気がついて











広い背中。
白のテニスウェアが汗で透け、綺麗な肩甲骨を浮き彫りにしていた。


周囲は割れんばかりの声援なのに、私には音がない。
ここまでは聞こえないはずの、乾クンの荒い息なら聞こえる気がした。


ずっとずっと見続けてきた背中。
目も眩む様な夏の日差しの中に立つ、最後の背中だった。






「乾、さっきの化学のノート、見せてくれないか?」
「ああ、いいよ。ちょっと落書きもしているが」


「さんきゅう。って、うわっ・・・なんだこれっ」



乾クンからノートを渡された大石君が中を見て目を丸くしている。
何に驚いてるのか、私は知ってる。


このまえ偶然見てしまって私のほうが先に驚いたから。



「乾がいなくなると寂しくなるよ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいよ。まぁ、時々はこっちにも帰ってくるから」


「その時は連絡してくれよ?また皆で集まろう」
「ああ」



大石君と乾クンの会話に耳をすませていた私は静かに目を閉じた。


冬が近づいてきて教室は受験モードに入ってきた。
ある程度の成績があれば、学内受験を経て大学へ上がれる。
だけど乾クンは外部進学する。


頭の良い彼が、化学や物理などの専門的な大学に進みたいと思うのは当然だと思う。


私が乾クンの背中を見つめられるのも後僅かだ。
目立たない私が乾クンと話したのは数えられるくらい。
それも『これ、プリント』とか『大石君が探してたよ』とか、直ぐに忘れてしまうような会話。


彼は考えもしないことだろう、私が自分に片想いしているなんて。
私の友達だって知らない秘密。


青学で知らない人はいないテニス部のレギュラーに恋をしているなんて、
私みたいな平凡な子が口にするのだって躊躇われる。


でも、好きだった。
強い日差しの下で、流れる汗さえ拭わずにボールを一心に追う姿に恋をした。
他の人たちも同じように練習していたけれど、乾クンの背中は誰よりも大きくて努力をしている人の背中だった。



ねぇ、乾クンは知らないでしょう?
私たちは同じ敷地に建つマンションに住んでいるの。
棟が違うから・・・乾クンは気付いてないよね。


毎日毎日、乾クンは朝と夜に走っている。
私はいつも自分の部屋から、決まった時間に走る乾クンを見ていた。
雨の日も走っている乾クンが風邪をひいちゃうんじゃないかって心配している。


努力は裏切らないからねと大石君に話してた。
その通りだと思う。


乾クンの努力は、きっと彼を裏切らないだろう。





受験先の下見だろうか。
数日間、乾クンの姿が教室から消えた。


それだけで気持ちが沈んでどうしようもない私は、今更ながら乾クンの存在の大きさに心を震わせる。
乾クンがいなくなってしまう。
遠目からも見られなくなる背中が、ひどく恋しくて泣けた。


だから登校した朝、
いつもの席に座っている乾クンを見た時、真面目に涙が滲んでしまった。


恥ずかしいのと情けないのと、これからのことを思うだけで切なくて
私は自分の席に着くと俯いて涙を拭った。







呼んだのは、誰の声?
前髪の間から窺い見れば、机の脇に立つ長身の影。
聞き間違えるはずもない乾クンの声が私の名前を呼んでいた。



「は・・い」



大泣きしているわけではないけれど見られては困る。
こんな時に目も見られないのが悲しくて自分の弱さを叱ってみても遅い。
消えそうな返事をして、上手く笑えもしない私が情けない。



「ノート貸してくれないか?」



突然の事に首をかしげた私の様子に乾クンが言葉を重ねる。



「俺が休んでる間の化学のノート。なら綺麗に取ってあるだろうから」



驚いた。
驚いたくせに、手は勝手に机の中を探り出す。



「たいした授業してないよ?」
「そうだと思ったけど、一応ね」



三学期にもなれば、ろくに授業はない。
自習だったり、先生の雑談だったりが大半で、出席してこない生徒も多い。
それでも真面目で話好きの化学の先生は、自習にはせずに科学に関わる面白い話をしてくれた。


私が気になったことを簡単にメモしてあるだけのノート。
遠慮がちに出したノートに、乾クンの長い指が触れる。


すっとノートを手にした乾クンは「じゃあ、借りる」と簡単に持っていってしまった。



それだけのことなのにドキドキした。
涙も引っ込んで、また乾クンの背中を見つめてしまう。
彼は私のノートを手に席へ戻ると、なんでもないように机の中に仕舞ってしまった。


ああ。あのノートは宝物にしよう。


そう思うと、また鼻の奥がツンとした。



昼休みが終わると、机の上にノートが戻ってきていた。
お礼なのだろう。ノートの上に乗せられているのはオレンジジュースだ。



乾クンにお礼を言いたいけど、彼の姿が見えない。
ささやかな幸せを感じながらオレンジジュースをどけ、パラパラとノートをめくった。


彼が触れたノート。
見られた文字は恥ずかしいけれど、やっぱり嬉しい。


彼が写しただろう最後のページをめくった時、自分ではない文字が並んでいるのに気がついた。



手が止まる。
教室のざわめきが遠くなった気がした。



走り書きされた数字の羅列、その下にはメールアドレスも。
何かの間違いかと目を凝らし、更に続く几帳面な文字を追う。


『これからも見ててくれるのかな?』



乾クンは気付いていた。
私が同じ敷地のマンションに住んでいたことも。
決まった時間に私が部屋から乾クンの走る姿を見ていたことも。


いつも私が彼の背中を見ていたことを。










大学の夏休みに入り、最初の日曜日。
メールの着信を確認して、急いで部屋のカーテンを開く。


私の姿に手を振る人影。



「ただいま」



窓を開けた私に乾クンが笑顔を見せた。




















気がついて 

2009/05/06  




















テニプリ短編TOPへ戻る