不明
史実高山祭 祭の起源 民衆哀歌 飛騨の匠 暴れ神馬
高山の地勢・自然 屋台出現 旦那衆の勃興と崩壊 屋台蔵の技 応龍台消失
高山の町 旦那屋台 屋台王国 近世屋台組事情 大名貸し末裔
年譜 高山の祭 八幡・山王 飛騨の神々 屋台組町内図
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史実高山祭 祭の起源 民衆哀歌 飛騨の匠 暴れ神馬
高山の地勢・自然 屋台出現 旦那衆の勃興と崩壊 屋台蔵の技 応龍台消失
高山の町 旦那屋台 屋台王国 近世屋台組事情 大名貸し末裔
年譜 高山の祭 八幡・山王 飛騨の神々 屋台組町内図
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屋台費用

蘆生(ろしょう)五台山の前身
文化四年大改修。このときの工事総額は「工事総額七十九両二分二朱」である。
緋羅紗幕代            三十五両
金物代               三十五両と六百九十文
屋台作料及び釘代        五両一分二朱と二貫二十二文
塗師代               三両二分二朱と三百九十二文
富山より簾代           一貫四百文
人形の車回・真木ぬり賃    銀 四匁
その後新調した、中段の大幕は南蛮渡来の毛織に丸山応挙が下絵を書き、京の
西陣で刺繍した獅子牡丹の絶品で当時、すでに百両とも二百両とも言われていた。

代表的な旦那屋台

旦那屋台
麒麟台(山王) 上一之町下組 老田屋敬吉(大坂屋分家)
五台山(山王) 上二之町中組 大坂屋佐兵衛(大坂屋分家) 上野屋清三郎
鳳凰台(山王) 上二之町下組 内保屋忠次郎   内保屋市郎右衛門
加賀屋清三郎   上木屋甚兵衛
恵比須台(山王) 上三之町上組 滑川屋長五郎
南車台(山王) 上二之町中組 大坂屋七左衛門(大坂屋本家) 火災消失後廃台
豊明台(八幡) 大新町一丁目 谷屋九兵衛(谷屋本家)
鳳凰台((八幡) 大新町一・二・三丁目 山下佐助 上木屋甚兵衛
鳩峰車(八幡) 下二之町上組 谷屋平兵衛(谷屋分家)  坂屋清六

町方、あってもごく周辺の農村の村々の人たちで行われてきた祭が、旦那衆が屋台つくりに力
を入れ、その財力で祭を仕切り出したときに、旦那衆の出身地の農民を巻き込んでいき、広範
な地域への広がりをみせ、農民の苦渋と忍耐、それらを含んだ
「飛騨びとの民衆哀歌 飛騨の
高山祭」
となっていくのである。

山王祭になくてはならない舞楽、「片野のカンカコカン」の曲目に「新太郎さよ」というのがある。
“新太郎さヨー新太郎さヨーシンシンシンタのシンタローサーヨ”という単純な曲であるが、実は
これは大原騒動で死罪獄門となった「片野村新太郎」をしのんでうたわれはじめたものである。
片野村新太郎は当時二十九歳、その生前を知るものはこれを舞うときは、みんな泣いて、カン
カコカンの平たい鉦を打ったものだという。

この周辺農村こそは実は大原騒動の犠牲者たちの出身地であり、駕籠訴人の故郷であったの
である。宮村太七・片野村新太郎・江名子村孫次郎・下坪村次左衛門・坊方村伝次郎・新宮村
藤十郎・山口村新次郎・下之切村吉十郎・高山町方村平七・下岡本村平兵衛・花里村庄次郎・
折敷地村喜兵次。

旦那衆のつくった屋台組は、旦那衆の経済圏ともいうべき、周辺農村の小作人や町衆まで含め
たもので構成されていった。戦前まではこの小作人たちが屋台曳き、獅子舞、囃子方などの祭
礼奉仕者の主体になっていたのである。町人地主の旦那衆たちは、彼らを招いて屋台を曳かせ
祭酒をのませてともに楽しんだのである。

ただ、この豪商達の財力も権力も、額に汗して働く周辺農山村の百姓や高山の小前町人たちの
中にあり、その財力・権力を維持するためには彼ら百姓町人と調和する以外に維持することは不
可能だったのである。それを大原騒動はしみじみとした実感で教えてくれたのである。

高山の屋台を創造し、地道につくり上げていった八幡氏子、豪商達が贅を競いつくり上げ、歴史
的に類まれな建造物に変貌させた山王氏子、これが高山の屋台の一つの姿でなかろうか。

高山祭の屋台が江戸風から京風に変わり、絢爛豪華になり、歴史的に類まれな建造物に昇華さ
せ、祭を一段と華やかにしていったのは、実はこれら豪商達だったのである。
前記四名は代表的
な豪商であるが、その他の豪商達も絢爛豪華な高山の屋台づくりを競っていったのである。

それとともに、もっと目を見はることがある。この大原騒動前後に、「豪商」といわれるほどの者が
この高山の町に続々と現れ
て、盛んに「他領貸し」・「大名貸し」を始めていたという事実である。
上二之町の大坂屋七左衛門、打保屋忠次郎、大新町の谷屋九兵衛、下二之町の谷屋平兵衛
などがそれである。

仙人台・豊明台・布袋台・(以上創建)、鳩峯車・神馬台(以上改修)-----八幡祭

つまり現在山王、八幡氏子内に残る二十三台中、創建十二台、改修三台、計十五台がこの時代
の屋台である。これを上町の山王祭に限ってみると、十二台中、創建九台、明治五年に消失した
応龍台もこの時作られているので、それも加えると上町の十三台中十台がこの時期に創建され
たことになる。これはいったいどういうことか。

麒麟台・鳳凰台・五台山・石橋台・恵比須台・龍神台・崑崗台・青龍台・大国台・応龍台(以上創建)、
三番叟(改修)-----山王祭

天明年間富裕な町人達が創建。その後弘化二(1845)年に工費七百五十両、さらに
文久年間に六百三十両という大金を投じて大改修をした。「雲龍の伊達柱」は当時
高山随一といわれ、優雅なそりを見せる切破風の屋根とともに王朝のみやびを漂わ
せ、高山の屋台中でも屈指の傑作といわれた。また下段の彫り「玉取獅子」は文久
改修のもので、当時の高山の屋台には和四郎と与鹿の作以外の彫物はなかったが
町内の彫師村山陸奥が組内衆の輿望を担ってこの大作に挑戦し、牡丹に狂う白彫
の玉取獅子を見事に完成、その出来栄えは組内衆の自慢のひとつになっていた。

旦那屋台

ライン
天保六年(1835)大改修時、総工費三百八十両、それにあとで作った大幕五十一両
計四百三十両という大金が投じられた。
恵比須台
嘉永三年(1850)純金金具と南蛮渡来の猩々緋幕を用いるなどし、総工費は実に
一千二百三十余両と四百四十文であった。このとき、滑川屋長五郎はどこにも負
けない大幕を買うため、長崎まで行ったのである。

高山屋台保存会の資料「高山祭の屋台の素形について」によると、別項の、農民一揆で物情騒然
たる
明和・安永・天明・寛政という大原騒動前後に、高山の町には今までとは違う豪華な屋台が登
場したのである。この時期に登場した屋台は次のとおりである。

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