| 麒麟台(山王) | 上一之町下組 | 老田屋敬吉(大坂屋分家) |
| 五台山(山王) | 上二之町中組 | 大坂屋佐兵衛(大坂屋分家) 上野屋清三郎 |
| 鳳凰台(山王) | 上二之町下組 | 内保屋忠次郎 内保屋市郎右衛門 加賀屋清三郎 上木屋甚兵衛 |
| 恵比須台(山王) | 上三之町上組 | 滑川屋長五郎 |
| 南車台(山王) | 上二之町中組 | 大坂屋七左衛門(大坂屋本家) 火災消失後廃台 |
| 豊明台(八幡) | 大新町一丁目 | 谷屋九兵衛(谷屋本家) |
| 鳳凰台((八幡) | 大新町一・二・三丁目 | 山下佐助 上木屋甚兵衛 |
| 鳩峰車(八幡) | 下二之町上組 | 谷屋平兵衛(谷屋分家) 坂屋清六 |
町方、あってもごく周辺の農村の村々の人たちで行われてきた祭が、旦那衆が屋台つくりに力
を入れ、その財力で祭を仕切り出したときに、旦那衆の出身地の農民を巻き込んでいき、広範
な地域への広がりをみせ、農民の苦渋と忍耐、それらを含んだ「飛騨びとの民衆哀歌 飛騨の
高山祭」となっていくのである。
山王祭になくてはならない舞楽、「片野のカンカコカン」の曲目に「新太郎さよ」というのがある。
“新太郎さヨー新太郎さヨーシンシンシンタのシンタローサーヨ”という単純な曲であるが、実は
これは大原騒動で死罪獄門となった「片野村新太郎」をしのんでうたわれはじめたものである。
片野村新太郎は当時二十九歳、その生前を知るものはこれを舞うときは、みんな泣いて、カン
カコカンの平たい鉦を打ったものだという。
この周辺農村こそは実は大原騒動の犠牲者たちの出身地であり、駕籠訴人の故郷であったの
である。宮村太七・片野村新太郎・江名子村孫次郎・下坪村次左衛門・坊方村伝次郎・新宮村
藤十郎・山口村新次郎・下之切村吉十郎・高山町方村平七・下岡本村平兵衛・花里村庄次郎・
折敷地村喜兵次。
旦那衆のつくった屋台組は、旦那衆の経済圏ともいうべき、周辺農村の小作人や町衆まで含め
たもので構成されていった。戦前まではこの小作人たちが屋台曳き、獅子舞、囃子方などの祭
礼奉仕者の主体になっていたのである。町人地主の旦那衆たちは、彼らを招いて屋台を曳かせ
祭酒をのませてともに楽しんだのである。
ただ、この豪商達の財力も権力も、額に汗して働く周辺農山村の百姓や高山の小前町人たちの
中にあり、その財力・権力を維持するためには彼ら百姓町人と調和する以外に維持することは不
可能だったのである。それを大原騒動はしみじみとした実感で教えてくれたのである。
高山の屋台を創造し、地道につくり上げていった八幡氏子、豪商達が贅を競いつくり上げ、歴史
的に類まれな建造物に変貌させた山王氏子、これが高山の屋台の一つの姿でなかろうか。
高山祭の屋台が江戸風から京風に変わり、絢爛豪華になり、歴史的に類まれな建造物に昇華さ
せ、祭を一段と華やかにしていったのは、実はこれら豪商達だったのである。前記四名は代表的
な豪商であるが、その他の豪商達も絢爛豪華な高山の屋台づくりを競っていったのである。
それとともに、もっと目を見はることがある。この大原騒動前後に、「豪商」といわれるほどの者が
この高山の町に続々と現れて、盛んに「他領貸し」・「大名貸し」を始めていたという事実である。
上二之町の大坂屋七左衛門、打保屋忠次郎、大新町の谷屋九兵衛、下二之町の谷屋平兵衛
などがそれである。
仙人台・豊明台・布袋台・(以上創建)、鳩峯車・神馬台(以上改修)-----八幡祭
つまり現在山王、八幡氏子内に残る二十三台中、創建十二台、改修三台、計十五台がこの時代
の屋台である。これを上町の山王祭に限ってみると、十二台中、創建九台、明治五年に消失した
応龍台もこの時作られているので、それも加えると上町の十三台中十台がこの時期に創建され
たことになる。これはいったいどういうことか。
麒麟台・鳳凰台・五台山・石橋台・恵比須台・龍神台・崑崗台・青龍台・大国台・応龍台(以上創建)、
三番叟(改修)-----山王祭
高山屋台保存会の資料「高山祭の屋台の素形について」によると、別項の、農民一揆で物情騒然
たる明和・安永・天明・寛政という大原騒動前後に、高山の町には今までとは違う豪華な屋台が登
場したのである。この時期に登場した屋台は次のとおりである。
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