いわゆる、祭の起源としては、これらの神社が出来てからのもであり、前述の資料から類推するより
ほかにないと思われる。山王祭については、一説には、昔片野村近くにあった山城が落城(1181)し
て廃墟になっていたものを草刈に行った片野の百姓がその城址に取り残されていた山王様を見つけ
て馬に積んで持ち帰り鉦や太鼓をたたいてお祭をした。それが山王祭の始まりで「カンカコカン」はそ
れ以来の鉦だという。だから片野のカンカコカンが到着しないと山王祭は始まらないと地元の古老た
ちは自慢するという。正説がどれであるか分からないが、いずれにしても二つの祭はそうとう古い時
代から始まったと思われる。
このように八幡祭の屋台をともなう祭の始まりは1708年ということは間違いのないところであろう。
いずれにしても、この程度の祭は全国各地どこにでもある村祭で、取り立てて言うほどのことはない
と思われる。この祭が大きく変貌し、いまや全国に知られる有数の祭になっていった大きな要素は
屋台の出現である。したがって、祭の起源としてとりあげるものは、この村祭的な祭の起源もさりな
がら、屋台と関わりだし、変貌していく時期を探求するほうが意味があるのではなないでしょうか。
祭の起源をさぐるにあたり、山王祭・八幡祭について次のような資料が見られる。山王祭の祭神は
日枝神社・八幡祭の祭神は八幡神宮である。両神社の資料をみてみると
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別章でも出てきますが、八幡氏子と山王氏子の気質はまったく違います。山王氏子は保守的で、八幡
氏子は形式にこだわらず、いつも力とアイデアで勝負する。例えば例祭日にしても、八幡氏子では従来
行われてきた日を都合が悪ければあまりこだわらず、変更する。わかっているだけでもその変更は三
回あるという。この気質の差は、八幡祭が元々の本流だったところからきているのではないでしょうか?
まったく個人的な見解で、乱暴な推理となりますが、八幡祭のほうが、早くから祭の形態を整えたので
はないでしょうか。一つには日枝神社のすぐそばに金森長近が居城を構築したこと、豪商が山王側の
上町を本拠として構えたこと、もう一つには屋台創建がおよそ八幡側にくらべ五十年も遅れたこと。こ
れらを考えると前者の理由で、山王祭が後押しを得てこの時期に祭を作り上げたのではなかろうか。
次に後者の理由で考えられることは、屋台が五十年も遅れて製作されるだろうか?八幡側が当初、屋
台を製作した頃には山王祭は形をなしていなかったのではなかろうか。後押しを得て、祭の形が徐々
に出来あがったから屋台を製作し始めたのではないか。このように考えるほうが自然であるように私に
は思えてならないのです。
したがって、山王祭の屋台をともなう祭の始まりは、八幡側から遅れること43年後の1751年頃となる。
ひきかえ、山王祭の屋台出現は1751年頃(宝暦元年)石橋台創建、次いで1764年頃(明和元年)の三
番叟創建である。その間、八幡側では1747年(延享四年)鳩峯車、1765年頃(明和二年)仙人台が創
建されている。
屋台の出現は、1708年(宝永五年)八幡祭の神楽台創建が最初とされる。次が1716年頃(享保元年)
の行神台創建で、その2年後の1718年に神馬台が創建されたとされている。又、その年の八幡祭に
は創建年代不詳ではあるが金鳳台が曳行された記録も残っている。又、この年、特筆されることとし
て、江戸からの江戸風山車が八幡祭に現れたということである。
両神社を祭神とする祭が何時ごろから始まったのか、知るよしもないし、二つの祭が別々に始まった
のか、一つの祭が両神社を祭神とする二つの祭に分かれたのかも分からない。しかし、1586年(天
正14年)金森長近が入府したときには、二つ祭神の祭として形が出来上がっていたのは間違いない。