| 屋台名 | 彫物名 | 作者名 | 制作年代(和暦) | 西暦 |
|---|---|---|---|---|
| 五台山 | 飛獅子 | 立川(諏訪)和四郎 | 天保八年 | 1837 |
| 麒麟台 | 唐子群遊 | 谷口与鹿 | 弘化二年 | 1845 |
| 麒麟台 | 籠伏の鶏 | 谷口与鹿 | 同 | 同 |
| 恵比須台 | 子連竜 | 谷口与鹿 | 嘉永元年 | 1846 |
| 恵比須台 | 手長足長 | 谷口与鹿 | 同 | 同 |
| 鳳凰台(八幡) | 谷越獅子 | 谷口与鹿 | 安政二年 | 1855 |
| 神楽台(山王) | 白彫獅子 | 谷口与鹿 | 不明 | 不明 |
| 鳩峯車 | 双竜 | 江黒尚古 | 文久元年 | 1861 |
| 石橋台 | 玉取獅子 | 村山堪四郎 | 慶応元年 | 1865 |
| 大国台 | 白彫獅子 | 土村英斎 | 明治十六年 | 1883 |
| 豊明台 | 白彫獅子 | 村山民次郎 | 明治三十二年 | 1899 |
| 神楽台(八幡) | 狂獅子 | 浅井一之 | 明治三十七年 | 1904 |
| 麒麟台 | 昇降竜 | 初代村山群鳳 | 大正十年 | 1921 |
| 龍神台 | 竜神 | 二代村山群鳳 | 昭和四十三年 | 1968 |
匠たちが一世一代の腕を競ったのはこの下段の彫りであった。今高山の屋台にある彫物のうち主
な物は次の通りである。作者とその作られた年代に注目してください。
しかし、屋台自慢の最たるものはなんと言っても飛弾の匠たちが精魂こめて技を競った彫り物であ
る。これが祭絵巻に花をそえる。そのなかでも主な彫物は「下段の彫り」といわれるものである。こ
こは台輪のすぐ上にあり、もの人の目線にありよく目立つので屋台自慢の目玉のようになっている。
高山の屋台にはそれぞれ特徴があり、どの組でも何か一つや二つは自慢話をもっています。例え
ば青竜台は旧藩主金森氏の家紋「梅鉢」を許され、屋台組の紋章にし、かっては山王祭の宮本と
して君臨したことを自慢すれば、五台山は「雲龍昇天の見送り」を、恵比須台は「右大臣藤原宗孝
卿乗用車輿の簾」を竜神台は「久邇宮朝彦親王直筆の見送り」を琴高台は「徳川家達公の直筆の
見送り」を自慢する。屋台自慢も千差万別であります。
| 手長足長(恵比須台) | 信州手長神社「手長足長」(諏訪市) |
| 下教来石諏訪社の「手長足長」(山梨) | |
| 子連竜(恵比須台) | 信州興正寺山門と同八幡の八幡本殿正面の「子持竜」 |
| 唐子群遊の鶏(麒麟台) | 信州諏訪神社拝殿の鶏(諏訪市) |
| 亀崎八幡山車の「力神と鶏」(半田市) |
谷口与鹿は高山側では立川和四郎に弟子入りしたものといわれ、信州の和四郎研究家の間で
は否定されている。昔は外弟子ということがあったから、その程度はあったかもしれないとも言
われている。どちらにしても与鹿が和四郎に学ぼうとしていたことは間違いないようである。与鹿
の名作といわれるものの幾つかの原型がほとんど和四郎の作品にあるということである。従来、
与鹿の独創とされていた次の三作などは、特に和四郎の影響が顕著で素人にもよくわかる。
谷口与鹿は谷口権守典三郎延伝という匠家に生まれ、8人兄弟の二男として育ったが、次々に
身内と死別し、涙もかれる悲運の人だったらしい。嘉永三年に一度高山を去っているが、この時
は父の死を風の便りに聞き墓参りに戻った。そこを大新町の人々に懇願され仕上げたのが鳳凰
台の「谷越獅子」である。身内を失った悲しみか、あるいは仕事にまつわる煩悶かわからないが
、この後、高山の屋台建築史上に不滅の光を残した名工谷口与鹿は宮峠を越えてふらふらと去
り、二度と高山には帰ってこなかった。
谷口与鹿は16歳の時大工中川吉兵衛(麒麟台中段欄間彫刻・牡丹作者)に弟子入りしていた。
感じやすい与鹿がたった1日で行ける諏訪和四郎の仕事場や、中部地方一帯に散らばっている
前記和四郎の諸作品を見てあるいたことは十分に理解出来る。その与鹿の初作麒麟台「唐子
群遊」が春の山王祭に登場した時人々は目を見張った。特にその中の「籠伏の鶏」一本の木に
籠とその中に遊ぶ鶏まで一緒に刳り彫りされた精巧緻密なもので「これは神技じゃ」ということで
祭の話題をさらった。その数年後高山を去っているがこの短い間になしとげた仕事には前表六
つの作品のほか琴高台・応竜台・仙人台・金鳳台などの設計、欄間の彫刻などがあり、彼が直
接間接に高山の屋台に与えた影響は計り知れないものがある。
Copyright(c)2007,y.fujii(sasukefujii@hotmail.co.jp)
諏訪在住の立川和四郎は幕府御用大工の棟梁であり、その彫刻は京都御所建春門の「蟇股
(かえるまた)の竜」を始め信濃善光寺大勧進御門の「虹梁(こうりょう)の竜」、駿河の浅間神
社・信州諏訪大社・遠州の秋葉神社・尾張の亀崎八幡の山車など目ぼしいものだけ拾っても
数十に及び、名実ともにならぶもののない当代一の名工であった。その名工の作「飛獅子」を
金額の大きさもさりながら凍てつく雪のなか、野麦峠を越え高山に持ち込んだのは、上二之町
五台山組の豪商大坂屋佐兵衛であった。和四郎の飛獅子がこの年の山王祭に現れて人々を
驚かせ、五台山のこの反響が、高山の屋台に彫刻ブームを巻き起こすきっかけとなった。そし
てここで大事なことは、当時飛騨には和四郎の作に驚きかつ理解できる人と、これを受け入れ
る高い水準の技術が既にあったということである