不明
史実高山祭 祭の起源 民衆哀歌 飛騨の匠 暴れ神馬
高山の地勢・自然 屋台出現 旦那衆の勃興と崩壊 屋台蔵の技 応龍台消失
高山の町 旦那屋台 屋台王国 近世屋台組事情 大名貸し末裔
年譜 高山の祭 八幡・山王 飛騨の神々 屋台組町内図
Traveler's site高山祭
Traveler's site高山祭
Photo高山祭
Photo高山祭
高山の神社・仏閣
高山の神社・仏閣
杉木立の緑におおわれた八幡の森を背景に勢ぞろいする屋台群の美しさは格別で、八幡祭ならでは
の壮観であり、ここでカラクリを見るのが何よりの楽しみのひとつなのである。それにもう一つ、この八
幡祭の見ものは昔からヤンチャなケンカである。各屋台組は上町とちがって、いかにも下町らしい向こ
う気の強さがあり、活気ある祭風景がくりひろげられる。

この秋祭りの屋台のなかに、神馬台・鳩峰車というのがある。いずれも高山の屋台中最古のものとい
われ、それぞれ独特の風格をもっている。しかし、どうしたものか、この二つの組はまことに仲が悪く、
おまけに同じ下二之町の隣組ときているから始末が悪い。古老の話によると----「神馬台には昔から
いっこく者が多く、このため他の組では厄介者といって敬遠した。祭の時神馬台の前後になった組は、
はれものにさわるようにしていた」

安政の馬にけられておおついえ(大津絵)
などという川柳がある。「安政の馬」とは後に述べる安政年間の「安政事件」をさし、「おおついえ」は「鳩
峯車」の旧名「大津絵」と「大費え」の意味をかけたものである。鳩峯車が三つ車の屋台に改造したのも
そのためで、神馬台は屋台も小さく軽いので、ぶっつけておいてさっさと逃げてしまうからである。

いつも被害者の立場にあった鳩峯車は、雲龍と波龍の金刻をほどこした伊達柱、南蛮渡来の見送り幕、
中国明代の刻糸(日本の綴錦)の豪華な胴掛け(横幕)など、金に糸目をつけず贅をつくしている。これら
はいずれも組内の豪商谷屋平兵衛、坂屋清六などの全盛期をしのぶに十分なものである。

この鳩峯車と対照的なのが神馬台で、中段の四隅に青龍刀がつき抜けて、その前面には白い神馬を
飾り、中段の大幕には大きな般若面の刺繍をとりつけるといったぐあいで暴れ馬の名にふさわしい、見
るからに精悍なものである。

また、祭囃子は鳩峯車の「大八崩し」に対し、神馬台は雅楽からとった「越天楽(えてんらく)崩し」を奏す
る。これが夜祭のクライマックスともなると、越天楽は急にそのテンポを速め戦闘的な進軍ラッパのムー
ドをかもし出し、人々をおそれさせた。

元鳩峯車の古老の話。「江名子川の筋違橋(すじかいばし・現布引橋)に神馬台を止めて神馬台組の親
分の西本さんが『オレの目の玉の黒いうちは通さんぞ』なんて力んでいたのをよく憶えている。どの人も
裃(かみしも)は破れ、袖はちぎれ、またある人は足袋はだしになって-----。橋を通さない理由なんて無
いさ、ただ力んで通さないのだからタチが悪い。それで夜祭が朝になったこともたびたびでした。」

大新町の古老の話。「鳩峯車組の大将の柿下さんは元市会議長までやった文化人、一方神馬台の大
将西本さん、この人は高山では名医といわれた人だが、この両雄が祭となるとまるでがらりと人が変わ
ったように張り合うのだから、それは壮観なもので、野次馬は大喜び。ところがこの親分達は実は親戚
同士でごく仲のいいのに、祭が近づくと敵意まる出しで、道で会っても挨拶もしなくなるんだからね----」

古老の話。「私も神馬台の喧嘩は何回も見ているが、始まるときはすぐわかったね。屋台組のおもだっ
た人たちがいつのまにかケンカ裃に着替えている。あの人たちは昼間着る折り目正しい裃と、ケンカ専
用の麻の裃と二、三通り持っていたからね。そのうちに、『子供は早く降りろ』という声がかかる、それが
ケンカの前触れだった。なにしろ、このケンカが面白くて仕方がないというふうだったな。私の見たのは
主に大正時代で、あの頃曳き別れはたいがい下二之町だったが、祭行事が全部終わって、筋違橋から
下二之町の居組に帰ろうとする鳩峯車に、突然神馬台がつっかけてきて、伊達柱を折ってしまった。この
時は神馬台が後ろからもっていって無理にぶっつけて、逃げた。その回転の速さ、逃げ足の速さ、あれ
は初めから計画的なもんせ」

宝珠組の古老の話。「私の組の屋台は屋根に雌雄二匹の大亀を載せているので、亀屋台とも言われて
いますが、この自慢の亀がお祭の朝いなくなって大騒ぎになり、組中が手分けして探していると、『宮川
の弥生橋に泳いでいる』としらせがありました。急いで行ってみると、そこに立札が立っていて『名工の作
った亀は水を求めて川に入った』とありましたが、これも神馬台組衆のしわざでした」

宝珠台組奥様の話。「昔はな、あれはどういうだったか、じきケンカが始まったな。『てめエとこのオゾクタ
イ屋台なんか後から来ればいいわ』『なにこく、かかさのフンドシ屋台め、江名子川へぶち込むぞ』なんて
言ってケンカしながら昔のものはあれで結構たのしんでいたんだが----。今と違ってなんの楽しみもない
ころだでな」



下二之町の旧柿下家に保存されている「鳩峯車組書類入れ籠」から『神馬台鳩峯車輪合文書綴』と書か
れた古文書が見つかった。油紙で厳重に包装した上に、いかなる理由からか「開封厳禁」と朱筆されてい
た。同組の古老数人が立会いにもとに開封してみると、神馬台と鳩峯車のケンカの顚末の書類であった。
これら十通のうち三通が安政事件、他の七通はそれから四年後の文久二年に起こった事件のものであ
った。これをみると「祭のケンカは後をひかない」とよくいわれることが必ずしも、そうではなかったことがよ
く分かる。


安政事件の事

事件の要点を三通の古文書から拾ってみると。

安政五年、この年飛騨では大地震あり、家屋倒壊七百九戸、死者二百三人ということがらがあり、神社内
はもちろん市中でも派手な振る舞いはしないよう郡代からきつく申し渡されていた。旧八月一日、八幡例祭
が行われた。今回は改めて郡代からのお達しもあったため、一同よく心がけ、夜祭の曳き別れも手早くすま
せた。鳩峯車も早々と居組に引き取ろうとしたところ、近づいてきた神馬台に道をふさがれて進むことが出
来ず、やっと夜中の十二時すぎになって帰ることが出来た。

神馬台のこのような振る舞いは、これまでも度々あったが、年行事に届けてことを荒立てることはしなかっ
た。しかし、当年は格別の年柄なので、鳩峯車組はあえて年行司に申し出たものである。そこで、年行司
は八月二十一日、祭礼役員二十六人を集め、神馬台組を呼び出し、事情を聞こうとした。ところが神馬台
組はこれに応じなかった。

そこで祭礼役員会では「神馬台を今後一切屋台巡行に入れない。神馬台組は勝手にすること」、つまり神
馬台ボイコットを決め、書を作り、連印した。しかし、世間では「なにもそこまですることもあるまい」という意
見が多く長久寺住職が仲裁を買って出たが不調に終わり、安政六年の祭もせまってくるというのに新旧役
員の交代も出来ない始末となった。

そこで重立町人も加えて八幡氏子の最高会議を開き、氏子総代らが主になって神馬台・鳩峯車両組と話
し合いを重ねた末、やっと次のようなことで合意した。「屋台曳き別れの時は今後、神馬台組が筋違橋北
詰に控え、鳩峯車組を先に通す」これに神馬台・鳩峯車の組双方とも納得して、列席者二十三人が連印
した。これですべて円満解決したと喜んだが、四年後に又事件が起こった。


文久事件の事

事件の要点を七通の古文書から拾ってみると。

文久二年(1862)の八幡祭の夜、神馬台は四年前の契約を破り、又々筋違橋寄りに近い下二之町に屋台
を止めて、翌日の朝日がのぼるまで鳩峯車を通さなかった。神馬台のこの約束違反に、血の雨も降りか
ねない険悪な事態となった。鳩峯車は年行司に厳重に抗議した。しかし、話はこじれ、もつれたまま、又年
をこした。祭りも近づいた、翌文久三年七月二十五日、このことがついに「その筋(郡代)の耳に入った」。
伊東文七郎なるものが郡代の命を受けて、神馬台組に圧力をかけ、「重ねて安政六年のご既約を守り、
このうえお上にご迷惑かけぬ」趣旨の一札を神馬台組に書かせ、とにかく文久三年の祭の日をむかえた。
年行司斉木屋久兵衛は、これで安心と思ったらしい。

この年もやはり屋台の提灯は節約して、足元を照らすだけとし、屋台の上段にはつけないよう年行司から
厳重なお達しがあった。鳩峯車組では直ちにこのお達しを隣組の神馬台組へ申し継ぎに行った。ところが、
神馬台組頭桐山屋勘右衛門が使者を扇子で打った。鳩峯車組は勿論激怒した。後にして思うとこれが文
久事件の前触れであった。

雨は朝のうちまだすこし残っていたのに、昼ごろからすっかり上がって絶好の祭日和となった。この文久三
年の秋祭りには十五台が勢揃いという、まさに八幡祭の黄金時代である。この夜、年行司斉木屋久兵衛以
下の祭礼役員が控えている下二之町を、各屋台は祭囃子を奏しながら進んだ。各屋台組の責任者がここ
で年行司に挨拶し、祭行司は一切終了する。この年神馬台は「安政の申し合わせ」をよく守って夜祭の曳き
別れ後も、筋違橋の橋詰めに至極神妙に控え「越天楽」を静かに奏し鳩峯車を先に通した。

珍しいこともあるものだと、今までの神馬台を知るものは信じられない風だった。鳩峯車その前を虎の尾を
踏む思いで通り過ぎて、ほっと胸をなでおろした。ところが大きな不祥事が起きたのはその直後だった。「鳩
峯車が通り過ぎた後なら申し合わせ外だ」とでも言わんばかりに、人々が気づいた時には、「越天楽」は漸
時テンポを速めていた。「また、始まるッ」鳩峯車組は後を振り返っていっせいに身構えた。

江名子川畔から筋違橋付近に帰りかけていた豊明台・金鳳台、その後に続いていた鳳凰台も大八台もいっ
せいに身構えた。喜んだのは野次馬たちである。「よしケンカだ----神馬やれやれ」「やれやれ!」「神馬が
おとなしい祭なんて面白くもないや!」無責任な野次馬の声。こうなると後はなにが起こるか予想もつかな
かった。

誰が指令したのか「越天楽」のテンポをさらに速めた神馬台は、方向を変えていっきに鳩峯車の背後に突
っ込んできた。神馬台の白馬が屋台上段に躍り、激しくゆれ動き、四隅に立った青龍刀の鋭い太刀が不気
味に暗夜に光っていた。それはまるで憎悪のかたまりのように見えた。三輪の鳩峯車はすぐ方向を変えて
その場を脱出しようとしたが、雑踏にもまれてままにならず、気づいた時には神馬台がすぐ背後に迫ってい
た。やむなく、鳩峯車組はこれに立ち向かい、すぐ大乱闘になった。

この夜の祭りでは昨年どおり祭を質素にすべしというお達しもあり、屋台の提灯は足元を照らすだけと決め
られていて乱闘は闇の中、それから後は何もわからない。下二之町は絶叫と怒号と悲鳴だけが聞こえる、
恐ろしい修羅場と化した。もうこうなっては誰も止めることが出来ない。

この曳き違えのことが郡代の耳に入り、ついに事件は大騒ぎになりお取調べ役を再び伊東文七郎が仰せ
つかった。驚いた八幡宮神事の年番組頭舟坂屋半右衛門はすわ一大事と、祭の数日後の旧八月六日、
桜山八幡で最高会議を開き真相究明の結果、年番組頭は神馬台の猛省を促すとともに「もしこれが表沙汰
になったら神馬台組は言うに及ばず、祭礼役員もお咎めを受けることは必定」とした。一同は驚き、その日
のうちに詳細な調査報告書を作り、神馬台組の詫状を添えて伊東文七郎に提出した。その報告書は神馬
台組には非常に厳しい文面で、この詫状には八幡祭礼役員十一人が添え書きして「内々に済ましてもらい
たい」と願い出ている。

次の年(元治元年)、神馬台はさすがにおとなしかった。「これで神馬は手も足も出まい、さあ今年からいい
祭ができるぞ」と人々はそう思った。この年の秋祭りはめずらしく無事に終わり、祭礼役員を喜ばせた。そ
れは薄気味のわるいほど何事もなかった。

ところが-----祭が終わってみたらみんな一様に「おや-----」と思った。たしかに祭りは順調に進んで、何
事もなくすんだが、どうしたものか物足らない。祭が少しも楽しくなく、なにか一つ大事なものが欠けている。
これはいったいどういうことか?人々はここではじめて首をかしげた。

飛騨びとは、その日常生活が苦しければ苦しいだけ、「束の間の開放」を求めた。それが高山祭で、一年
増しに盛大になってきたものである。しかもその楽しい祭というものは時間のたつのが早い。あっという間
に過ぎて夜に入り、曳き別れのころになると、人々は一刻一刻が惜しくて仕方がなくなる。できることなら
今日一日の時間をストップさせておきたい衝動にかられる。神馬台・鳩峯車のケンカの初めには、おそらく
そういう気持が含まれていたのではあるまいか。



ズコ事件

ところが、だれも気づかぬところでちょっとしたことだが、ある意味ではきわめて大事なことが起こっていた。
このことは後になってわかったのであるが、世にこれを「ズコ事件」という。

高山祭には祭礼当日「陣屋見参」といって、屋台が郡代のいる陣屋前を通る大事な祭礼行事があった。
この時郡代は、御簾の奥で見物するのだが、それでも屋台が陣屋前を通る時には「ズコ(頭子)せよ!」と
いう号令がかかる。各屋台では、上段にいる子供たちが上から見下ろさないように頭を引き込ませ、体を
屋台の中に隠す。また行列の者はおのおの笠をとって、おじぎをして通り過ぎる慣習になっていた。

しかるにこの年陣屋見参の際、神馬台の者は笠も取らず頭も下げずに郡代の前を通り過ぎた。陣屋で気
づいた時は、もう神馬台は中橋にかかり、中段から突き抜けている青龍刀はまるで何かに挑戦でもする
かのようにピカッと鋭くお天道様に反射して消えた。

大新町の古老の話。「オリャが年寄りから聞いた話では、神馬のヤロドモが郡代の処置が気にくわないと
いって、陣屋の前を頭を下げずに通ったそうだ。あんなものに頭なんか下げられるものかということさ。これ
は今のものにはわからんが、大変なことで、郡代様に対する精一杯の反抗だったさ。これを明治になるま
でやりとおしたというから立派なもんだ」

このズコ事件は問題になり、何年も解決せず、陣屋役人が手を焼いたことが、当時陣屋役人であった富田
礼彦の日記にも出ており、「武士をバカにした」とか「上を恐れぬ不届きな奴」ということである。

これが神馬台の一部の者の仕業だったのか、それとも組内の共同謀議によるものだったかはつまびらか
ではない。しかし、ただ一つはっきりしていることは、屈辱的な詫状を出しても、神馬台の人々はけっして承
服してはいなかったということである。

しかし時はまさに風雲急を告げる幕末、もうそんな些細な無礼をとがめだてする余裕は幕府にもなく「暴れ
神馬」の名をいたずらに高めるだけにおわった。

そして明治新時代を迎え、神馬台は再び勢いを盛り返して、あばれにあばれまくったのは、前述のとおり
である。明治から大正・昭和初期と、高山祭はこの神馬の暴れとともにかっての文化・文政にも負けない、
文字通り高山祭黄金時代を迎えたのである。

Copyright(c)2007,y.fujii(sasukefujii@hotmail.co.jp) 

http://www7a.biglobe.ne.jp/~fujii/

ライン

暴れ神馬

ページトップへ
史実高山祭 祭の起源 民衆哀歌 飛騨の匠 暴れ神馬
高山の地勢・自然 屋台出現 旦那衆の勃興と崩壊 屋台蔵の技 応龍台消失
高山の町 旦那屋台 屋台王国 近世屋台組事情 大名貸し末裔
年譜 高山の祭 八幡・山王 飛騨の神々 屋台組町内図