その後もあいかわらず、高山の町は宮川の東岸に限られていたのです。代官所への御用で訪れ
る人向けの旅籠程度しか西岸には出来なかったのです。江戸末期谷口与鹿も住んだ、職人が多
く住む向町が出来た程度のものでした。
戦国大名、金森長近が天正年間(1572〜1586)、宮川の清流を京の鴨川になぞらえてつくった、
小京都高山、始めは宮川の東、江名子川以南のごく狭い三町に限られていました。その後、宝
永年間になると宮川の西に「向かい屋敷」と呼ぶ城主金森の別宅を造りました。この時初めて、
宮川を越えたのです。これが後に天領となってからは、ここが代官所(高山陣屋)となったのです。
しかも、今でこそ上・下さんまちと川西を結ぶ橋は十程ありますが、明治初期に大坂屋九兵衛が
寄進して、筏橋が造成されるまで、江戸の昔から宮川を越える橋は中橋しかなかったのです。
この物語を読まれるにあたって、高山といわれている町が赤線・緑線で囲われている町、即ち明
治期までの高山の町図だけがいわゆる高山であるということを認識いただかねばなりません。即
ち山王側が七町、八幡側が九町、たったこれだけの街並だったのです。(詳しくは:屋台組町内図
をご覧下さい)明治四年の高山の持高表(税金台帳)によると高山の総戸数は二千九百三十二戸
だったのです。
昭和9年JR高山線が開通するまで、修学旅行のときは1日目は萩原泊(益田郡萩原町)、2日目は
金山泊(同郡金山町)、3日目にやっと汽車の通っている岐阜駅へ。帰りは北陸回りで、富山から
また、3日も歩いて高山へ帰りました。二週間という大旅行のうち、その半分は汽車の駅から高山
まで歩く時間でござったのです。
そうなんです。昔の、というより昭和初期までの高山の町は、この祭地域しか町並みがなかった
のです。この地域以外は田んぼやのっぱらだったのです。今でこそ41号線からこの地域までギッ
シリ街並が並んでいますが、つい先だってまではこの町以外は田んぼとのっぱらだったのです。
高山祭を訪れた旅人は、胸をときめかせ祭会場へむかいます。JR高山駅から、バスターミナル
から。街の繁華街を抜け祭り会場へ。えっ!なんで?街の繁華街でなくこんな辺鄙なところへ?
何回訪れても同じ思いなのです。
山王祭:緑線で囲われた地域
八幡祭:赤線で囲われた地域

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