不明
史実高山祭 祭の起源 民衆哀歌 飛騨の匠 暴れ神馬
高山の地勢・自然 屋台出現 旦那衆の勃興と崩壊 屋台蔵の技 応龍台消失
高山の町 旦那屋台 屋台王国 近世屋台組事情 大名貸し末裔
年譜 高山の祭 八幡・山王 飛騨の神々 屋台組町内図
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米は獲れんもんじゃという話

農地解放の規定で日下部家に手元に残された田はわずか四反歩(約四十アール)ほどだが、それでも
素人百姓二人には手にあまり、十分に獲れたということはついに一度もなかった。

「あの頃、信州に米つくりの大家がいましてな。この人の本も買って勉強もしてやってみたが、米というも
のはなかなか獲れんもんじゃということがよくわかったな。私は地主の家に生まれ、黙っていても毎年小
作米が蔵に入ってきた。それが当たり前だと思って育ったが、実はあの米は大変なことだったんだなとい
うことが、この年になってはじめてわかったんじゃな。そして百姓というものはウソは言わんもんじゃという
ことも-----。これだけでもわしは貧乏してよかったと正直思っとんじゃ。今まで私はなにも知らんバカみ
たいなもんだった」

「その小作米のことで私も思い出すことがございますの」と老婦人は付け加えた。「毎年秋になりますとな
私の家に四、五人つらって、やってくる人があるんですの。『年貢負けのお願いに参じました』と。そういう
時はたいて四、五人くらいで来ましたな。義父は奥にござるで応対にでるのは嫁の私の役目ですが、顔
を見ると毎年同じ顔ぶれでした。『実はご存知の通り今年は大風が吹いて倒れましたもんで、年貢負けし
てもらわんにゃどもならんで』と。そして次の年は『今年は大水が出て駄目になりましたんで----』と、こう
いうことを言ってござる。毎年そうでした。そこで私はいつも、百姓ってものはよくまあ、いろいろ言ってくる
ものだと思いながら、奥へ行って義父に伝えますの、」

「そうするとこれに対する家の方の口上は『そのことは本家(日下部九兵衛)の番頭と相談の上ご返事し
ます』と言えと義父が申します。この口上も毎年判で押したように決まっていました。そこで私が出て行っ
てその通り申します。『よろしゅうお頼み申します』と帰っていったものでございます。まあ小作人と地主の
年中行事のようなものでございました。」

「ところがさて、自分で稲を作ってみたら、大風で倒れる、大水は出る、日照りで枯れると、毎年何かがあ
って米というものはなかなか獲れんもので、元気なものは雑草ばかり。それで、私があの雑草にみんな
米がついたらいいのにと愚痴を言ったら、うちの主人は『ばかだな、あれにみんな米がついたら、おれた
ちゃ米の下になって死なにゃならんぞ』と言って二人で大笑いしたこともございました」

そして、最後に日下部婦人はこう付け加えた。「私はいつも、子供達に言って聞かせてますの。おまえた
ちにも悲しい思いをさせたが、これは月謝を出しても教えてもらえんことばかりだでな。この日下部家が昔
のままで、なんの苦労もなしに学費を送ってもらっていたらら、あなたたちはそういうことを知らずにいた。
これは有難いと思わないかん。お父さんが道楽してしまったら私達が申し訳ないけれども、これはみんな
『時勢』というもので、お父さんを恨むこともないんだからな。感謝しておくれ。貧乏したでこういうことをして
食べていく。こうやってどれだけでも立ち直っていく。努力をすればこうなると教えてもらったのだから感謝
しておくれ----と、私はいつも申しますの」

「子供達はわかったのかわからんのか、黙って聞いていますが、まあ人間というものは働かな食えんもんだ
ということだけはよくわかったと思います」この最後を結ぶ婦人の顔は、もう「九尺間口」のみやげ物屋の老
女の顔でなくて、いつの間にか、かっての豪商谷屋平兵衛の奥方の威厳に満ちていた。

九尺間口の店先で

手広い商いと派手な大名貸しで本家の谷屋九兵衛とともに一世を風靡した、典型的な高山の豪商谷屋
平兵衛が倒産したのは、戦後の昭和二十三年のことである。

谷屋は明治維新で大名への貸付金が回収不能に陥り、大きな打撃を受けるが、それでもゆうゆうと危機
を突破し、昭和初期の経済大恐慌でもびくともせず、その谷平暖簾は下二ノ町に伝統を誇ってきた。しか
し、戦後の農地解放とそれに伴う経済混乱だけは、さすがに乗り切ることが出来なかった。ここに、谷平は
百八十年の伝統の暖簾をおろし、屋敷の一部を残してその広壮な家屋敷を債権者に引き渡した。

谷屋・日下部平兵衛は、そのひさしの一部を改造して、九尺間口という高山で一番小さなみやげ物店の
主となった。店の中には渋草焼・山田焼などの陶器がぎっしり並べられており、客が二、三人も入ったら
身動きもできない。

「あの時はそれは悲しゅうございました。死んでもご先祖様の側へは行けまいとさえ思いました」と老婦人
日下部久子はそのせまい店先で話してくれた。
「それでもうちの主人は、よくもここまで思い切って落ちなすったと今では感謝しています。そのころ義父
は亡くなって、もうおりませんでしたが、姑はまだ元気でおられましたのでな、非常に悲しがられてな。主
人もさすがに、姑には話しにくいようでございました」

この姑も次の年に亡くなっているが、このことは家族にとって耐えられない悲しさだったという。

「それでも私達はそれを悲しんでおられませんの。上の子は中学生、下の子は小学生、あすから働かな
くては食べていけません。それで残った少しばかりの田んぼを主人と二人で作ることにしました。二人とも
田んぼというものに一度も入ったことがございませんの。それに私は妊娠六ケ月だったので足がはれて
光り、夜は疲れて眠れません。でもあの時は必死でございましたから、ついやりとおしてしまいました。幸
いうちの田んぼは子供達の通う学校の近くにあったので、どの子も学校からすぐ田んぼへ来て、『お母さ
ん』と呼んで、すぐかばんを畦において手伝ってくれました。」

「また、稲刈りの時分にはいつも運動会で、父兄はみんな見に行きますね。それを私らは田んぼ作りが下
手で手間取るもんで行ってやれませんの。可哀そうに弁当ももっていってやれない、と思いながら私ら二
人は稲刈ってますわね。そうすると『済んだ!』と言ってどの子もすぐ田んぼへ来て手伝い、真っ暗になる
まで親子で働き、泥んこのなりで荷車を曳いて帰ったこともございました。」

一合買いの晩酌の味

別の年のことじゃがのと主人の日下部平兵衛も話の中に加わった。「その頃私は子供達の学校のちょっ
とした役をしていましてな」「それで学校の運動会といえば出かけていかねばならない。来賓席かどっか
に座っていたら、家の息子と同じくらいの近所の子がとんできて、『おじさんとこのハサが水の中に倒れこ
んでいる』と言うんじゃ。そいつあ大変だ、すっとんで行ったら、驚いたな、うちのハサがみんな田んぼの
中に倒れ込んでいる。」

「あのハサってものはな、何本かの棒を組んでそれに刈り取った稲をたばねてかけておくものだが、素人
の私のやったのはどうも力学的構造になっておらんのでしょうな。それでちょっと風でも吹くとすぐ倒れて
しまう。それを起こそうとしてもいくらなっちょらん稲でも私らの力ではどうもならんでな。
そのうちには子供達も運動会もそこそこに田んぼにかけつけて、それ稲をはずせ、そら稲運べと大騒ぎさ。
それはそうだ、子供だって死活問題ということはよくわかるからな」

暮れるに早い秋の日は、気づいてみたらすでにあたりは真っ暗になっていた。「よいしょ、よいしょ、よい
しょ、」稲束を運ぶ親子の掛声だけがいつまでも闇の中に聞こえた。そして、やっと終わったと腰を伸ばし
て一息ついたら、白山の上に大きな月が上がっていたという。

「その月明かりを頼りに荷物を荷車にまとめて田んぼ道を帰ったが、みんな泥んこ。それは見られたザマ
ではなかったが、その泥んこのままでネオンのついた国分寺通りから鍛冶橋を渡って下二ノ町のわがや
に帰った時には、もう九時を回っていた。子供も親もみんなお腹がすき、疲れ果てて口もきけない。それ
でもみんないやな顔もせず必死だったよ」

この遅い夕食に主人の食膳に晩酌が一本ついた。この酒は婦人が家の中の小銭をかき集めてやっと一
合買ってきたものだった。「私はそれまで一合の分け売りをする酒があることなんて知らなかったな」と谷
屋の主人。かっての谷屋にとって、酒といえばいつも四斗樽に入ったこもかぶりばかりであり、普通盆・暮
に十石くらいは酒屋の支払いがあった。その酒屋へサイダーの空きびんをもって谷屋の大奥様が一合の
分け売り酒を買いにきたとあっては世間の人たちがびっくりしたのは当然である。

「しかしあの晩の晩酌の味は格別だったな。あの時に初めて私は知ったな。なるほど晩酌と言うものはこ
の一合買いのものでなくては本当の味は分からんものだと。これまで私は晩酌の味をしらなかったらしい」

「上の男の子は日下部家のいい時代を少しは知っていたから、やはりショックも大きかったようだが、下の
子供は生まれついての貧乏暮らしが平気で育った。一度などこんなことがありましたな。あれは秋晴れの
いい天気で、私ら二人がうつむいて一生懸命稲を刈っていたら、後ろのほうで人影のようなものがチラリ
と見えたような気がした。おや、と思って振り返って見たら、だれか一人うちの稲を刈っている。おかしいな
と思ってよく見たらその頃医者の学校(名古屋大学)へ行っていた三男ではないか。『何だお前か、いつ来
たんや』というよんなもので、それが面白いんだな、いったん家に寄ってから田んぼへ来たんではなくて、
あの子はいつも高山駅から直接田んぼへ回るらしく、荷物は畦においてあった」
この子供は倒産の時にお腹にいた子供だったという。

没落から生まれたもの

戦後の高山で最も大きな変化は、なんといっても農地解放による旦那衆の全面的崩壊であろう。
そもそも、飛騨の豪商達が動かしていた重要な商品は、木材・鉱石・生糸・米・塩・木綿などである。この
うち木材は年々切りつくされて、明和年間(1764〜72)には、すでに留山騒動も起きるほどに先の見えた
ものであった。また、鉱山にしても本来投機的な企業で、これに手を出して大打撃を受けた旦那衆は数し
れない。大坂屋も上野屋も谷屋もみんなこれで大きな痛手を受けている。

そこへいくと一番儲かるのは金貸しで、なかでも大名貸しは計算通りにいったら、何もしなくても大金がこ
ろげこんだ。いわば「濡れ手に粟」だった。しかし、これとても幕末になると「江戸出訴」という名で呼ばれ
た返済の契約違反を訴える裁判が続出した。「日下部文書」によると、谷屋は北国貸しをめぐる「江戸出
訴」を明治になるまで四十八回も繰り返したあげく、結局その金は回収不能に陥った。してみると大名貸
しははたして有利なものであったかどうかは、いちがいに断じがたい。

また、明治以後に登場した「製糸(生糸)」にしても、これに手を出した旦那衆は、勃興も早かったが没落
もアッという間であった。

こういう厳しい現実の中で、飛騨の旦那衆がなんとか生き残るための最も堅実な道は、谷屋の家訓にも
ある「場所宜しき処(良田)を買ひ整えるやう心懸る事」であった。つまり、長い経験からから見て、土地
から上がる年貢米はたいした利益にもならず地味だが、一番手堅いということであろう。谷屋平兵衛が大
名貸しで打撃を受けたときの後始末のときも、諸大名から担保として取った宝物などは惜しげもなく処分
したが、土地だけを残したのもそのためである。

ところが、戦後の農地解放は旦那衆から最後の拠りどころの「土地」を奪って、その基盤を根底からくつが
えしたのである。これは単なる経済的崩壊ということばかりでなく、まさに幾世紀にもわたった不抜の階級
制度の崩壊であった。

この時、不死鳥のように起死回生した旦那もいるが、多くはそのまま姿を消した。かろうじて生き残った人
も、もはや昔日の面影はなかった。昭和48年度に高山市内高額所得者上位十人中に名をつらねている
人は、第四位に日下部礼一(旧谷屋九兵衛)ただ一人で、この一人も観光収入によるもので従来の収入
ではない。後はことごとく、周辺農村の人たちで占められている。これを範囲を拡げて上位五十位に拡げ
ても結果は同じで、かっての旦那衆は一人も入っていない。農地解放がいかに徹底的なものだったかが
わかる。

又、旦那衆の転居の多いことも目立つ。これはそこに在住して旦那としての付き合いをやっていては生き
ていけないからである。その付き合いの最たるものは屋台組との付き合いであることはいうまでもない。
当時、二十人の旦那衆のうち、現にその屋台組にいるにはたった七人で、あとの十三人はすでに転居ま
たは死亡絶家して、屋台組とは関係ない状態であった。

日下部平兵衛のように倒産してもまだその組に居る人はいいほうであった。かって日下部久子がこんな
ことを言ったことがある。

「祭が来て屋台曳きに出ろといわれても、今は老人二人きりなのでそれが出来ません。この間も組内の
人たちが祭の通知に来てくれた時、出不足でも出してと言ったら、その人は『いいさ、いいさ、ここの家で
は昔はどえらい金を出してつくってくれたんだもの。いいさ、いいさ。ただ私達は役目でひと通りの通知に
来ただけなんだから----』といって慰めてくださいました。ありがたいことだと思ってご先祖様に感謝して
います」
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