お慕いしております〜乾編〜 変化 (後編)
「港には行ったか?ちょうど今、他国からの船が着いていて賑やかだぞ」
「何か珍しいものがあるかもしれないな。、明日にでも行ってみるかい?」
地図を広げた乾の視線が上がったのに、は慌てて何度も頷いた。
その慌てざまに「なに?」と乾の視線が問うが、答えられないは顔を赤くして首を振る。
地図を眺めて語る夫の横顔に見惚れていたなどと人前で言えるはずがない。
困ったように視線を伏せて、羞恥に耐えるように頬を染める。
なんともまぁ、愛らしいものだ。
なにもかもが予想と違った友の妻に、柳は内心で呟く。
女に対しては面倒くさがりの乾は年上好みだったはず。
経験豊かで後腐れない女と適当に遊んでいたのを柳は知っている。
その殆どが惚れた腫れたなどいう色っぽいものではなく、
情報を得るために利用したという側面が強かったのも知っていた。
と出会ったのも、動かぬ証拠を得るために潜伏した遊郭だったと聞く。
ゆえに遊郭での暮らしも長く、それ相応に物わかりのいい女が相手なのだろうと勝手に思い込んでいたのだ。
通された部屋で所在なさげに座していた可愛い花。
桜色の着物を着たは、銀色の簪を揺らして申し訳なさそうに頭を下げた。
今の姿を見て、この娘が遊女であったと想像できるものがいるだろうか。
もって生まれた素直さが目に眩しいからこそ、苦界で生きねばならなかった運命に同情する。
「殿は何か見てみたいものなどないか?あれば家人に案内させてもよいが」
「そ・・そのような。お気持ちだけで十分でございます」
柳が話を振ると、は恐縮しきって身を縮こませてしまう。
そんな妻の様子を隣の友は愛しそうに眺めている。
「誰かをつけても邪魔にされそうだがな」
可愛くて可愛くて堪らないと顔に書いた友を横目に柳は小さく溜息をつく。
蕩けるように呆けた友の顔を拝める日が来るとは。
家で待つ妻の顔を思い出し、己も気をつけようと思った柳だった。
はじめは緊張していた様子のも、穏やかな口調の柳に段々と打ち解けてきたようだ。
胸の内で何を思っていても表情に出すような柳ではないが、
長い付き合いの乾には心からの笑みかどうかぐらいは分かる。
「どうだろう?殿が良ければ我が家にお招きしたいのだが」
嘘のない笑みで、柳がを誘った。
もともと大きな瞳を更に大きくして、が何かを言いかけて口を閉じる。
ちらりと乾に視線を流し、彼が常と変らず微笑んでくれているのを確認したは一呼吸を置いた。
「柳様の・・お気持ちはとても嬉しいです」
考え考え、は言葉を続ける。
「でも、私のような者・・・そう言うと貞治様には叱られるのですが
世間では後ろ指を指されても仕方のない私を受け入れて下さった方に迷惑はかけられません」
「迷惑などかかりはしないと言っても?」
「万一にでもご迷惑をかけてしまうことになったら、私は・・」
「」
乾が名を呼び、そっと寄り添って震えるの肩を抱いた。
それに勇気づけられたように、は潤んだ瞳のまま柳を真っ直ぐ見つめる。
「たくさん貞治様に迷惑をかけてしまっている私だから。もう、これ以上はと思うのです
貞治様が大切にされている柳様に傷をつけたくはありません」
卑屈というのとも違う。
きっぱりと言い切ったの目は、大切な人を守りたいという強い意志があった。
どんなに慰めても、繕っても
乾の名を落としたのは真実であり、それを迷惑と呼ぶのならそうなのだろう。
柳も真っ直ぐにを見つめ返し、彼女の誠実に応えようと姿勢を正した。
「傍から見れば殿の存在は歓迎されるものではないかもしれない
だとしても貞治は殿を選んだ。その友を俺は誇りに思うし、手助けできたことが嬉しい
どれほどの負も、それに勝るものがあれば気にならないものだ」
「俺の幸せを友に見て欲しい。だからこそ立海に連れてきたんだよ、」
ふたりして、とても優しい眼差しを向けてくれている。
溢れる涙をおさえることができず、は両手で顔を覆った。
これ以上に幸せにはなれないと思っていても、乾は更に更にとを幸せにしてくれるのだ。
「ありがとう・・ございます」
言って、畳に手をついたは深々と頭を下げた。
翌日、柳家の立派な門の前で足を止めてしまったのもとに笑顔をたたえた夫婦が迎えに出た。
さりげなく背に手を添えてくれた乾の温もりが言葉以上のものを伝えてくれる。
だからは笑みを浮かべた。
感謝と嬉しさと、ほんの少しの恐れと恥ずかしさを混ぜて
それでも野に咲く小さな花が開くような笑みを見せたのだった。
海を見ました、山を見ました、空を見ました。
めずらしい食べ物、違う国の人々、大きな船。
初めての旅は驚きばかりで、とてもとても楽しいです。
私を知らない人ばかりの中で、知らぬうちに心が軽くなったのでしょうか。
いつの間にか店の人や宿屋で知り合った人と身構えずに話せるようになりました。
貞治様は毎日のように私の手をひき、西へ東へと連れて行ってくれます。
たくさんの人と会い、たくさんの話をしました。
なにより嬉しかったのは、貞治様の大切なご友人にお会いしたこと。
その方の素敵な奥方様ともお会いしました。
また会いましょうねと約束までしてくれて、あまりの嬉しさに泣いてしまいました。
不思議です。
旅に出てから目に映るものが鮮やかで、気づけば上を向いて歩いているのです。
上を向いて、人と会い、人と話し、隣には貞治様が笑んでいて
冷たく怖かった世の中が、とても優しく感じられるのです。
貞治様と共に来てよかった。
変わっていく何かを感じるたび、そう思います。
貞治様・・・
そこまで書いて眠気に負けてしまったの体を抱き上げ、宿の布団にそっと横たえる。
今日はかなりの距離を歩いた。旅慣れてきたとはいえ、そろそろ疲れも溜まっていることだろう。
愚痴ひとつ言わず、にこにこと楽しそうについてきたの寝顔が穏やかなのに、乾は安堵する。
この調子なら、もう数日で青学に戻れるだろう。
駕籠に乗れば早いのだろうが、できるなら最後まで共に歩きたいと思っている。
が書き続けている旅日記も厚くなってきた。
たくさんの土産を買ったが、一番の土産がの日記なのかもしれない。
見たまま、感じたままを素直に書いてあるから、後から読んでも楽しめそうだ。
「この旅で君は変わったね」
囁いて、乾はの黒髪を手に取り恭しく口づける。
そのまま腕枕をしての隣に横になった乾も、心地よい温もりに力を抜いて目を閉じた。
ねぇ、明日も。
君と歩く、新しい一日が待っている。
お慕いしております〜乾編〜 変化 (後編)
2012/05/20
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