不明
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しかし、彼らは、当時川原町にに住み、赤貧の中にあったという。坂下甚吉などは二度も身代限り(財産
整理)をしているほどである。名人かたぎと貧しさとの宿命的なつながりであったのであろうか。
ここで不思議に思うことは例えば川尻治助や西田伊平・坂下善吉などの近代名工の名前が出てこない
ことである。このことについてその道の人の意見を聞いてみたら「今でこそ屋台大工が勲章をもらったり、
新聞に名前が出たりするが、昔は屋台なんか“ハンパ大工”、“どん職”の仕事で、まともな大工はしな
かった」ということである。ちなみに、前記名工たちは普請をおこなうにあたり総勢二百名以上使う一門
を率いた棟梁であった。

諏訪在住の立川和四郎は幕府御用大工の棟梁であり、その彫刻は京都御所建春門の「蟇股(かえる
また)の竜」を始め信濃善光寺大勧進御門の「虹梁(こうりょう)の竜」、駿河の浅間神社・信州
諏訪大社・遠州の秋葉神社・尾張の亀崎八幡の山車など目ぼしいものだけ拾っても数十に及び、名
実ともにならぶもののない当代一の名工であった。

祭屋台を彩る彫刻 谷口与鹿

屋台作成の匠

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高山の屋台を作った匠たちの名前が出てくるのは文化年間以降のものであり、今、わかっているのは
いずれも屋台改修か再建にあたった工匠だけである。

飛弾の匠

その与鹿の初作麒麟台「唐子群遊」が春の山王祭に登場した時人々は目を見張った。特にその中の
「籠伏の鶏」一本の木に籠とその中に遊ぶ鶏まで一緒に刳り彫りされた精巧緻密なもので「これは神
技じゃ」ということで祭の話題をさらった。
屋台名 彫物名 作者名 制作年代(和暦) 西暦
五台山 飛獅子 立川(諏訪)
和四郎
天保八年 1837
麒麟台 唐子群遊 谷口与鹿 弘化二年 1845
麒麟台 籠伏の鶏 谷口与鹿
恵比須台 子連竜 谷口与鹿 嘉永元年 1846
恵比須台 手長足長 谷口与鹿
鳳凰台(八幡) 谷越獅子 谷口与鹿 安政二年 1855
神楽台(山王) 白彫獅子 谷口与鹿 不明 不明
鳩峯車 双竜 江黒尚古 文久元年 1861
石橋台 玉取獅子 村山堪四郎 慶応元年 1865
大国台 白彫獅子 土村英斎 明治十六年 1883
豊明台 白彫獅子 村山民次郎 明治三十二年 1899
神楽台(八幡) 狂獅子 浅井一之 明治三十七年 1904
麒麟台 昇降竜 初代村山群鳳 大正十年 1921
龍神台 竜神 二代村山群鳳 昭和四十三年 1968
飛騨の民は文武天皇の大宝元年(701)「大宝律令」中の「賦役令」により、この時代の7,8百年前に奈
良の都・京都の都の造営に働きに行っていた。つまり飛騨は貧しい国で租税として納めるものがない
ので、その代わりに毎年百五十人ほどの若者を労働力として、都の大土木工事に差し出した。いわ
ゆる「飛騨の匠」といわれる者である。
その数年後高山を去っているがこの短い間になしとげた仕事には前表六つの作品のほか琴高台
応竜台仙人台金鳳台などの設計、欄間の彫刻などがあり、彼が直接間接に高山の屋台に与えた
影響は計り知れないものがある。
例えば、飛騨には昔から「貧乏したけりゃええ大工になれ」という諺がある。高山に近い国府町の岡村
利衛門邸を作った広田藤兵衛という大工は、施主から与えられた材料で仕事を始めたが、どうしてもそ
の材料に満足できず、色々工夫してみたがうまくいかない。そこで施主には黙って、高山八軒町あたり
の材木店へ足を運び、やっと気に入った材料を見つけて普請した。そして、何喰わぬ顔で仕上げて帰
った。
これを見ても解るように屋台に本格的な彫刻がつけられたのは天保以降でその歴史は比較的新しいこ
とが解る。もう一つ解るのは最も優れた作といわれるものが、立川和四郎のものを除くと谷口与鹿の
ものということだ。その初作は和四郎の作品が飛騨に入った天保八年から数えて八年目、与鹿24歳
の作である。
Traveler's Site 高山祭  Photo高山祭
屋台づくりはこれと違い集団からは「はぐれ大工」だったようである。
しかしながら昭和年代神輿大工の第一人者といわれている白木源三氏に八幡氏子の仙人台・宝珠台
を解体復元したときの感想を聞いてみると「いずれも、作者の名前はわかりませんが、何しろ丁寧な仕
事、念入りな仕事がしてあって感心しましたね」という。後代のひとにも「ていねいな仕事」と感心させる
ほどの腕の持ち主であったことは間違いないことである。
その名工の作「飛獅子」を金額の大きさもさりながら凍てつく雪のなか、野麦峠を越え高山に持ち込
んだのは、上二之町五台山組の豪商大坂屋佐兵衛であった。和四郎の飛獅子がこの年の山王祭
に現れて人々を驚かせ、五台山のこの反響が、高山の屋台に彫刻ブームを巻き起こすきっかけと
なった。そしてここで大事なことは、当時飛騨には和四郎の作に驚きかつ理解できる人と、これを受
け入れる高い水準の技術が既にあったということである

しかし、屋台自慢の最たるものはなんと言っても飛弾の匠たちが精魂こめて技を競った彫り物である。
これが祭絵巻に花をそえる。そのなかでも主な彫物は「下段の彫り」といわれるものである。ここは台
輪のすぐ上にあり、もの人の目線にありよく目立つので屋台自慢の目玉のようになっている。

高山の屋台にはそれぞれ特徴があり、どの組でも何か一つや二つは自慢話をもっています。例えば青
竜台は旧藩主金森氏の家紋「梅鉢」を許され、屋台組の紋章にし、かっては山王祭の宮本として君臨し
たことを自慢すれば、五台山は「雲龍昇天の見送り」を、恵比須台は「右大臣藤原宗孝卿乗用車輿の
簾」を竜神台は「久邇宮朝彦親王直筆の見送り」を琴高台は「徳川家達公の直筆の見送り」を自慢する。
屋台自慢も千差万別であります。

この飛騨から行った工人達は主に造営省木工寮に回された。ここでは唐や百済からの帰化人が、大陸
から持ち込んだ新しい建築技術を駆使して働いており、その下働きであった。そういう中からやがて数
多くの木工熟練者が育ち、さらにその帰化人を凌駕する腕前の工人も続々と現れて、奈良の興福寺・
平城宮・東大寺・平安宮・大極殿などの造営を手がけた。こうして八世紀から九世紀にかけて、飛騨の
匠の名声は天下にとどろいたのである。

谷口与鹿は谷口権守典三郎延伝という匠家に生まれ、8人兄弟の二男として育ったが、次々に身内と
死別し、涙もかれる悲運の人だったらしい。嘉永三年に一度高山を去っているが、この時は父の死を風
の便りに聞き墓参りに戻った。

そこを大新町の人々に懇願され仕上げたのが鳳凰台の「谷越獅子」である。身内を失った悲しみか、あ
るいは仕事にまつわる煩悶かわからないが、この後、高山の屋台建築史上に不滅の光を残した名工谷
口与鹿は宮峠を越えてふらふらと去り、二度と高山には帰ってこなかった。
「どっちみち、大工は貧乏するようにできている」という言葉を残して。こういう言葉の奥にひそむ
のは、すさまじいばかりの「誇り」なのである。
大新町の日下部邸、豪快重厚な構造美が訪れる人を驚かす、この邸は明治十二年、高山の大工川尻
治助(通称川治)三十才代のときの建造である。彼はこの仕事を終えた後、丹生川村根方の田上邸の
仕事にかかり、完成するのに十二年の歳月を費やした。
又、西田伊平(通称西伊)によって作られた吉島邸は日下部邸より二十八年後の明治四十年に完成し
ているが、江戸時代の建築様式を継承し、日下部邸の豪快さと対照的にやわらかい親しさを感じさせ
るものである。

飛騨の匠

ライン

谷口与鹿は16歳の時大工中川吉兵衛(麒麟台中段欄間彫刻・牡丹作者)に弟子入りしていた。感じや
すい与鹿がたった1日で行ける諏訪和四郎の仕事場や、中部地方一帯に散らばっている前記和四郎の
諸作品を見てあるいたことは十分に理解出来る。

匠たちが一世一代の腕を競ったのはこの下段の彫りであった。今高山の屋台にある彫物のうち主な物
は次の通りである。作者とその作られた年代に注目してください。

彼らはひく手あまたの集団になって腕いっぽんに誇りをかけ一糸乱れぬ職人社会のいわゆる「ギルド」
を構成して諸国を渡り歩き、その中からさらに幾多の有名無名の誇り高き工人たちが育っていったので
ある。腕一本に誇りをかけて、諸国を渡世して歩いた匠たちのこころは、その後も飛騨の心として生きつ
づけられてきたのである。
手長足長(恵比須台) 信州手長神社「手長足長」(諏訪市)
下教来石諏訪社の「手長足長」(山梨)
子連竜(恵比須台) 信州興正寺山門と同八幡の八幡本殿正面の「子持竜」
唐子群遊の鶏(麒麟台) 信州諏訪神社拝殿の鶏(諏訪市)
亀崎八幡山車の「力神と鶏」(半田市)
この飛騨の匠も平安時代の閉幕とともに歴史の表面から姿を消していくが、平安時代の終末とは戦国
時代の始まりである。そして群雄割拠とは諸国に大土木工事の「築城」が始まることで、大小無数の
「都」、小京都が各地に生まれることでもあった。都を作った飛騨の匠の腕前はすでに諸国に知れ渡っ
ており、周囲がほっておくはずがなかった。

谷口与鹿は高山側では立川和四郎に弟子入りしたものといわれ、信州の和四郎研究家の間では否定さ
れている。昔は外弟子ということがあったから、その程度はあったかもしれないとも言われている。どち
らにしても与鹿が和四郎に学ぼうとしていたことは間違いないようである。与鹿の名作といわれるもの
の幾つかの原型がほとんど和四郎の作品にあるということである。従来、与鹿の独創とされていた次の
三作などは、特に和四郎の影響が顕著で素人にもよくわかる。

近代の名工といわれる坂下甚吉。上一之町の平瀬邸、旧永田邸の文庫藏(現高山郷土館)などのつく
りを見れば、彼が前記二人に劣らない名工だったことはよく解る。二階の明かり窓から階段を通して入
ってくる直射日光を、薄暗い一階の照明にするなど細かい心のいきとどいたアイデアには目を見張るも
のがある。
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