君の花
『蓮、心に花を咲かせてごらんなさい。』
いつだったか、譜面どおり完璧な演奏をしたはずなのに母から言われた。
その言葉の前には褒め言葉があったはずだ。
褒められた言葉は曖昧な記憶しか残っておらず、最後に付け加えられた言葉だけが酷く心に残った。
まだ足りないのか・・・と落胆したのだ。
心に花、どうやって?
普通の花なら種を植えて水をやれば、何れは芽吹き成長して花を咲かせる。
俺は花を咲かせるほどには成長していないという意味だろうか。
まだまだですよと、遠まわしに指摘されたのだと解釈した。
両親から音楽という種を植えてもらったのだ。
もっと成長しなくては。美しい花を咲かせなくては。
ひたすらに練習した。
両親に恥じない花を咲かせるために必死で。
なのに母は俺の演奏を聴くたびに、あの日と同じ目で俺を見た。
優しい褒め言葉も『足りない』ことへの戒めに聞こえてしまう。
どれだけ弾けばいいんだ?
どこまで行けば・・・この苦しみから解放されるんだ?
闇の中に光りは射さず手探りで進むような気持ち。
ヴァイオリンが好きだ。
好きなのに苦しくて、時々逃げ出したくなる。
それが辛かった。
の音色は優しい。
例えるなら春の暖かな陽射しのような音だ。
俺は彼女に導かれるように音を重ねる。
それは春の風に乗って舞う花びらか、花の香りに誘われて飛ぶ蝶のように。
柔らかく、優しく、彼女の音と一緒になって俺の音が変わっていく。
心地よい響きに演奏が終わって欲しくないとまで思ってしまうほどだ。
『私ね、ずっと月森君の傍にいれたら幸せだろうなって思う。
月森君の近くにいて、声を聞いて、一緒にヴァイオリンを弾いて。
そしたらね・・・私の心に花が咲くの。
とても幸せな気持ちになれる、月森君が咲かせてくれる花。』
まだ慣れない抱擁のなか、俺に全てを預けたが教えてくれた。
その時に気づいた。
母が言った『花』の意味は、の胸に咲く花のことなのではないかと。
ああ・・そうかと、自らの胸に抱く彼女の温もりに納得する。
俺の胸にも花が咲いている。
彼女が微笑み、俺を見上げ、俺の名を呼ぶ。
優しい音色を俺だけのために奏でてくれる。
その度に俺の心は満たされ、彼女を想う美しい花が咲いていた。
『音色が変わったのね。私はとても好きだわ。』
コンクールの後、母が瞳を細めて嬉しそうに褒めてくれた。
どんな偉い評論家に褒められるよりも嬉しい言葉だった。
名残惜しく合奏を終え、お互いが満足して手をおろす。
彼女が俺の目を見てニコッと笑った。
ああ、また一つ。
君の花が咲いたよ。
君の花
2007.02.16
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