飛騨では江戸時代の中期に「大原騒動」という二十年間にもわたる大規模な農民一揆があった。
これは飛騨びとの心さえも変えたといわれるほど、長い飛騨史における最大の事件である。次の
年譜をご覧いただきたい。
天保九年(1838)の持ち家調べ(高山市史)を見ると、高山三町衆といわれる人々でさえ総戸数一
千六百五十六戸中、家持は五百九十一戸、三分の一で、その他一千六十五戸は、旦那衆所有
の長屋の住人であった。
明治四年の高山の持高表(税金台帳)を見ればよく分かる。高山の総戸数二千九百三十二戸のう
ち、無石(無産)は二千二百二戸(75%)で、これに準無石である持高一石以下の四百六十五戸を
加えると実に91%という戸数が、殆ど資産を持たない、いわゆる小前町人(無産)だったのである。
こうして恩恵米のはずの山方米も人別米も、山方住民や零細町人の手に渡る前に、豪商達の蔵
に入ってしまい、こうなっては米価は上がるばかり。かくして、富めるものはますます富み、貧しい
ものは益々貧しくなっていった。
【町方衆】
高山に住む町方衆には山方米と同じように、毎年一人一俵くらいの幕府米をごく格安に支給され
ていた。これを「人別米」といった。高山の零細町人たちへの恩恵として出した「人別米」も、いつ
のまにか「山方米」と同じ経路で旦那衆の手に渡っていった。
しかし、恩恵米のあった時でさえ借金せねば生きていけなかった貧乏人が、安い米の権利を売っ
て、次の日から高い米を買わされて、そのうえ高利の借金まで返済できるはずはなかった。
それで飛騨では昔からこの山方衆に毎年一人平均一俵くらいの幕府米をごく格安に支給していた。
これを山方米といって当時「大変な恩恵」とされてきた。ところが困ったことにこの恩恵米を受かる権
利を質草に金を借りるものが現れたのである。
こういう質入はその後も後をたたず前記中洞村の証文から数年後の寛政六年(1794)に中之宿組
(中洞村を含む数か村)では山方米株の借金累積が実に二千六百両という多額になっていったの
である。そして金額が大きくなるにつれて、貸主の名義は村の富裕者から谷屋・大坂屋・上木屋・
福島屋などといった高山の豪商へと変わっていったのである。
高山のある豪商の家にあった借用証文に、天明九年(1789)三月、中洞村惣七以下四十人が、大西
村又右衛門から三十五両借りた時のものがある。中洞村は野麦峠の麓にあり、当時四十戸の小さ
な村が総ぐるみで金を借りたのである。この証文の変わっているところは質草に「山方米株四十人
分を申受け」たという一文がついていることである。飛騨は山国で田んぼが少ない、特に奥山中七十
九か村というものは、米は殆ど実らない。
【山方衆】
飛騨は昔から木材の国で全人口のほぼ三分の一が幕府直轄の御林山で働きこの人たちを山方衆
といい、山方米が格安に支給されていた。
証文には利息の記載が無く、記入されていたものは二割五分になっていたという。それより高利な
ものは違法として、記入できなかったのだろうか?いずれにしてもこういう高利の金はいったん借り
たら返せない。こうして高山の農民は早くから土地を町人地主に吸い上げられていったのである。
長年、町人地主の番頭をしていた人の話を聞くと「中には何年にもわたって旦那に米を借りてたべて
いるので、秋に年貢米と借りた米と、それに利息四割を差し引いたら、獲れた米を全部差し出しても
まだ、足りないなんていう人もいました」という。
近年、高山のある旦那衆の家から大きな長持ち一棹競売に出て話題になったが、中身は殆ど田畑
の入質証文だったそうである。本来、この種のものは借金の返済と引き替えに借主に返す筈のもの、
それが貸主に残っているということは、質流れで田畑が百姓の手から町人の手にわたったことを意
味している
しかも高山や古川周辺の生産性の高い水田は、あらかた高山の町人地主に握られていた。いずれ
も質流れによるものである。
第二次大原騒動の頃谷屋は町方七人衆に入っており、その頃には既に町人地主となっていたであ
ろうし、逆に言うとこの頃には飛騨の農民は町人地主に土地を吸い上げられていったのであろう。
米のとれる水田は、明治二十年調べで五千六百五十五町歩(一町歩は1ヘクタール)。これを一万三
千八百戸の飛騨の農家が耕していたが、このうち自作農はたった二十五パーセントで、残りの七十
五パーセントが小作か自小作(自分の所有地もある少しある小作人)であった。「岐阜県史」
飛騨では昔から少ない米をどうやって配分していくか、そこに難しいこの国の政治があった。それを
少しでも誤ると、たちまち飛騨には大騒動が起こって、支配者は必ず、失脚した。大原騒動も幕末の
梅村騒動もことごとく米の配分の失敗からだった。
飛騨三方衆
ただ、ここで皮肉なのは、あの長い大原騒動を通じて、飛騨農民の真の恐ろしさを誰よりも骨身にし
みてこたえたのも、またこの旦那衆だったことである。二十余年にもわたり、親から子へ、子から孫
へと受け継がれた、あの飛弾の農民の執拗さをまのあたりに見ては当然である。
大原彦四郎の後を継いだ亀五郎、父の残した使途不明の借金(老中田沼意次への賄賂という言う説
もある)一万両前後を抱え、その処理のため不正役人と悪徳商人を太らせる行状となり、第三次大原
騒動を起こすこととなったのである。その結果亀五郎郡代は流罪・死罪五名・重追放・御役御免・押
込・過料など数十人という処分におよんだ。農民側は越訴におよんだ四人を除いてお叱り程度ですみ
二十年におよぶ大原騒動は、ここに飛騨農民の生活をかけた執念の恐ろしさをまざまざと見せつけて
終わったのである。
それにつけても、この大原騒動で勝ったのははたしてだれだったのであろうか。大原親子でないこと
はたしかであるが、それでは農民かというとそうでもない。彼らはますます生活が苦しくなっていった。
どうもこの騒動に勝ったのは、この両者とはぜんぜん別な、高山の旦那衆という第三の男たちだった
ようである。実は、騒動・飢饉・大火などは彼らの荒稼ぎの舞台だったのである。
これだけの騒ぎを起こしたにもかかわらず、農民達の恨みの検地増石はおこなわれ、安永四年には
飛騨三郡は五万五千石となった。しかも捕らわれた数百人の農民に対する取調べは峻烈をきわめ、
鬼気せまる拷問の悲鳴が静かな高山の夜に長く続き、獄死者が続出した。
やがて、江戸から判決が送られてきた。磔四名・死罪獄門七名・打ち首二名・流罪十三名・追放十
四名、その他過料九千八十一名という未曾有の判決であった。
徹底的な敗北であった。山も川も、草も木も、飛弾の大地のすみずみまで、声をふるわして泣き叫ん
だ。そしてやがてそれが静まったとき、飛騨びとは貝のごとく口を閉じて長い喪にふくしたのである。
ただ、町方の年寄りは苗字帯刀を許され、他に苗字白銀を賜ったり、高山町組中にはそれぞれ白銀
が下されていたのである。又この時期にも豪商達は代官よりにつき、荒稼ぎをしていたのである。
幕府天領ゆえのことであったのであろうか。1771年から1791年の二十年間に及ぶ農民一揆。それで
飛騨びとがどんなに苦しんだことか、第二次大原騒動のとき、水無神社一万余の農民が蜂起したが
たった、三百人の郡上勢の鉄砲で蹴散らされた。そのとき、宮村作兵衛はこう叫んだ。「天下の百姓
に向かって銃砲をさしむけるとは何事か」、割木をかざして突進したが、たちどころに腹の真ん中をう
ちくだかれて仰向けに倒れた。
| 西暦 |
和暦 |
世相 |
山方・農民・町方 |
| 1765 |
明和二年 |
大原彦四郎着任。飛騨四万四千石。 |
|
| 1771 |
明和八年 |
明和騒動(第一次大原騒動) |
山方衆蜂起。四十七人の犠牲者。 |
| 1773 |
安永二年 |
安永騒動(第二次大原騒動) |
七月二十六日、検地反対の「駕籠訴」。農民蜂起 |
| 1774 |
安永三年 |
水無神社で一万余の農民蜂起。 |
たった三百の郡上勢の鉄砲で惨たる敗北 |
| 1775 |
安永四年 |
十三名死罪、未曾有の犠牲者。 |
流罪十三名・追放十四名・その他過料九千八十一人 |
| 1782 |
天明二年 |
天明大飢饉 |
|
| 1783 |
天明三年 |
天明大飢饉 |
|
| 1784 |
天明四年 |
天明大飢饉・高山大火 |
消失戸数・二千三百戸。三町残らず消失 |
| 1787 |
天明七年 |
天明騒動(第三次大原騒動) |
農民四名が越訴。四人以外お咎めなし。 |
| 1789 |
寛政一年 |
大原亀五郎(彦四郎・嫡男)流罪 |
|
| 1791 |
寛政三年 |
新郡代飯塚常乃丞着任 |
|