不明
史実高山祭 祭の起源 民衆哀歌 飛騨の匠 暴れ神馬
高山の地勢・自然 屋台出現 旦那衆の勃興と崩壊 屋台蔵の技 応龍台消失
高山の町 旦那屋台 屋台王国 近世屋台組事情 大名貸し末裔
年譜 高山の祭 八幡・山王 飛騨の神々 屋台組町内図
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Photo高山祭
高山の神社・仏閣
史実高山祭 祭の起源 民衆哀歌 飛騨の匠 暴れ神馬
高山の地勢・自然 屋台出現 旦那衆の勃興と崩壊 屋台蔵の技 応龍台消失
高山の町 旦那屋台 屋台王国 近世屋台組事情 大名貸し末裔
年譜 高山の祭 八幡・山王 飛騨の神々 屋台組町内図
華麗な祭屋台が美しさを競う秋の高山祭が9、10日、岐阜県高山市である。かつて町の旦那
(だんな)衆が支えた高山祭は、過疎化や高齢化で担い手不足が深刻化し、祭り関係者には危
機感が強まっている。

 大八台(だいはちたい)屋台組の浦田寿一さん(56)は昨秋の寂しい光景が忘れられない。
夕方、各台が屋台蔵に帰った後、神社の参道に大八台だけが取り残された。祭りの町内は、
みこし行列にも人を出す。行列で手いっぱいで、屋台を引きに行く人手がなかったのだ。

 大八台組はわずか11軒。今年の祭りの当番主任を務める奥田貞徳さん(34)は「雇用がなく
地元に若者が残らない」と嘆く。奥田さんの次に若い23歳の男性は今年、三重県内に就職した。

 16軒の行神台組では、屋台の引き手要員として市内の他地域の人や転出者など十数人で
つくる「若衆」を組織している。行列はシルバー人材センターから応援を呼ぶ。他地域に嫁いだ
女性の夫も集まる。当番主任の大森喜代男さん(60)は「地元に住む人は最年少が57歳。若
衆に期待している」と話す。

 「屋台を引くのには10−15人は必要。大きい台だと30人はいる」と高山屋台保存会の寺地
亮平専務理事(52)は言う。11ある秋祭の屋台組のうち9組は20軒以下。高齢者世帯も多く、
人不足は年々、拡大する。

 観光客が集中する春祭の地域は、さらに深刻だ。6軒で支える五台山(ごたいさん)組の組
総代萱垣忠久さん(59)は「祭りの役員や行列に出る人を除くと、屋台を引けるのは3人ほど。
5−8人ほどの応援が頼り」と言う。

 応援は市内の祭り区域外の人たちだが、組の自治で運営するのが伝統なので、誰でもいい
というわけにはいかない。「祭りの日だけでなく、日ごろから付き合いを深めることが肝心」と、
人手不足と伝統のはざまで苦心している。

近世屋台組事情

ライン
 【高山祭】 春は旧高山城下町の南半分の氏神
である日枝神社の例祭「山王祭」。秋は北半分の
氏神・桜山八幡宮の例祭「八幡祭」。春は12台、
秋は11台(今年は10台)の豪華な祭屋台(国重
要文化財)が引きそろえられる。
布袋台を曳き揃える若衆
また職人町の組、サラリーマンの多い組、古い格式を持つ三町の商家組、いくつかの町の寄合い所帯
の組もある。ねじ兵衛(理屈屋)ばかりとこぼす組もあれば、龍神台組・麒麟台組・青龍台組のように気
心のあった組、同じ屋台組といっても千差万別で一概にいえないのである。

屋台組の哀歓 ・各屋台組の内情

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屋台は各町内にある屋台組によって維持運営されている。従って屋台組とひとくちにいっても各屋台組
の内容や気風などはみんな違う。昭和50年代頃の話であるが、例えば川原町の青龍台組や、八幡町
の神楽台組のように百五十戸から二百戸という大所帯の組があるかと思うと上二之町の五台山組のよ
うに十にも満たない戸数の組もある。
いくつかの屋台組では寄合いが持たれ、「売ってしまえ」「焼いてしまえ」と幾夜も幾夜も議論が続いた。
そして、中には行神台のように、本当に温泉町下呂水明館と売買契約まで取り交わされたものもあった。
しかし、流石に反対派が盛り返して、契約を破棄し、危うく難を逃れたということすらあったのである。八
幡氏子の苦悩は昭和四十三年高山屋台会館ができるまで続くのである。
戦後旦那衆の没落によって屋台を支えてきた柱を失った屋台組はどの組もいまだかってない重大な
危機に直面した。「こんなもの焼いてしまったらどうか」「人間が困っているときに助けてくれるのが神
様だ。餓死者も出るという生きるか死ぬかの時に何もしてくれないばかりか、また屋台の金をあつめ
るという。今オリたちに必要な神様は米だ」とはっきり言ってのけるものさえ現れた。昭和二十一年春
のことである。
戦後の高山の最も大きな変化は、なんといっても農地解放による旦那衆の全面的崩壊とこれに依存
していた、屋台組の微妙な変化だろう。この頃各屋台組では町内の各戸に修理費用とか祭礼費用が
割り当てられ、戦後のたいへんな時期においてもそれをなんとかみんなで負担してきたのである。
等々二十一か条がこまごまと規定されている。こういう「定」はだいたいどの屋台組でも大同小異で踏
襲されている。
一、山王祭の祭礼には毎年十人づつの当番で、組内の者とよく相談して決めること
一、当番に当った者は、他国に出稼ぎ中でも三月には帰郷して勤めること。

布袋台を曳きそろえる若衆

祭礼費用について屋台組内の負担はどうなっているのか。明治44年の石橋台の記録を見ると「祭礼
費四十一円七十八銭九厘」はつぎのような比率で組内15戸に割り当てられていた。
「20・15・15・20・15・15・20・20・20・15・15・40・37・46・30」最高と最低の比は三対一であった。当時、
この組は特別大きな旦那もいないかわり、それほど貧乏人がいないこともわかる。この種の取立て配
分を飛騨では「万蔵割」と呼んでいる。他の屋台組でも同じ方法をとっている。
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※高山祭、ゆらぐ屋台骨 減る若者、引き手助っ人頼り
            2008年10月6日 中日新聞夕刊
そして、この万蔵割に組内衆は長年にわたって、他人へは言えない苦労を重ねてきたのである。組
内の祭相談で反対するのは勇気のいることで、ある場合には村八分のおそれさえある。そういう雰
囲気の中で幾晩も行われる祭相談が貧乏人にとってそう楽しいものであるはずがない。
もう一つ、万蔵割もさることながら、貧乏人にとって一番困ったのは祭礼奉仕の義務であった。崑崗台
の安永三年(1774)の「定」をみると
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