考えてみれば実はそこにこそ、祭の秘密がある。つまり、祭は「生きもの」なのであり、本来合理的なもの
ではないということであろう。
文久年間に「暴れ神馬」から詫び状をとって、神馬台をおとなしくさせ、祭が順調に進行するようになったら
祭が面白くなくなってしまったことがあるが、今度は金の心配がなくなったら、また祭があやしくなってきた
のである。これはいったいどういうことなのだろうか。
組内の人は言う。「観光客の祭でなくて、自分達の祭に戻したいと思います。助成金はくれるといえばす
ぐにもらってしまうが、助成金のために屋台を祭礼区域以外の地へ曳けとか、カラクリをデパートでやれ
とか、そんなことなら助成金は受けたくありません。いずれにしても早く昔どおりの、自分達の祭に戻して
いきたいと思います」
これは組内衆の少ない組にはありがたい金で特別な大支出の時以外はだいたいの屋台維持費は出る、
従って屋台講も万雑割もいらなくなるという結構ずくめの話であるが、困ったことにここでも八幡氏子と同
じような問題が待ち伏せしているとは誰も気づかなかった。
例えば山王のある屋台蔵修理(昭和50年度)に総工費の50パーセント380万円がでている。また、山王・
八幡の各屋台組には高山市から10万円、観光協会からお祭協力費として7万円、カラクリ人形を持つ組
には3万円、計17ないし20万円(昭和51年現在)が毎年出ている。
こういう現象は下町ばかりでない。屋台会館の恩恵を受けていない上町の山王祭も程度の差こそあれ、
やはり、同じ問題を抱え込んでいる。それは高山の屋台が昭和35年重要民俗文化財の指定を受けて以
来、国・岐阜県・高山市・その他からいろいろの形の補助金が出るようになったためである。
「何しろ屋台というものは厄介な、いやな持ち物であるとともに誇り高い持ち物だ」「苦しい中を工面し、
金を出し合って、修理し、維持していくところに意味があるわけさ」そういう厭なこともいいことも、一つ
一つ人間の宿命のように積み重ねていってこそ、そこに愛着が生まれるんであってな、今のように補
助金で何でもやってくれるなら、祭寄合いも組み内の話し合いもいらなくなってしまう。これでは屋台に
愛着がうまれるはずがないじゃないか。
氏神様と氏子との間には、昔は祭だからどうしてくれ、何を作るから金を集めてくれ、と神社側から申し
入れがあり、神社役員は、その祭礼費を集めるのに大変なものだった。最近はそれが逆で、時期がく
ると神社(屋台会館)のほうから金(補助金)を持ってくる。
近代祭模様
屋台会館が建って数年経った頃、高山の町に妙な話がひそひそささやかれはじめた。「屋台会館で
金が入ったら祭が面白くなくなった」「屋台への愛着も薄れていくのがありありとわかる」というのであ
る。それは誰も考えて見なかったことで、高山祭始まって以来の新難題の登場であった。こんなはず
ではなかったが――高山の心ある人は茫然とした。
そればかりではない、観光客からも「お祭でなくては見られないと思っていた屋台を見ることが出来た」
と喜ばれ、これが高山の観光ブームに拍車をかけ、町に落ちる金も観光客の増加に準じ増えていった。
それはあたかも享保年間の昔、江戸っ子の屋台を八幡祭に登場させて、山王氏子の人々をアッといわ
せた時にも匹敵する、いかにも下町的合理主義での凱歌であった。こうして八幡の屋台はかろうじて戦
後の危機を脱したのである。
八幡氏子はまさに新時代の到来であった。従来、民家を借用していた順道場(祭礼本部)を江名子川
畔に新築したほか、大規模な八幡の本殿、拝殿も建て替えたばかりでなく、各屋台組には当時の金
額で年間六十万円ずつ配分されるに及んで、従来万雑割(まんぞうわり)によって工面していた、屋台
維持費・修理費・祭礼費は出さなくともすむようになった。
しかし、この下町の暴挙?に「これで高山祭りもおしまいだ」といわんばかりに嘆き悲しむ屋台キチの
声は決して消えたわけではない。「下町の屋台会館で金が儲かるで、オリはうらやましがって言うん
じゃないよ。オリたちのご先祖様は、屋台をヒナ様節句や七夕様のように、一年に一度楽しむように
と作ってくれたものだよ。一年に一度だから楽しいんで、あんなもの毎日出していたら祭が楽しくなく
なり、敬神もなにもなくなる。当たり前さ。これで高山祭ももうおしまいだ!」というのが上町のみんな
の考えであった。
この金額はこの会館の「周辺整備を含む総工費八千万円」に匹敵した。つまり、四十九年度で見る
とたった一年の純益で総工費が回収できたことになる。
時あたかも観光ブームに乗って、会場入場者数は一年増しにうなぎのぼりとなり、四十九年度には
年間入場者数七十九万九千八百十一人、入場料約一億五千万円となった。維持費約半分を差し
引いても年間八千万円という大金が八幡氏子内にころげこんだ。
昭和43年9月のことである。この屋台会館は「鉄筋コンクリート二階建て、一階八百六十八平方メ
ートル、二階九百三十八平方メートル、軒高十一・八メートル、古代様式校倉作り」であった。ここ
へ八幡の屋台を四台づつ交代で飾り、料金を取って一般公開する。
しかし、八幡氏子の「屋台会館」の出現はそれまで下町が苦しんできた屋台維持・祭礼維持の費用
捻出を解決したのである。
そういう対照の中で最も象徴的なのは、なんといっても戦後、建設された屋台会館をめぐる論争で
ある。上町の人たちに言わせると「だっしゃもない。神様のものを見世物にして銭もうけなんて、よう
そんなことができますな」ということになるが、下町の人は「やくたいもない。屋台保存に支障がない
ならぎょうさんな人たちに見てもらうのはいいことだし、その収入で祭礼費も屋台維持費も出るとい
うなら結構じゃ。べんこくさいことこくな」と考える。
高山屋台会館建設
しかし、江戸の屋台をいち早く高山に持ち込んだのは「この下町のヤツラ」だったことはいうまでも
ない。おそらく、その屋台も当時は下町蔑視の対象になっていたに違いない。保守的な山王氏子
がやっと本気で屋台をつくりだしたのは大原騒動前後であるから屋台に関しては少なくとも50年
の違いはある。
なにしろ、上町と下町とはこうも違うのかと驚くほど気風も違う。例えば例祭日にしても、八幡氏子
では従来行われてきた日を都合が悪ければあまりこだわらずに変更する。現在、分かっているだ
けでも、その変更は三回もある。つまり、下町的合理主義である。また、それが上町の人たちには
「お祭の日にちを勝手に変えるとは、神様をないがしろにしたバチアタリめが」という下町蔑視の材
料になった。
春の山王祭に雪でも降れば、下町のものは大喜びで、夜中ひそかに除雪道具を持った雪下ろし
人形を安川通りの辻にたて、「ざまあみろ、心がけが悪いからだ」とやじりからかした。それを悔し
がった山王氏子の連中は、秋の八幡祭に屋台が陣屋見参のためどうしても上町を通らなければ
ならないその弱みを握っていて、道路わきの溝をせき止めて祭行列を水浸しにし、「自業自得」と
やじり返した。
この両者は、ここに城下町ができてまもなくより、すでに対立を宿命づけられて来た。上町がかた
くなに旧三町衆の誇りと伝統を守り、古い格式を誇示すれば、下町はいかにも新開地らしく形式に
こだわらず、いつも力とアイデアで勝負し、山王気質と下町気質はともに一歩も譲らなかった。
八幡氏子と山王氏子
高山の町は安川通りを境に、南半分は上町(かみちょう)といい山王氏子(春祭)、北半分は下町
(しもちょう)といって八幡氏子(秋祭)というふうに二分されている。