の手が僕を襲ってきた。それも長時間に及ぶ巧妙な手口による商法である。僕はこの日「シティーバンク」へ米ドルキャッシュを得るために向かっていた。すると一人の学生が声をかけて来た。
「また勧誘か・・」異国でのしつこい勧誘には慣れていたので僕はしばらく無視していると、彼は一言目に暑いねと言ったきり黙っていた。
「なんだこいつは?」
最初は無視していたのだが、その後しばらく彼は僕の用事を気にかけてくれたまに「迷惑?」といいながら、結局彼は銀行の場所まで教えてくれ2時間以上僕の用事に付き合ってくれた。それ以降は日本のことが知りたいと言って僕に付いてくる。現在彼はカルカッタの叔父さんの家にホームステイ中らしい。この時点でバングラデッシュ帰りの僕は彼に対して全く無警戒であった。そして一緒に昼食していた時だった。
「母、妹にサリーを買うから一緒に選んでくれ・・」
そんなことを僕に口走った。まあ僕が買うのではないしここまで付き合ってくれたからそれぐらいいいかと思い、僕は容易に彼に付いて行くことにした。
彼は無数にある土産屋の中の1店に何の迷いもなく入って行く。店中は15坪程の小さなもので、彼は店員にインドの特産である「サリーを見せてくれ」と頼み交渉を始めた。すると僕の横に居た別客である「ひげ男」が突然僕に向かって大声で話しかけてきた。
「オー!ジャパニーズ!昔俺は日本に行ったことがあるのだ!」
なんだこの親父は?と思いながらも、日本のことをよく知った彼とは話が盛り上がり、あっという間に学生を含めた僕ら3人は意気投合した。
「ジャパニーズ、何か買いにきたのか?」
「いや、友達がサリーを買いたいというので一緒についてきただけだよ」
「そうか、実は俺はバングラデッシュ相手に商売をしていて、この店が安いと聞いて、大量に買いつけにきたんだ。よかったら一緒に商談ルームへ来るか?」
時間があった僕は面白い場に居合わせることができたと思い、彼の誘いを心地よく引き受けることにした。そしてサリーを選ぶために僕たち3人は奥の商談室へ通されることになった。

商談室は思っていた重厚な雰囲気と違って、カーテンに仕切られた狭い倉庫のような場所だった。地べたに座り込み、あぐらをかきながら次々と店員が商品を持ってくる。これがインド式の商談なのか、僕は興味津々でこの場にいて話を聞いていた。
「俺はプロだから相場を知っている。お前らはラッキーだったな。俺に任せておけ」
ひげの男は得意気だ。
「実は今週はインド中が祭りで最終日だから特別更に安く値下げができるはずだ。しかも共同購入すればもっと安くなるにちがいない」
「おー!ラッキーだ。ミスター!俺も相場が分からなかったのだ、助かった!」
学生はこの話を聞いてテンションが上がってきた。そしてひげ男が僕たちに向かって話しかける声も徐々に高くなってゆく。
「物を買うときは絶対に自分から値段を言ってはいけない。そして商人の言葉を信じてはいけない。相手の言葉態度表情に注意して交渉し探りを入れ、最後に信じるのは自分の心のみだ!わかったか!」

買うつもりのなかった僕はつい彼の叱咤激励につい聞き入ってしまって、僕と学生は二人して大声で叫んでしまった。
「YES!!」
まるで新興宗教の教祖を前に叫ぶ教徒のように。今思い出すと恥ずかしい。
 さて商談の話が進み出すと、僕は全く何も買う予定が無かったのだが、このあたりから次第に僕も買った方がいいような雰囲気になっていった。そして怖いことに心までも「買ってもいいんではないかな」という気持ちになっていた。。不思議なものである。
 そしてついにある商品が気になりだして、母親にプレゼントでもしようかと思い値段の交渉まで入り出した時に、どうしても一点に気になることがあった。それはやはり値段のこと。僕は相場を全く知らなかったのだが、1枚出値「270$」が僅か5分の交渉で「65$」になったのだ。しかも交渉の仕方が普通ではない。値段を下げてくれない商人に対して、我々3人は祈りのように両手を合わせながら頭を下げてお願いをする。
「プリーズ、プリーズ…プリーズ」 何ともみっともない姿だが、もちろん僕もプリーズプリーズ。

この時僕の頭の中でこれまでの色んな疑問が沸いてきた。僕を除く3人の会話が全て第一公用語であるヒンドゥー語でなく何故英語なのだろうか。支払方法がインド人同志であるのに何故「ドル払い」なのだろうか。追いうちをかけて、商人の胡散臭い3流役者のような大袈裟なオーバーリアクションが僕の疑念を更に深めていく。
「HI!You are Gentlemen! Mr.! This time only special price!」
上司に相談して値段が下がったとはいえ、実際サラリーマン時代実務で交渉を経験している僕としてはあまりにも展開が不自然すぎた。
「こいつは僕をはめた詐欺商売だ」
僕はそう確信し今回は買わない旨を告げた。すると彼らの態度が急変した。
「ここは神聖な商談場所だぞ!俺を侮辱するのか」
 この時さすがに僕は、「これは早とちりして、少々厄介なことになってしまった」と思っていたのだが、今度はなだめてくれたひげ男が僕に麻薬を薦めてきたのだ。
(こいつら全員ぐるだな)
状況を理解した僕は全ての誘いに対し断りはじめると店のボスが登場して追い出されてしまった。
「危なかった…」 店を退出してから僕はひとり笑っていたのだが、色々思い出すと詐欺仲間であった2人に対しての怒りが込み上げてきた。ひげ男と僕の話題が合い盛り上がっていたのは、あの学生が全てひげ男に伝えていたのだ。商談中「ひげ男」と「学生」が順番にトイレに行っていたのも、僕が最初に「学生」に伝えた今までの旅の経緯を「ひげ男」伝えるためだったのであろう。
「それにしても手のこんだ詐欺に遭遇してしまった。」
旅中で人を見る目は少々自負しているところがあったのだが、バングラデッシュから移動してきてからは明らかに気が緩んでいた。インドに入って2日目から全く巧妙な手口に引っかかりいい勉強になった。人をすぐ信用してしまうこの性格、海外では非常に困りものである。