







紅蓮の炎に包まれて
「南部焼け」とその中をのたうって焼失する応龍台の姿を、わずかに残る史料を主として、組内伝
承をもとにして、わからないところは想像で補って、物語風につなぎあわせると次のようになる。
明治五年二月十三日。「火事だ」とふりしぼるような叫び声を表で聞いたのは夕七ツ半(午後五時)
向町の人々はすぐ表に飛び出したがまだ炎は見えず、ただ外は風が強く真っ黒な煙が低く町をは
っていた。激しく乱打される半鐘の音を聞いたのはその直後だった。火元は陣屋に近い上向町。く
れ木の板屋根に石を置いただけの低い家並みの続くこの界隈を、猛火がひとなめするのにそう時
間はかからなかった。
雪の泥道に倒れて泣き叫ぶ子供、胸をはだけ髪を乱して子供を助けてくれとすがりつく女、それは
まさに地獄の絵図であった。ものすごい音をたてて崩れかかる家、そして烈風にあおられた火は、
狭い道を低くものすごい勢いではっていった。上向町ではもはやこれ以上、家財道具を運び出すこ
とをあきらめねばならなかった。茫然自失、放心したように燃えるわが家を遠くから眺めているより
仕方がなかった。
それからどれだけの時がたったか-----ふと気づいてみると、炎と黒煙の立ちこめる中を押し分け
て、黒い巨大な物体が数人の男達に曳かれて進んできた。はじめはそれが何物なのか、誰にも分
からなかったが、赤い炎の中に浮かび上がった時、「あ----屋台だ----応龍台だ!」人々は思わ
ず叫んで目を見張った。実はこの瞬間までほとんどの者は屋台のことなど忘れていた。
この頃屋台を預けてあった押上邸は、すでに南側から火が回って炎が立ちのぼっている。その中
からこの人たちが応龍台を曳き出したのである。それが誰だったのかよく分からない。黒い水幕に
包まれた屋台を、紅蓮の炎が容赦なく襲う。それを板戸で防ぎながら必死で曳いていく人々。しか
し、巨大な悪魔のへらは、それをあざ笑うように黒幕をひとなめにしようとする。幕に手桶の水をぶ
っかける。またすぐ、燃え出す。それを板戸で叩き消す。また炎は燃え移る。次の瞬間、今度は黒
幕が一度に火を噴き、めらめらと炎になった。もはや消す手段はない。急いで幕を引き裂いて危う
く難を逃れた。
応龍台はついに裸になって火焔のなかを逃げ続けた。朱塗りの柱と漆黒の屋根が炎にキラキラと
光って美しい。屋台はぐらぐら大きく揺れながら、騒然たる巷を押し分けてなお進んだ。あの山王祭
の夜、沸き返る大群衆のなかを行く、応龍台のあの勇壮な面影はどこにもない。祭囃子に変わるも
のは、炎の中を逃げまどう地獄の絶叫であった。その地獄の巷を押し分けて、応龍台はようやく安
全圏にたどりついた。そこが筏橋であった。時刻はすでに六時をまわっていた。
この橋を渡れば対岸は片原町である。まだここまでは火が伸びていない。幸い応龍台は内輪のた
め狭い橋でも何とか渡れる。早く渡りたいとあせるが、なにしろ橋が狭いうえに逃げる人で間もなく
立往生となった。こうしているうちに、炎は強風にあおられてしだいに筏橋に迫ってきた。しかしいく
ら早く渡りきらねばと焦っても、橋の上は身動きもできない。向町の身内を救出に向かおうとする人
と、逆に向町から脱出しようとする人々とが、筏橋でもみ合っているなかへ応龍台が入って、せまい
橋は完全にマヒ状態となったのである。
組内古老たちの伝承を総合すると、そのうちに火は烈風にあおられて宮川の水面近くまではい始
め、橋げたに火がつき、橋は何時くずれるかわからない状態になった。もう危なくて橋の上にはお
られない。みんな荷物をおいて宮川に飛び込んで逃げてしまったのに、応龍台の人たちだけはあ
くまでそこを立ち去らず、幾人かが川原に降りて、水を汲み上げて屋台にぶっかけていた。おそら
くこの町内の火消し「馬頭組」の連中や向町の屋台キチたちだったであろう。
いずれにしても、橋の上の事態は切迫していた。宮川をはさんだ向町の対岸片原町は、屋根にも
家のなかにも空き地にもおびただしい野次馬が群がり、「危ない、早く逃げろ」「危ない、危ない、
早く」と声をかける。がそれも耳に入らないのか、彼らはまだ必死に水をぶっかけ、泣きながら板
戸で炎を防いでいた。彼らにとって、三町と向町をむすぶ筏橋がこの日ほど長く遠く感じられたこ
とはなかった。
山王祭で馬頭組の「あばれ屋台」とみんなに恐れられた応龍台にも、いよいよ最後のときが迫って
いた。応龍は怒り、狂い、そしてのたうち、吠え続ける---------。やがて徐々に橋は傾き始めた。
それは筏橋の橋げたが燃え尽きてめりめりと宮川にくずれおちたのと同時だった。わーと泣きくず
れる女たち-----。名工が丹精こめて造った「向町の夢、応龍」もついにこの炎のなかから羽ばた
くことはなかった。時に明治五年二月十三日午後七時。
応龍台後日談
あの日から約一世紀--------。
高山へ向かう車中で、偶然、隣り合わせた客から妙な話を聞いた。
檜山某(東京)。「戦後まもなく、飛弾の友人奥田某から誘いを受けて、はじめて高山へ行った時、
骨董屋に古い大幕をすすめられた。なんでも昔火事で焼けた山車に掛けていた幕だと聞きました。
案外安かったので買う積りだったが、友人が嫌な話を持ち出してとめるのでやめてしまいました。
今になってみると惜しいことをしたと思っています」
奥田某(高山)。「あれは応龍台の遺品です。私が止めたのは組内衆の執念のこもったああいうもの
は不吉だからです。下町のある屋台の人形なんかも、保管者の家族が得体のしれない病気で死ぬ
ので、今では近所のお寺に預けているくらいです。旦那衆が破産して競売の時は、必ずそういうもの
が一つや二つ出ますね。この間もNさんの競売に出ました。大きな箱に「三番叟」と書いてあるので、
さっそく箱を開けたら、三番叟台の彫物がそっくり出てきてびっくりしました。ああいうものは個人で持
つものではありません。不吉なんですね、家に置いておくとその家は栄えない。応龍台の悲運と無念
さの‘憑き物’が残らんはずがありませんよ。
骨董や甲さん。「あれは向町応龍台の猩々緋幕に間違いありません。大火の時によそに預けてあっ
て、幸い焼け残ったものです。これが百年もたってY家の競売にでたがすぐ売れず、オリと乙二人が
Y家から預かったのです。それを乙が勝手に売ってしまったが、どこでもなかなか売れず、まわりまわ
って再びオリのところに戻ってきたのです。こういう組内のものはなかなか面倒なもので貧乏人が持
っていると盗んだと言われるし、旦那衆が持っていると金貸しの質草にとったものでも、預かりものだ
から返せと言われる。組内のものは面倒なものです。いろいろあって、高山の骨董市に出してしまい
した。そしたら下町の布袋台組がすぐとびついた。あの時は三、四人見に来ましたよ。
布袋台組内某。「屋台会館が出来て屋台をあそこへ飾るようになり、布類の消耗がひどく、代幕が欲
しいと思っていた矢先だったので、すぐ組内で相談して、四人で甲の家へ幕を見に行きました。寸法
を計ったら、胴回りを5センチ切っただけでそのまま使用できるので、これは拾い物でした。応龍台と
いう屋台は三輪の小型と聞いていましたが、これでみるとだいぶ大型だったことがわかります。少し、
古ぼけているが、生地は絶品、安い買い物でした。
こうして、猩々の血で染めたという応龍台の謎の猩々緋幕は、いまは布袋台の代用幕になって、静
かに屋台会館に飾られている。
高山祭には現在屋台を持たない組が、山王氏子・八幡氏子それぞれ四組ある。山王氏子では上
一之町中組の黄鶴(こうかく)台、上二之町中組の南車(なんしゃ)台、向町組(現本町二丁目)の
応龍(おうりゅう)台、西町組の陵王(りょうおう)台。八幡氏子では、一之新町組の浦島(うらしま)台
上一之町中組の文政(ぶんせい)台、寺内町の牛若(うしわか)台、下二之町中組の船鉾(ふなほ
こ)台などがそれである。
今は名前だけ残っているこれらの幻の屋台は、あるものは火災で焼失し、あるものは荒廃して野
たれ死にするようにして消滅した。又、明治維新や太平洋戦争直後のような価値観の激しく流動
する中で、売られそうになったもの、本当に古川町などに売り飛ばされたものもある。長い伝統の
高山祭といっても、屋台組の消長はかくのごとく人の世の浮沈にも似て、屋台はそれぞれ数奇な
運命をたどった。向町の応龍台もその中のひとつである。
「高山の屋台」によると、「応龍台は明治五年旧二月十三日、組内南部屋庄兵衛より出火の際、
筏橋(いかだばし)見付にあった倉庫より曳き出し避難せんとして、橋上にて猛火に包まれて焼
尽した」と記されている。この火事は「南部焼け」といわれたもので七百数十戸が全焼した。この
時、向町の人々の中に、自分の家が焼けているのに応龍台のことが心配で、猛火の中を屋台蔵
から曳き出した人々がいた。しかし、当時を語れる人はもはや一人も生きていない。父や祖父か
らきいたという古老たちの話をわずかなたよりに、幻の屋台「応龍台」を追ってみた。
応龍台を作った向町とはどんな人たちの住んでいた町か、大火の前年つまり明治四年の「高山
町一位細工彫物渡世者調」によると一位細工渡世者は次の通り六名を数える。松田亮長(下向
町1250番)・今村面平・襲名(浦町828番)・山崎勘右衛門(上向町510番)・山田甚吉(上向町60
7番)・桐生忠次郎(向町531番)・中村斎二(国分寺町25番)。これで見ると当時高山の彫物師た
ちが沢山向町界隈に住んでいたことがわかる。またここに出てくる浦町や国分寺町も向町の続き
で「南部焼け」では一緒に焼けた町である。
「斐太後風土記」には、この界隈の産物に、白木類・曲物・枇板・小間物・糸・紬・真綿・椀木地・
一位細工・灰吹銀・傘・紙類・木履下駄・春慶塗など四十二品目があがっている。このように向
町の住民は「附木うすき世渡りに朝夕のけぶり細々と」(紙魚のやどり)暮らしていたようである。
三町衆のようないわゆるお上品といったものとは縁遠かったが、それでも働く人たちが必死に生
きる生活の息吹をどこよりも感じ取れる町であった。
しかしながら、実はこの向町にこそ飛騨高山の伝統を継ぐ人々が貧しくも誇り高く生きていたので
ある。そしてその貧しさは女子供の出稼ぎで補われていたことが「高山町年寄日記」や「旅稼ぎ
書上帳」などに見ることが出来るのである。
旧三町に対して川向こうの町というのが向町の由来である。宮川にはその後幾つかの橋ができ、
川東と川西の往来は一年増しに繁くなった。その橋の一つに筏橋というのがある。向町と三町を結
ぶ橋の一つで、別名「味噌買い橋」とも言われ、親しまれてきた。向町の人たちがこの橋を渡って上
二之町の森七(大坂屋森七兵衛)に味噌買いに通った橋だという。
ところで、その応龍台のことであるが、貧しい向町がどのようにして作ったか。余ほどの無理算段
したことが想像される。費用は誰が出したか?火事で記録が焼けてしまってわからないが、「向町
にはそんな有力な旦那は一人もいなかった。組頭の押上六兵衛だって郷宿をしている有力者とい
っても金を出す力なんて無かった」という。だとすれば味噌買い橋を毎日渡らなくてはならない人々
が、いったいどう工面して屋台を作ったのか。
「紙魚のやどり」によると、文化六年(1809)旧七月二日夜、向町の組頭押上六兵衛の家前に捨て
文があり、それには「町会所万雑(まんぞう)、連々過分に相成り、下々難儀(中略)七月万雑暫く
取立て延引致し候様にと申し渡されたく、盆前に取立てこれ無き様、しかるところ・・・云々」とあった。
「毎年過分の万雑にやりきれない、どうか盆前の取立てだけはやめて欲しい」というものである。三
町のような有力旦那を持たない向町では、そういう大衆割り当てによるしか方法がなかったであろ
う。勿論これは税金ではないが、それにも劣らぬ強制力を持っていた。それを捨て文としてしか表現
できなかったところに、当時の向町の悲しさがあった。
そのような貧しい町であった向町が、どのようにして三町にひけをとらない屋台を作ったのか。応龍
台組の古老は言う。「いくら貧しくとも職人町・向町の人たちには、三町の屋台はオリたち職人がつく
ったのだというプライドがありますからね。ただ、余ほど無理して作ったのではないですか。おそらく
工賃なんか払っていないかもしれませんよ。
では、その応龍台とはどのようにして作られたのか。地元向町・上向町などに在住した名工谷口与
鹿、一刀彫の創始者松田亮長、それに橋本和作、今村面平など、高山の建築史上の一流職人がそ
れぞれ分担し、天駆ける応龍台を完成したのである。それはおそらく向町の住民達の長い夢であり、
三町衆に対する彼らの精いっぱいの意地だったにちがいない。
ではその応龍台はどんなものであったか。明治五年に焼けたのだからもう実物を見た人は生きてい
ない。写真もなくその幻は幾人かの古老の証言で追ってみるよりしかたがない。
神田町の古老の話。「応龍台に乗ったという人たちは、私の子供の頃に幾人か生きていましたから、
話はよく聞きました。なんでもあの屋台の台輪はがっしりした欅の磨き出し、下の段には中国風の瓦
模様があり、屋根は二重の切破風という珍しいもので、その両端の上には千木の変わりに龍の彫物
が乗っており、その龍が背に羽のある『応龍』というものだったそうです。それに猩々緋の幔幕と囃子
が古老たちの自慢でした。その囃子はちょっと龍神台の囃子「陵王崩し」に似たところのあるいい曲
で、屋台が近づいてくるとみんな耳をすまして聞きほれたそうです」
組内の古老の話。「応龍台は今の八幡祭の鳩峯車によく似た三輪で、祭になるとわざとよその屋台に
ぶつけておいて、さっさと向きを変えて逃げてしまう。それにこの組は火消し「馬頭組」の本拠でしたの
で、昔から高山一番の気の荒い組で、祭ともなれば手がつけられなかった」
上岡本町の古老の話。「同じ三輪の屋台といっても、鳩峯は車外輪の三輪なのに応龍台は内輪の
三輪で、車輪幅がせまいため、ひっくり返ってしまったことが何度かあったという」
この絵で見ると、応龍台はがっしりした台輪の上に、
伊達柱と中段の大幕の調和のとれた見事な屋台であ
る。それにこの屋台の圧巻はなんといっても屋根に
羽ばたく精悍な応龍の姿である。
【山桜神社蔵】
組内の山桜神社に献納された絵が唯一残っている。
作者は富田令禾。彼が大正十一年美術学校を卒業し
たばかりの頃、父富田礼彦(斐太後風土記の著者)と
押上森蔵の依頼によって、両氏が少年時代に親しん
だ応龍台の記憶を元に、その場で筆にし、絹本の軸
に仕立てた貴重なものである。