忘れられない
お祖母様に薦められた女性を伴って、映画を見にいった帰りがけ。
映画も駄作だったのだが、隣の女もツマラナイ。
笑うのにも疲れてきたことだし、そろそろ帰りたい。
「あまり遅くなってはご両親も心配されるでしょう。そろそろ・・・」
「柚木様と一緒ですもの、平気です。
それより柚木様、あちらに行きません?夕日が綺麗そう。」
彼女が指差したのは公園の入り口。
確かに海を臨む公園から見る夕日は綺麗だろうが、それより俺は帰りたい。
喉まで出ている言葉を飲み込み「少しだけですよ」と微笑んだ。
休日の広い公園には夕方でも人が多い。
寄り添う恋人達もいれば、犬の散歩をしている人やジョギングをしている人、ベンチでは学生達が大声で騒いでいる。
その騒々しさにウンザリするが、誘った相手は上機嫌で俺の腕を引く。
帰る時が面倒だし、あまり歩きたくない。
俺の気持ちなどお構いなしで進む女の背に声をかけようとした時だった。
この音は・・・
思った時には、体が反応していた。
振り返り、耳をすませる。
「柚木様?」
隣にいる人の事など一瞬で頭から抜け落ちた。
足は勝手に動き出し、後ろで俺を呼ぶ声などでは止まらない。
音が近くなる。
細い枝が髪に絡みつくのが煩わしくて手で掃う。
遊歩道でもない木々の間を抜け最短距離で目指す先。
ひらけた視界の先で見つけた、君の音だ。
沈んでいく大きな夕日を背にして、はヴィオリンを弾いていた。
海はオレンジ色に輝き、の華奢な体が光りに包まれているように見える。
澄んでいて、あたたかく優しい音色。
音楽、やめないでください
柚木先輩の音・・・私は好きです
そう言って、涙を零したのはだった。
忘れようと努力しているのに、耳は勝手に君を見つけてしまう。
綺麗だよ、とても。
夕日も、音も。そして、君も。
君を取り巻く全てが美しく輝いて、眩しくて見ていられないほど。
「柚木様、よかった。ここにいらしたんですね。
急に走っていかれるから、どうなさったのかと。」
掛けられた声に心臓が凍るかと思った。
演奏に集中しているは俺に気付いていない。
その長い髪が潮風に流れるのを視界の隅におさめ、俺は踵を返す。
「すみません、行きましょう。」
「いいのですか?ヴィオリンを聴きたかったんじゃ」
「もう終わったことです。」
「え?」
意味が分からないという顔をした人に、作りモノの笑顔を浮かべて肩を抱いた。
一刻も早く、此処から立ち去りたかった。
迎えの車を呼び、公園の前で待つ。
妻になるかもしれない人が話す言葉も耳に入らず、色を変えていく空を見ていた。
同じ街に住んでいれば、いつか会う日が来ると覚悟をしていた。
火原から聞かされる君の噂話も慣れて、もう心を動かされることはないだろうと思っていたのに。
そんなものは錯覚だった。
彼女の音を拾っただけで鼓動は高まり、勝手に体が動いていた。
近くなれば近くなるほど、確信を持っての音だと分かってしまった自分。
その音を聞くだけで
彼女の姿を見るだけで
心が激しく揺さぶられてしまった。
近くで待っていた車は直ぐにやってくる。
ドアを開き彼女を先に乗せ、自分もと身をかがめた時、茜色と藍色が混じった空に輝く一番星が目に入った。
ああ、と思う。
諦めるという事は簡単なようでいて、本当は酷く難しいことなのかもしれない。
「申し訳ありませんが、僕はここで。このまま家まで送らせますから、ご心配なく。」
「どうしてですの?何かご用があるのなら私も一緒に」
車から降りようとする人を制し、小さく首を横に振る。
「いいえ、あなたとは行けないんです。
とても大切な人に会わなくてはいけないので。」
俺の言葉に目を見開く人の前で車のドアを閉めた。
また走る。
もうは、いないかもしれない。
それはそれで間抜けな話だ。
お祖母様には叱責されるだろうし、僅かに残されていた自由さえ取り上げられるかもしれない。
不思議と恐れはなかった。
空が薄紫色になり、たった一つの星が輝きを増す。
あの星を掴むためなら痛みなど厭わないと、今になって思う自分は愚かだと笑ってしまう。
息を切らせて飛び出した木々の間。
ひらけた視界の先には、夜空を見上げる白い横顔があった。
「!」
お前の名前を何度も胸の中で呼んでいた。
音になる事はなくても、何度も何度も。
いま、お前に届く俺の声が俺の全てだ。
俺を見つけたの腕から楽譜が音を立てて落ちた。
人を愛するということが、こんなにも厄介なものだとは知らなかったよ。
忘れられない
2008.05.29
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