始まりは
音楽コンクールを前にして居残り練習をしていた私は昇降口で立ち尽くす。
外が暗いとは思っていたが、昼間の天気が嘘のような雨が降りだした事に気づいていなかった。
伴奏してくれる後輩を先に帰しておいて良かったと思いながらも途方に暮れる。
運の悪い事に傘がない。
数日前に置き傘を使って、そのまま持ってくるのを忘れていた。
周囲を見渡せばポツポツと傘立てに傘があるけれど拝借するのは気が咎めるし・・・どうしよう。
自分が濡れるのは別に構わない。
でもバイオリンが濡れるのは困る。
ケースには入っているけど・・・やっぱり。
置いて帰ろうか?でも、家でも練習しなきゃ。
職員室に行って傘が借りられないか聞いてみようかな。
そう思いついて踵を返したら、目の前に跡部君が立っていた。
「よう、遅いな。」
「う、うん。ちょっと残ってて。」
「ふーん。」
ビックリした。
突然に現れた跡部君にドギマギしつつ言葉を返せば、彼は私の肩を掠めるようにして靴箱に手を伸ばした。
勝手に早くなる鼓動に慌てながら「じゃあ」と足を踏み出す。
その背中に跡部君の声がかかった。
「おい。傘がないのなら送ってやるぜ?」
おそるおそる振り返る私。
跡部君は唇の端だけを上げた笑いを浮かべると、顎で私の手元を指した。
「それ、濡らしたくないんだろ?」
信じられない。
私は跡部君の差す傘の下で、彼と並んで歩いている。
濡れないようにシッカリと抱えたバイオリンケースの下で心臓がドキドキしていた。
雨の匂いと一緒に跡部君の香りがする。
名前も知らない香水だけど、とても彼に似合っている香りだと思う。
女のコたちが跡部君と同じ香水を手に入れたと騒ぐ気持ちが分からないでもなかった。
「今、何を弾いてるんだ?」
「え?あ・・あの、ラヴェルのバイオリンソナタ。」
「ふーん。」
困った。せっかく話を振ってくれたのに会話が続かない。
でも、不思議。跡部君、私がバイオリンを弾いてるの知っていたんだ。
跡部君は私の表情を横目に見て、フッと笑う。
「なんで自分のことを知ってるんだって、顔をしてるぜ?」
「あ・・うん。でも一年の時は同じクラスだったし。」
「違う。音楽室でよく見かけるからだ。」
「そうなの?」
「ああ。お前、集中力が凄いから周りに誰がいようと気づいてないだろ?」
「まさか私が練習してるの・・見たことある?」
「ああ、何度かな。」
「何度も・・・」
サイアク。
自慢にもならないけど、私の練習してるところなんて人に見せられたものじゃない。
眉間に皺を寄せた難しい顔で何度も何度も納得いくまで同じところばかり弾いている。
もちろん仕上がるまでは、かなり下手だし。
ガーンと落ち込んでたら、隣から笑い声が聞こえた。
「そんなにガックリすることもないんじゃねぇか?お前の音、悪くないぜ。」
さらりと言うと、跡部君は門のほうを見つめて足を止めた。
門の前に横付けされている黒い車、それは跡部君の迎えの車だろう。
「タイムアウトだ。」
「なに?」
「降ってわいたチャンスはモノにしないと、な。」
跡部君が私を見下ろす。
言葉の意味が分からない私は
『跡部君は車に乗るから傘は貸してもらえるのだろうか。その場合、傘はどうやって返したらいいの?』
なんて呑気に先のことを心配していた。
すぐ後に、もっと大変な事が待ってるのも知らずに。
「。お前、俺のモノになれよ。」
は?突然、なに?モノ?モノって?
「意味わかんねぇって顔をしているな。」
分からないよ。
そんなこと突然言われても、どう受け取っていいのか分からない。
「教えてやるから、バイオリンを落とすなよ?」
言うなり近づいてくる傘を見て、咄嗟に目を閉じて力いっぱいにバイオリンケースを抱きしめた。
そんな私の体をふんわりと拘束しない程度に包む腕。
額がザラッとした布に擦れて、さっきまでほのかに感じていた跡部君の香りを濃厚に感じた。
「いいか、良く聞けよ。
イヤなら、この腕を振り払って逃げろ。傘はくれてやる。」
耳元で囁くような跡部君の声を聞き、一気に体温が上昇するのが分かった。
私を庇うように抱きしめながら差した傘からは、雨だれが落ちて跡部君の背中を濡らしていく。
「ど、どうして私なんかを・・」
「理由が欲しいのか?そんなもの俺様にだって分からねぇんだよ。
ただ、お前が他の男の伴奏でバイオリンを弾いてる姿が無性に腹立たしくて堪らねぇ。
あれぐらいなら俺が弾いてやると思えるほどには想ってるってことだ。
とにかく、10数えるうちだぞ。逃げなきゃ・・・お前は俺のモノだ。1・2・・」
「ま、待って」
「待てない。イヤなら逃げろよ。3・4・5・・」
「でも急過ぎて、それに跡部君は人気があるし」
「そんなこと関係ないだろ?お前が俺のモノになってもいいかってコトだ。6・7・8・・早く決めろよ。」
「だって私・・跡部君のこと好きも嫌いもなくて、」
「心配するな。直ぐに、どうしようもないくらい好きにさせてやるよ。9・・・」
「跡部君、」
「欲しいんだ、お前が。・・・10、いいんだな。」
時間切れ。
ハッと吐息にも似た笑い声を漏らした跡部君の腕の力が強くなって、
私はバイオリンケースごと抱きしめられて胸が痛いほどだった。
さっきまで人気のある格好いい同級生だった人の腕の中で傘を打つ雨の音を聞く。
「伴奏は俺がしてやる。」
私は窮屈な腕の中で何とか頷いた。
ねぇ。
私は遠くない未来、きっと・・どうしようもないくらい跡部君が好きになってしまうんだろう。
だってもう、こんなにも胸がときめいているんだから。
そう観念して、恋は強引に始まった。
コンクールの本選。
控え室に並んで座る跡部君は平然としていた。
試合の緊張感に慣れている跡部君と私とじゃ比べ物にもならない経験の差なんだろう。
テニス部だけでも大変なのに、その合間を縫って練習に付き合ってくれたピアノの伴奏は素晴らしいもの。
神様が彼に与えた才能の多さには驚くばかりだ。
「もうすぐだな。、大丈夫か?」
「ど、どうかな。」
手のひらに人という字を書いて食べていたら、その手を横から掴まれた。
そのまま指をからめると、何食わぬ顔で自分の膝に持っていく。
「跡部君!」
「文字なんか食ってるより、俺が手を握ってたほうが効果あるだろ。」
「よ、よけいに緊張するよ。」
「何を今さら。」
言って、わざわざ見せつけるように絡めた指にキスをする。
緊張も吹き飛んでしまうような周囲を顧みない仕草に沸騰する私を見て、跡部君は可笑しそうに笑っている。
「信じられない!」
「緊張がほぐれただろ。お前、ガチガチだったから。」
「あ・・」
気づいた私の髪を軽く撫で、そっと耳元に口を寄せた跡部君が魔法の言葉をくれた。
「心配するな。俺を選んだ事を後悔させないピアノを弾いてやる。
お前は安心して好きなように弾けばいい。」
ウン、と頷いて目を閉じる。
握ったままの彼の手は安心できる温かさだ。
「跡部君」
「なんだ?」
「私ね、好きだから。」
「ん?」
「もう・・・どうしようもないくらい・・好きだから。」
前にある壁を見つめながら告げた。
グイッと横から腕を引っ張られる。
傾く体に慌てながら顔をあげれば瞳を細めた跡部君が額に唇を寄せてきた。
「馬鹿、そんなことは演奏後に言えよ。今はこれしか出来ねぇだろ?」
始まりは突然だった恋だけど、今は何より近くで私を支えてくれている。
共に奏でる音は、きっと一つになるだろう。
番号を呼ばれ、手を繋いだまま席を立った。
本当の始まりは、ここから。
始まりは
2006.10.24
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