childhood's end -こどもの日-
どんよりと、空は曇っている。
灰色の空は今にも水滴を零しそうだ。
だがそれでも雨はなかなか降り出さず、ただ湿気だけが空気の中ねっとりと増していった。
「蒸しあちぃな」
ぽつりとテッドが零した。おとなしく椅子に座って水を飲んでいたセトはそれにぴくりと顔を上げてことんとコップをテーブルに置いた。大人用の椅子はまだ体の小さいセトにとっては大きくて、足をぷらぷらさせていたのだが、そこから勢いをつけて飛び降りる。
「おい?」
急に椅子から下りたセトを不思議に思ったのか、テッドが子供を呼び止める。
セトはぴたりと止まってから彼を見上げた。
「どうした?なにかあったか?」
テッドの問いにもふるふると首を横に振る。
「暑いって」
「ああ、今日はほんとにムシムシしてるよな。いっそ雨降ったほうが涼しくなっていいんだが」
だが雨は一向に降ってはこない。
「だから、お水」
「は?」
「暑いなら、井戸のお水持ってくる。井戸の水、冷たいよ」
暑いという彼には、冷たい水がいいだろうと思ってそう言ったのに、テッドはあまり嬉しそうな顔をしなかった。それどころかあー、と唸り声だか呻き声だかを上げるとがしがしと自分の髪をかき回した。明らかに嬉しいとは思っていない様子だった。
セトは彼の様子を見て走り出そうとしていた足を止めた。
いらなかった、かな?
聞こうと思ってやめた。
どうしようと立ち止まったまま迷っていると、頭にぽんっとテッドの手が置かれた。
ぽんぽんっと、その手は軽くセトの頭の上で弾む。
「水飲みたいわけじゃねぇよ」
「・・・・・・ん」
「でも、井戸は一緒に行くか」
「え?」
見上げると、テッドはにっと笑っていた。
「汗かいたからな。風呂、入ろう」
この家は周囲から一軒だけぽつりと離れているせいなのか、便利なことにすぐ裏に井戸が備え付けてあった。小さな井戸だが、水も枯れていないし申し分ないものだ。
セトが桶を井戸に投げ入れると、下の方でざぶんと水に落ちる音が聞こえた。なんだか涼しそうな音だった。
からからと滑車が回る音を聞きながら縄を引っ張って桶を上げようとすると、不意に腕にかかる重みが消えた。
「え?」
顔を上げると、自分が持っている場所よりも更に上でテッドが縄を持っている。
「おにいさん」
「お前はこっち」
テッドは井戸に備え付けてあるもう一つの桶をセトに渡した。セトがきょとんとしている間に、一回り大きなたらいの中に汲んだばかりの水を注ぐ。
どうすればいいのかわからず、戸惑ったままセトが桶を抱えていると、それに気がついたテッドが苦笑を零しながら井戸を指差した。
「俺が汲み上げるから、お前はそれを井戸ん中放り投げろよ」
「・・・・・・僕も、水、汲めるよ?」
なんとなくテッドが重い水汲みを気遣ってくれたのだということはわかった。だが、セトにとって、井戸の水汲みはフィンガーフート家での毎日の仕事のひとつだった。炊事のための水はもちろん、洗濯やそれこそ風呂のための水もセトは毎日汲んでいる。だから、改まって気遣われるとそれが悪いことのような気になってしまう。
「僕、大丈夫だよ」
だからそう言ったのだが、テッドは苦く笑うばかりで決して首を縦に振らない。
それどころか空になった桶をまた井戸に投げ入れてしまう。セトは桶がざぶんと落ちる音を聞いて我に返ると、あわてて自分が持っていた桶も井戸の中に投げた。
テッドが目線でセトを咎めるが、ただ彼が引き上げるのをじっと待つ抱けなど、セトにはできることではなかった。だから縄をひっぱりながら「僕もできるよ」とまた小さく言ってみた。ただ、テッドが次にどんな反応を返してくるかがわからなかったから、どうしても彼から目は逸らしたままだったけれど。
テッドは暫く無言だった。
その間にセトは着々と重い桶を引き上げる。
やがてふぅ、と諦めたような溜息が隣から聞こえた。ちらりとセトが彼を見ると、どうやら彼はまた苦笑っているようだった。
セトは思わず彼を仰ぎ見る。
不思議だった。
彼の役に立とうと思ってやっていても、テッドはどうしてかあまり嬉しそうな顔をすることがない。それどころか、今のように難しい顔になることがほとんどだった。お屋敷の中ではセトは立ち動くのが当り前だし、周囲もまたそれを子供に求めている。だからお屋敷の人たちとは違うテッドの前で、どうすればいいのかセトはわからない。
じぃっとテッドを見ていたら、両手にかかっていた重みを忘れてしまった。
力を抜いた両手から縄が抜ける。
「わ!」
あわててもう一度縄をつかむも、セトの小さな手ではその勢いに負けてしまって井戸に落ちる桶を止めるどころではない。ずるると体自体がひっぱられるのをテッドが支えた。
「バカ!」
ざぶん、とまた桶が井戸に落ちる音がした。
「・・・・・・落ちちゃった」
「落ちちゃった、じゃねぇだろ!お前まで落ちるとこじゃねぇか!」
「ごめんなさい・・・・・・」
声を荒げるテッドにセトは謝った。
自分の後ろでいまだセトの肩を押えるテッドの表情は見えなかったが、それでもふぅっと、力を抜くように息を吐いたのがわかった。
「・・・・・・あのな。俺が水汲みやるって言ってるのは、こういうことがあると危ないからだぞ」
「でも、お屋敷でも僕水汲みやるよ」
「屋敷は屋敷、ここはここ。とにかくお前はちょっと見てろ」
「・・・・・・ん」
それ以上反論できなくて、セトはおとなしく後ろに下がった。テッドが着々と水汲みをしていく。はぁ、と小さく息を吐いた。早く大きくなりたいなと思った。水汲みくらいで彼に心配をかけたくない。
もう一度吐いた溜息は、どんよりと曇った空へと吸い込まれていった。
「うし、風呂入るか」
「ん」
準備の整った風呂に二人で入る。
ひょいっと浴槽を覗き込んだセトは、透明なお湯の中に白い麻袋と緑色の長い葉が浮いているのを見て首を傾げた。
「おにいさん、これ、なに?」
「ああ、今日は菖蒲湯にしたからな」
「しょうぶ?」
「ああ・・・・・・とにかく入れよ」
セトを促しながら、テッドが先に湯船に浸かった。ゆらりと葉が揺れる。セトはその葉をつまんでみる。湯に浸かってもまだ瑞々しい葉は結構固い。表面氏すべすべしていて、青い葉の匂いが気持ちよかった。
「早く入れって、風邪ひくぞ」
「ん」
もう一度促されて、セトは湯船に入った。
お湯は結構熱かった。
ちょこんと湯船の中で膝を抱えて座るとテッドに肩を押される。
「お前、ちゃんと肩まで浸かれよ」
「ん・・・・・・」
こんなに熱いお湯に入ることは滅多にない。沸かしたてのお湯に誰かと入ることは、セトははじめてだった。少しだけ熱いなと思うけれど、テッドの言うとおり肩までしっかりと入った。
テッドは満足そうによし、と頷く。
「・・・・・・ね、おにいさん」
「なんだ?」
「しょうぶってなに?この葉っぱ?」
「ああ・・・・・・この葉が菖蒲だ。こどもの日くらいになると花屋や薬屋で売ってる」
「こどものひ?」
「今日がこどもの日だろ」
言われても、セトはこどもの日ということも知らなかった。
テッドは長い葉を手に取る。
「菖蒲の葉は体にいいんだぞ」
「ふぅん・・・・・・」
「あと」
「わ!?」
セトはいきなりぐいっと頭を引かれて驚きの声を出した。テッドは子供のあがった声に小さく笑いながら、小さな頭に緑の葉を巻きつけていく。最初は彼から離れようとしたセトも、なんだか楽しそうなテッドの様子におとなしくされるがままにしていた。
「これでよし」
「なんで頭に巻くの?」
「ん?こうすると、頭がよくなるって言うんだぞ」
「あたま?」
「そう。こどもの日に菖蒲湯に入って菖蒲の葉を頭に巻けばその子供は頭がよくなるってな」
「・・・・・・ふぅん・・・・・・」
そうっとセトは頭に触れる。緑の葉が幾分ぎこちなく、そこには巻かれている。それを確かめてから小さく俯いた。
子供の様子が妙なことに気がついたのかテッドがセトの顔を覗き込む。
「どうした?気に入らないか?」
「・・・・・・ん、違う」
「なら、なんだ?」
セトはとぷんと鼻までお湯に入る。ぷくぷくと空気の泡が生まれる。
嬉しかった。
どこにいっても子供の扱いはあまりされたことはない。自分はただ、お屋敷の小間使いという扱いだった。それに慣れていて、慣れきっていたから、子供だからと言われて一緒にお風呂に入る。こどもの日だからって菖蒲の葉を頭に巻いてくれる。それが嬉しい。けれどなにを返せばいいのかわからない。
そんなことを思っていたら、二の腕をつかまれてお湯の中から引っ張りあげられた。気がつけばテッドが苦笑している。
「あのな」
「ん」
「お前が不服なら別にこんなもんはずしゃいいが、俺はお前が少しでも頭よくなりゃ嬉しいぞ?」
テッドが腕を離した。離れしなにつんと菖蒲の葉を引っ張った。それから少しだけ寂しそうに笑った。テッドは誤解しているのだ。自分がなにも言わなかったから、嫌がっていると思ってしまったのだ。セトは咄嗟にまだお湯に浮いていた葉を手に取った。ぱしゃりとお湯がなる。
小さな手を懸命に伸ばす。
「セト?」
「じゃあ、おにいさんも頭よくなろう?」
一所懸命に手を伸ばして、テッドの頭に葉を巻きつける。頭の前で葉を結びつけようとするが、なかなか葉が固くて難しい。それでもなんとか結んだ。
テッドはぽかんと目を丸くしていた。
「おにいさんもこれで頭よくなる?」
「・・・・・・」
セトが首を傾げて尋ねても、まだ暫くテッドは呆然としていた。やがてセトが不安になった頃にふ、と息を吐くように笑った。
困ったみたいに笑うんだ、とセトは感じた。
さらりとテッドの手がセトの頭を撫でる。
「俺も頭がよくなるか」
「違うの?」
「そうだな・・・・・・少しは、頭よくならねぇと、困るかな、俺も」
「困ってるの?」
「今は、少し」
なにに困っているのかをテッドは言わず、セトも聞くことはできなかった。そのままテッドは巻いた葉ごとわしゃわしやとまたセトの頭を撫でた。
「よし、100数えたら出るぞ」
「100?」
「お前、100までちゃんと数えられるか?」
「僕、数えられるよ!」
「ならやってみろ」
言われるままにセトはいち、にぃ、と数を数えだす。数えることに気を取られていたセトは、テッドが小さく笑っていたことを知らない。
そして彼が、もう少し賢かったらこんなに人に関わらなかったのにな、と零したことも知らなかった。
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こどもの日には菖蒲湯でした。昔から、ちゃんと菖蒲の葉を頭に巻いてました。頭がよくなるって言われました。おかしいな・・・・・・ちっとも頭よくなれません。いつまでたっても頭悪そうな話を書き続けています・・・・・・。そんなわけでテッドおじいちゃんの知恵袋でした。