不明
史実高山祭 祭の起源 民衆哀歌 飛騨の匠 暴れ神馬
高山の地勢・自然 屋台出現 旦那衆の勃興と崩壊 屋台蔵の技 応龍台消失
高山の町 旦那屋台 屋台王国 近世屋台組事情 大名貸し末裔
年譜 高山の祭 八幡・山王 飛騨の神々 屋台組町内図
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高山の神社・仏閣
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八幡
屋台名 屋台組 特徴 旦那屋台
神楽台 八幡町・桜町 旧藩主金森の弟寄進の大太鼓を乗せ先頭を行く祭礼指揮車
豊明台 大新町1丁目 絢爛豪華な旦那屋台の雄。天保六年、三百両もの大金で完成 谷屋九兵衛
鳳凰台 大新町
1・2・3丁目
嘉永改修で与鹿の「谷越獅子」と金彫三万坪を施した豪華な旦那屋台 山下佐助
布袋台 下一之町上組 ブランコカラクリ。明治百年祭全国カラクリコンクールで一位
金鳳台 下一之町中組 古い屋台の一つ。神宮皇后・武内宿禰の人形あり。初期の風格を持つ
大八台 下一之町下組 唯一の大型二輪車で有名。祭囃子の名曲「大八崩し」発祥の屋台
鳩峰車 下二之町上組 最古の屋台の一つ。明代の古渡りの幕と御所車風の優雅な旦那屋台 谷屋平兵衛他
神馬台 下二之町下組 暴れ神馬の異名。錦織の般若面と「越天楽崩し」の囃子が有名 桐山屋勘右衛門
仙人台 下三之町上組 唐破風の古い形式を守る唯一の屋台。かってはあやつり人形が人気
行神台 下三之町中組 昔は馬捨場だったという下三之町に住みついた役行者を讃える
宝珠台 下三之町下組 別名亀屋台ともいい名工の作った亀を屋根にのせ、古い形式を残す
船鉾台 下二之町中組 火災のため焼失、その後廃台
文政台 下一之町中組 火災のため焼失、その後廃台
浦島台 一之新町 火災のため焼失、その後廃台
牛若台 寺内町 火災のため焼失、その後廃台

屋台

屋台特徴

山王
屋台名 屋台組 特徴 旦那屋台
神楽台 上一之町上組 巨大な太鼓を乗せた独特の屋台。いつも先頭を行く祭礼指揮車
三番叟 上一之町中組 神楽台に続く上一之町の特権組の屋台。カラクリ三番叟が有名 平瀬市兵衛
麒麟台 上一之町下組 最も派手な屋台。名工与鹿の彫物「籠伏の鶏」が自慢の傑作 老田屋敬吉
石橋台 上二之町上組 独特な屋根と伊達柱が王朝の雅を漂わせる。カラクリ復活。
旧台を古川へ売却
五台山 上二之町中組 名工諏訪和四郎の彫刻「飛獅子」と雲龍昇天図が有名 大坂屋佐兵衛
鳳凰台 上二之町下組 麒麟台と対照的に地味だが豪華な屋台。見えない所に金をかける 内保屋忠次郎他
恵比須台 上三之町上組 与鹿の彫刻二点と純金メッキの金具と長崎へ買いに行った
大幕が有名。純金メッキは金彫二万三千坪(一坪は一寸四方)
を施し、総工費千二百両といわれる
滑川屋長五郎
龍神台 上三之町下組 カラクリ「竹生島」が有名。昭和43年村山群鳳が下段に龍神を完成
崑崗台 片原町 鍛冶屋の暴れ屋台。笛の名手が伝統。
緋幕はかかあの褌と悪口もある
琴高台 本町一丁目 名工与鹿はこの組で育ち「波と兎」を残す。大幕の金鯉が豪華
大国台 上川原町 大国像を米俵上に安置。その屋台順でその年の米価を占う
青龍台 川原町 山王様お膝元の屋台。旧藩主金森公の紋所を自慢
黄鶴台 上一之町中組 火災のため焼失、その後廃台
南車台 上二之町中組 火災のため焼失、その後廃台 大坂屋七左衛門
応龍台 向町組
(現本町二丁目)
火災のため焼失、その後廃台
陵王台 西町組 火災のため焼失、その後廃台
この頃の屋台は江戸の山車が原型であった。しかし、この3年後の享保六年(1721)に元の江戸
では吉宗の華美禁止令で江戸の山車は姿を消している。しかもそれまでの江戸の屋台は、「三
十五両を限度とする」きわものであり、従って享保三年の秋祭に江戸の屋台が高山に現れても
高山の人は驚きもしなかったであろう。

屋台出現

ライン
史実高山祭 祭の起源 民衆哀歌 飛騨の匠 暴れ神馬
高山の地勢・自然 屋台出現 旦那衆の勃興と崩壊 屋台蔵の技 応龍台消失
高山の町 旦那屋台 屋台王国 近世屋台組事情 大名貸し末裔
年譜 高山の祭 八幡・山王 飛騨の神々 屋台組町内図

屋台信仰

江戸風から京風

旦那衆に搾取され、その旦那衆が造った屋台、あれほど苦しめられた屋台。祭の長い歴史の
うちに飛騨の民衆は屋台への愛着、とうよりも信仰にちかいものをいだくようになっていく。そう、
農民懐柔とか様々な製作者の意図を離れ、命を吹き込まれた屋台が一人歩きをしていくので
ある。彼らにとって屋台とは祭神を超える神となっていくのである。その歴史の中には、屋台の
存在ゆえに苦しみ、また屋台の存在ゆえに癒されてきた長い長いふれあいがあったのである。

屋台発生

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ところが、大原騒動の頃に、山王氏子の旦那衆の中に意欲的に屋台を作る者が現れ、この頃
を境に、にわかに高山の屋台は江戸風の「きわもの」から、京風の優雅な趣向へと変わり始め
たのである。何故なら、高山の人々はかって飛騨匠が都から京文化を持ち帰って以来、一般
に京の都に向いていた。特に旦那衆の贅沢はすべてが京の文物でなくてはならなかった。
屋台が高山に現れたのは宝永五年(1708)神楽台(八幡)である。その8年後の享保元年(1716)頃
行神台(八幡)、享保三年(1718)神馬台が創建されている。又、享保三年の八幡祭例祭には金鳳
台の曳行記録も残されている。さらにこの年には八幡祭例祭に江戸風山車が出されたという。
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瓔珞(垂れ飾り)・伊達柱・御簾・御所車・カラクリ人形にいたるまで京風となった。これには長い
取引先でもある近江長浜の屋台や京の祇園祭の影響も受けて重厚華麗・絢爛豪華なものとな
り江戸のガラクタ屋台とは似ても似つかぬものに変わっていったのである。
八幡氏子の長老は「なにしろあの時代は郡代も豪商たちもみんな百姓一揆に頭を悩ましていま
したからね」と話す。「祭を奨励し貧寒の痩土の地にあって、明日に望み無き民心を春秋の祭に
目をむけさせることによって、民心安定の策とした」のであろう。もはや民衆の力を無視して天領
政治も旦那衆の資産を維持することも不可能だということを郡代も豪商たちも気づいてきたので
ある。

何故旦那衆が屋台作りに力をいれたのか

屋台については八幡祭の方が先行している。宝永五年の神楽台が現れたおよそ43年後の石
橋台(山王)が記録としては初めてである。その12年後に、三番叟(山王)が作られ、山王側とし
ては屋台作成については八幡に比べおよそ50年の遅れがあったようである。これが大原彦四
郎が着任し、農民一揆が勃発していく直前のことである。