million HIT企画 「100万回の好き」 〜忍足編〜
若い頃の純粋な恋は忘れられないよねと同僚が言った。
嘘、嘘。若い頃の恋なんて、もう思い出したくもないよと他の同僚が反論する。
「は?」
尋ねられて浮かんだのは黒髪に黒い瞳の彼。
私は胸の内で答える。
誰かをただ純粋に、自分でもどうしようもなく好きになったのは彼だけ。
だけど、その恋はあまりに多くの人を傷つけて、何もかもを壊してしまった。
今ならもっと上手く気持ちを伝えられたのかもしれないと後悔ばかりをしている。
忘れられなくて、それでいて忘れたい思い出。
「私は両方かな」
同僚たちは私の答えを面白がって、昔の恋話をしろとせっつく。
「昔じゃないのがね・・・」
私はグラスについた水滴を爪の先で弾き、溜息をついた。
飲み会は最終電車を待たず解散となり、夜の風に吹かれながら帰ってきた。
なんとはなしに見上げた自分の部屋の窓からは明かりがもれている。
思わず時計を確認し、足早にエントランスに入った。
自分の部屋だけど鍵は出さずにインターフォンを押す。
すると僅かな沈黙の後、『はい』と予想通りの声が返ってきた。
「わたし」
『はいはい、ちょっと待ってな』
ここは私の家なのに、まるで我が家のような受け答えをしてインターフォンが切られる。
扉の奥から人の気配がして、ロックを外す音が続く。
「おかえりぃ」
独特な関西弁で出迎えてくれた人物。
「ただいま。来るなら来るで連絡くれればいいのに」
ヒールを脱ぎながら、つい彼の顔色をうかがった。
「待つのも嬉しいんやからお気遣いなく」
「そうなの?」
「そうそう」
侑士はニコニコとして私のコートに手をかけると、顔を覗きこむようにして触れるだけのキスをした。
再会したのは先月の同窓会。
侑士は出席しないと確認してから行ったはずだった。
もしも彼の顔を見てしまったら自分はどうなるのかと恐怖にも似た感情を抱いていたから。
なのに来ないはずの侑士がいた。
そして昨日も会っていたかのように人懐っこい笑顔を浮かべて近づいてきた。
『久しぶりやなぁ。えらい綺麗になって惚れ直したわ』
言葉を無くしてしまった。
再会を恐れた自分が馬鹿みたいだ。
まさか満面の笑みでお愛想を言われる日が来るとは思ってもいなかった。
それも嫌になるくらい良い男に成長した『本当に好きだった人』に、ね。
困惑する私に侑士は瞳を細める。
そしてあの頃と変わらない微笑みを私に向けると、そっと耳元に唇を寄せて囁いた。
『俺な・・・今でもお前が好きや』
会場について僅か五分後、私は侑士に手をひかれて外に出ていた。
イルミネーションに飾られた木の下で、お互いが言葉もなく抱き合う。
懐かしい温もりが、鼓動が、匂いが、すべてが愛しかった。
服を着替えて居間に戻れば、温かなミルクティーが待っていた。
小さなダイニングテーブルに腰を下ろすと、侑士もいそいそと私の前に座る。
カップに口をつけると紅茶の良い香りがして肩の力が抜けた。
「何時頃きたの?」
「う〜ん、八時頃かな。そんなに待ってへんよ」
「同僚と夕飯がてらに飲んでたの。電話くれたら帰ったのよ?」
「それはええけど、同僚って女だけ?」
うかがう様な言葉に驚いて侑士の顔を見たら、
彼はテーブルに頬杖をついて「やって・・・」と眉を下げる。
「は美人さんやから心配で、心配で」
「馬鹿みたい」
「せめてアホみたいって言うてぇな」
まだまだ侑士の戯言に慣れない私が他所を向くと、照れてるのが可愛いと恋人は笑う。
刻まれた目元の笑い皺さえ愛しいのは私も同じ。
ただ侑士ほどは言葉に出来ないのが少し悩みだ。
「そうや。今日な、偶然やったけど跡部に会うたで」
突然の名前に息が止まりそうになった。
同じ街に住んでいるのだから偶然に会っても不思議じゃない。
だけど私たちの間には再会を素直に喜べない過去がある。
なのに侑士は屈託なく景吾との再会を話し始めた。
思い出すように視線を和らげ、元気そうやったと景吾を語る。
「最近は会うてないんやって?は元気かって、気にしてたで」
「ずっと忙しかったから・・・」
景吾との婚約を破棄した人間だ。
もう跡部の家には顔向けできないし、あの優しい手を振り払った私から連絡など取れるはずもない。
それでも景吾は時々連絡をくれる。
父と衝突して家を出てしまった私のことを今でも心配している。
諍いの原因が婚約破棄であっても、景吾のせいじゃない。
両親の期待を裏切って我儘を通した私が悪い。
つい黙り込んでしまった私の手に温もりが重なった。
侑士はそっと私の手を持ち上げると、指先に唇を寄せて微笑む。
「これ内緒って言われてたんやけど」
はじめ同窓会には行かないつもりだったと侑士は言った。
どんなに抑えようとしても心が抑えられず、いけないと知りながら想いを重ねた。
景吾は私にとっても、家にとっても大切な人で、
侑士にとってはテニスという道を共に歩いてきた大切な友達だった。
裏切りは聡い彼に隠せるはずもなく、
苦しむ景吾の姿に私は誰も選べなくなってしまった。
家と家の繋がりがあるぶん、私たちだけの問題では済まない。
もめにもめて私は家を出た。
侑士はテニスを捨てて実家に戻り、景吾には傷だけを負わせて別れた。
結ばれなくてもいい。別れた後も私は侑士を想い続けていた。
それは侑士も同じだったのだと言う。
「跡部が呼んでくれたんや。に会いたくないんかって
会いたいって言えへん俺に、下手くそな関西弁で『アホ』言わてたわ
ええかげんウザいとか、女々しいとか散々や
いつまであの馬鹿な女を一人にしておくんやって怒られた」
やっぱり、お節介な人。
何度も何度も『幸せになれ』と言ってくれた。
意地を張る私を見ては、いつも心配そうな目をしていた。
「景吾・・・今、幸せだった?」
「大事な人がおるって。もうすぐ婚約を発表するからって」
「・・・よかった」
侑士と再会した夜、『今でも好きや』と言われて封印したはずの想いが一気に溢れだした。
そして激しい感情の流れに抗えず、侑士の手を取ってしまった自分を悔いた。
好きだと囁かれるたび、侑士が傍で私を見つめるたび
愛しいのに後ろめたくて『好きだ』と返すことができなかった。
時間は痛みを流し、癒し、確実に進んでいたんだ。
涙ぐむ私に気づかないふりで、侑士は新しいお茶を淹れようと席を立つ。
景吾に「おめでとう」と電話しよう。
そして私の口から侑士と共にいることを報告しなくては。
ぶっきらぼうな口調でも優しい目をした景吾の顔が浮かんだ。
ふと気づくと、侑士が空のティーカップを手に私を見ている。
私の視線を受けると、少し困ったような笑みを浮かべて再び椅子に腰かけた。
「どうしたの?」
「なんや懐かしくてな」
「懐かしいって」
「跡部のことを想うを見てるの
ココんところが痛いような甘いような、不思議と懐かしい気持ちや」
侑士は自分の胸を指し、穏やかに笑う。
忘れたかった苦しい時間を侑士は笑顔で懐かしんでいた。
そこには嫉妬や焦燥感は見えない。
ただ優しく深い色をした瞳があった。
唐突に言わなくてはと思った。
ずっと言いたくて口に出せなかった言葉。
長く長く待たせてしまった恋人に。
「好き。大好きよ、侑士」
侑士が目を見開く。
瞬きを忘れた彼は暫し私の顔を見つめた後、崩れるように笑みを浮かべた。
「もっと聞かせて?一生かけて、100万回くらい」
大人の男とは思えないような甘ったるい笑顔を浮かべて恋人が強請る。
私は零れる涙も拭わずに笑って頷いた。
100万回の好き 忍足編
2008/12/08
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