無口な恋人 〜大事な言葉〜
今さら言うことでもないが、彼は言葉が足りないと思う。
本人は必要最低限度のことぐらいは口にしているつもりらしいが、
周囲には半分も伝わっていないと思う。
元テニス部のメンバーは、それでも理解してくれる貴重な仲間らしいが、
私には彼の考えていることが分からない。
いや、昔は分かっていると思っていた。
自分だけが言葉少ない彼の気持ちを理解していると自惚れていた。
けれど・・・それは幻想でしかなかったのだと今は思う。
今朝の新聞を見て私は目を疑った。
『手塚国光プロ引退 日本テニス界に打撃 度重なる故障が原因』
慌ててテレビをつけると朝のニュースを見た。
トップニュースの扱いで放送され、彼が三年前に優勝した場面が繰り返し映し出されていた。
いづれはこんな日が来ると思っていた、それも近い未来に。
けれど、こんな大切なことを新聞で知るなんて。
どこかで『やっぱりね』という声を聞く。
もう彼の心は私にないのだ、
大切なことを相談する相手でもないのだと。
そうだね、私だけが彼の恋人気取りでいたの。
本当は既に・・・縁の切れた人なのだ。
私は冷めてしまったコーヒーを口にしながら涙を流した。
泣きながらも毎朝と同じように行動した。
朝使った食器を洗い、歯を磨き、化粧をして。
涙が止まらないからマスカラはやめて。
そして、いつもと同じように仕事へ向かった。
職場も彼の噂で持ちきりだった。
本当に親しい友人以外には彼のことを話してないから、職場で何かを言われることはなかった。
それでもたまっていくメールは、同じように驚いた友人たちからだろう。
分かっていたけど開く気になれなくて、携帯の電源を落としてしまった。
麻痺した心に時間だけが過ぎていく。
いつもと同じように仕事を終え、家に帰ろうとして足が止まった。
帰りたくない。
あの部屋には・・・彼との思い出が残っているから。
アメリカに旅立ってから一年後、ふらっと帰国してきたかと思えば突然に訪ねてきたのが最初。
真面目な顔で部屋に上がってきて、ろくに言葉も尽くさず私のすべてを奪っていった。
気が向いたら連絡を寄こし。
会いたくなったら会いにきて。
抱きたくなったら抱いて。
ただただ私は待っていた。
無口な彼。
表情が少なくて、自分の感情をうまく言葉に出来ない不器用さ。
そんなところも愛していた。
制服を着ていたあの頃から、ずっと好きだった。
だから・・・なんでも許せたのに。
同僚に誘われて飲みに行った。
いつもは断わる私だけど今日は酔ってみたかった。
男女四人で飲みに行き、勧められるままにグラスを口にする。
そして日付が変わる頃には、すっかり酔っていた。
記憶をなくすほどではなかったけれど、
同僚の男の人に肩を抱かれても嫌悪感を感じないほどに思考能力は低下していた。
四人は二手に分かれてタクシーに乗り込む。
住所を聞かれ、ぼんやりした頭で口にした。
ああ・・・彼が送ってくれるんだ。
そんなことを頭の隅で思いつつ眠ってしまう。
「ちゃん、起きて?着いたよ。」
肩を揺さぶられて目が覚めた。
のろのろとタクシーを降り、彼に問われるまま部屋の番号を告げた。
エレベーターに乗りこみボタンを押している彼に『なんでいるのかしら』と考える。
不意に同僚の彼が振り返った。
とても真剣な顔で私の肩に手をかける。
首をかしげて少しずつ近付いてくる彼に、突然思考が回転し始めた。
「ちょっ、やめて!」
考えるより先に手が出た。同僚を押して体を離す。
「俺。ずっと・・・ちゃんが好きだったんだけど。」
そんなこと・・・
シマッタと今さら後悔する。
簡単に男を近づけてしまった自分の愚かさに焦った。
肩をつかまれたまま体をねじって抵抗していたらエレベーターが開いた。
「ごめんなさい!お願い、離して?」
エレベーターから廊下に逃げようとして手首をつかまれた。
痛いほどの力にハッとして振り返る。
その時、私の手首をつかんでいた同僚の手に大きな手が重なった。
「彼女を放してもらおうか。」
頭上から聞こえてきた声に息が止まった。
信じられなくて・・・恐れながら伸びてきた手の持ち主を見上げていくと、
そこには眉間に深く皺を刻んだ彼が立っていた。
「どうして・・・」
同僚は目を大きく見開いたまま固まっている。
突然に現れた時の人、手塚国光が自分の手首を掴んでいるのだから驚くのも無理はない。
私と手塚君の顔を交互に見ては、何かを言いたそうにするが言葉が出ないようだった。
言葉が出ないのは私も同じ。
手塚君を見上げたまま夢でも見ているのかと思う。
「ちゃん。えっと・・し、知り合いなの?」
やっと言葉を発した彼は私の手を離す。
その途端、手塚君に肩を抱き寄せられ彼の胸に抱きこまれた。
「は俺の恋人だ。」
彼の厚い胸越しに聞こえてきた声。
俺の恋人?私が?
同僚の彼は唖然としていたが、突然気がついたように頭を下げると慌てて階段を降りていった。
そして残ったのは・・・私と彼だけ。
「どういうことだ?」
耳元で囁かれた低い声に背中が震える。
答えることが出来ない私の体をぎゅっと抱きしめると、
続きは部屋にしようと囁いて私の背中を押した。
鍵を開けて部屋に入るなり抱きしめられた。
それは怖くなるくらいに荒々しく。
手から滑り落ちたカバンの口は開き、中身が廊下に散らばる。
「てづ・・」
名前を呼ぼうとしたら口を塞がれ、息も出来ないほどに口づけられる。
「飲みすぎだ」
キスの途中、彼に吐息で咎められた。
ただもう、彼を受け止めるだけで精一杯。
何も考えられないほどに求められて目を閉じる。
何故?それだけが頭の中をまわっていた。
「何故?何故とはなんだ?」 落ち着いた彼の第一声は、なんとも彼らしい言葉。
「何故ここに来たの?もう・・・私は必要ないんでしょう?」
こんな質問を彼の腕に抱かれながらするのも気がひけるけど聞きたいの。
また眉間の皺が深くなった彼の瞳がジッと私を見つめる。
「ここに来た理由はお前に会いたかったからだ。
必要ないとは何を根拠に言ってるんだ?」
「だって・・・連絡してくれなかった。」
「今日連絡したが、お前の携帯は繋がらなかった。」
「それは手塚君が引退を発表したから、たくさんメールがきて・・・
ううん、そうじゃなくて普段から連絡くれなくて。」
「すまない、ここ最近忙しかったんだ。
だが、電話やメールが苦手なのはお前も知っているだろう?」
「分かってるけど、引退のことも教えてくれなかった。
そんな大事なことを新聞で知るなんて・・・恋人なんかじゃないでしょう?」
なんだか子供が駄々をこねてるみたいで情けなくなってきた。
彼が口をつぐむ。
そして、一呼吸おくと私の頬を包んで言った。
「大切なお前だから・・・直接会って告げたかった。
だが、俺が帰国する前に情報が漏れてしまったんだ。」
今度は私が口をつぐんだ。
大切なお前だからと、確かに彼は言った。
優しく包んでくれる大きな手に自分の手を重ねたら、ゆっくりと落ちてくる甘いキス。
「大事なことだから、お前の目を見て言いたかったんだ。」
「うん」
「俺は引退する。」
「うん」
「これからは日本でテニスに関わる仕事をする。」
「うん」
「そして・・・これからは、、お前の傍で生きるつもりだ。」
うん。
ゴメンなさい、涙で返事が出来ないの。
けれど一生懸命に頷いた。
「今まで寂しい思いをさせて・・・すまなかった。」
愛されていないと、どうしてそんなことが思えたのだろう?
こんなにも愛されていることに私が気づいていなかっただけ。
涙に口づけてくる恋人に微笑んで、私は答える。
大切な人に、大事な言葉を。
「お疲れ様でした。これからは・・・私がずっと傍にいます。」
ああ、と短い返事。
けれど細められた瞳が嬉しそうで、私の心が届いたのを知る。
「だが・・もう二度と俺以外の男と酒を飲むのはやめてくれ。」
最後にしっかりとお叱りを受けた。
それから後、二人に言葉は要らなかった。
「大事な言葉」
2004.11.22
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