駆け出し
俺が二十歳のときだった。友人の神尾が出張ホスト詐欺に引っかかり200万を騙し取られた。知り合いのダイヤルQ2のサクラをやっていた女が登録していた会社から契約違反で1000万の賠償金の請求を受けた。俺は先ずその二社の経営者などの自宅や会社の場所をあらゆる手段を使って調べ上げ後輩達を連れてサバイバルナイフを持って乗り込むなどヤクザごっこから本職のヤクザの方と知り合うようになっていった。ただのヤクザごっこだったがそれなりの謝礼金はきちんと戴き、いい事をして大金が入るなんて我ながらカッコイイと当時は本気で自分に酔いしれていた。そうこうしているうちに、俺の地元の小さな街が関西の大手暴力団が狙っているという情報を知り合いの刑事やその組織に取り入ろうとしている奴から聞きフィリピンパブを装ってその中に事務所を構えている実態を知ってしまい俺はすぐに地元の先輩にその話しを伝えると今からうちの事務所に顔を出してゆっくりその話しを聞かせてくれやと言われ初めてヤクザの事務所に行く事となった。
組事務所
二十歳の俺はその日がくるまでヤクザの事務所なんてレンタルビデオでしか見た事が無く、どんな所なんだろうと内心ドキドキしながら先輩に教えてもらった場所に向かった。コンビニを曲がって突き当たりを右に曲がって…歩いているといかにも怖そうなお兄さんが思いっきりこっちを見ながら歩いてきて俺も負けじと睨み返して歩く事30メートル。前方を見ると普通の一軒家の玄関にいかにもそれらしき大きな木の看板がかかげてある…近づいていくとインターホンを鳴らしたわけでもないのに先輩が顔を出し「オイ、哀川、久し振りだなあここだここ早く入れ。」不思議に思いながら事務所に入って中を見渡すとなるほど事務所に近づく50メートル手前の道路の全ての映像が監視カメラでチェックされていた。部屋に案内されソファーに座って話していると電話が鳴るたびに若衆が「×××本部っ!御苦労様です!」と怒鳴るように応対しているのを見て映画で見るのと同じだなと思った。
出会い
先輩が事務所にかかってきた電話の主と何やら俺の事を話している。しばらくすると先輩が「哀川、さっきここに来るまでに目がギョロッとした背の高い人とすれ違わなかったか?その人うちの若頭なんだけどよぉその人が今さっき威勢のいい若い奴が俺の事睨みながら事務所の方に歩いていったって言ってるけどお前の事だろう?」と笑いながら言ってきた。返事に困った俺は笑いながらごまかした。その時から二週間後、先輩は行方不明になり何かと俺がその先輩の代わりに縄内のミカジメ料の徴収やら事務所当番をなぜかするはめになりそのうちに若頭という人に自宅に呼ばれ今度から縄内の事は全てお前に任せるから縄内で何か商売を始めるも良しシノギも自由にやってくれ。お前は俺の若いときにそっくりだから俺は自分の本当の子供のようにお前を見守ってやる。などと言われ、正直自分の本当の両親は離婚してお互い再婚して俺と縁を切ったというのに、そんな俺をこの人は拾ってくれたと感激した。その組の親分にまで自宅に呼ばれ「哀川、お前は組長の為ではなく若頭のために働いてくれ。」とまで言われた。肝心なシノギの方も順調で他の若衆のようにやたらと拘束される事も無く部屋住みのような事もせず愛車のポルシェ911を乗り回し毎晩キャバクラやクラブで飲み歩き恵まれた毎日を送った。
シノギ
俺が渡世の道に知らないうちに入ってしまった頃、時代はバブルがはじけ暴対法が施行されまさにヤクザにとって氷河期が来たような感じだった。正月を迎えるにあたって、お飾りを売る事すら取り締まられて苦肉の策で考えたのが2トン車の幌をはずして骨組みだけにしてその骨組みにお飾りをくくりつけていつでも警察がきたら移動できるようにして売ったりしてなんとか親分に良い報告が出来、無事新年を迎えたこともあった。俺のシノギは借金の取り立て、企業の恐喝、関東最大の麻薬組織とのつながりから会社経営者、芸能界関係者など、わりと世間的に知名度の高く口が堅そうな人間へのまとまった量の麻薬の密売。元オウム真理教が製造したらしき麻薬の密売。中国マフィアとの盗難カードの売買、偽造パスポート売買。車のブローカーetcで昼間は普通にわりと地味なスーツを着て都心の貸しビルに金融業の一社員として出社。ブランド物の衣類、貴金属、食費、キャバクラ代、全て経費で落とし足代わりにSクラスのベンツ2台アストロ1台高級国産車数台を与えられ兄貴や姐さんの運転以外は自分の舎弟が運転手として常時俺にはりつき全然たいした事は無いが年収1000万程度が俺の自由に使える金額だったので、同世代の渡世人と比べれば恵まれていた環境だったと思う。
初めての御厄介
正式に言うと、俺がはじめてパクられたのは小学校6年生の時で恥ずかしい話、万引きだ。渡世に入ってからはちょうど1年くらい経った頃、近所の暴走族に知り合いがからまれて車を1台潰されて、その仕返しに行って餓鬼1人さらって事務所に監禁してその暴走族のケツもちの某右翼団体ともめた時、傷害監禁暴行の罪で東京拘置所で執行猶予の判決をもらった。拘置所では雑居房で少ない時で6人多い時で8人くらいの団体生活を経験した。なかなか楽しい人ばかりそろっていた部屋で良かったが、夏場だったので就寝中、寝床の周りをゴキブリが沢山うろついていたのには参った。食事は初めての麦シャリ(白米7麦3)だったがすぐに慣れおかずの味も普通で朝みんなで作って食べる塩辛御飯はいけていたと思う。メニューの中で好物のうなぎが出たがとても泥臭くまずかったのが印象的だった。
懲役
なんやかんやと不良の道を歩んでいればやはり懲役はつき物でして、俺も2回目の逮捕劇までは執行猶予をもらって拘置所までで助かったものの、3回目で初めての刑務所暮らしをする事になった。有印私文書偽造で2年の実刑判決を受け東京拘置所からなぜか初犯刑務所ではなく再犯刑務所の寒冷地A刑務所に新幹線で他の囚人3人と共にロープでつながれたまま真冬に移送された。新幹線の中でトイレに行きたくなると、ロープでつながれたまま他の3人合わせ4人でツレしょんという形になり稲川会、松葉会の人等と俺達情けねえなあこの格好などと言いながらなぜかお菓子を食べながらの道中だった。刑務所での暮らしは、やはり拘置所なんかとは大違いで同じ雑居房での団体生活だったが、様々な組織の組長クラスから窃盗犯までみんな同じ部屋での生活だった。刑務所が再犯専用なだけに前科11犯なんていうつわものまでいた。部屋の掃除をするにしても、同房の人の視線が厳しく「オイっ!哀川、お前四角いテーブル四角く拭くのが常識だろう」などなど様々な事で教育していただきました。チンピラ時代にろくに修行もしていなかった俺にとってはとても辛い毎日でしたがそんな厳しさの中にも優しさありである組長さんも大変厳しい方でしたが視力が0.1しかなくメガネを持っていなかった俺に俺が出所するまで刑務官に内緒でテレビや映画を見る機会のあるたびに毎回メガネを貸してくださったりし、本当に助かりました。また、他所の組織の人間と喧嘩になったときも東西問わず組織の方々が仲裁に入ってくださり助かりました。A刑務所は各舎房にスチームがあり冬もそう寒くは無く夏は1週間ほどで暑さも和らぎ割と過ごしやすい環境でした。食生活は量は少なく汁物で腹を満たすような感じでした。祝祭日には必ずお菓子などの甘シャリがでて大晦日から正月にかけては食べきれないくらいの食事やお菓子類がでてびっくりしました。また、年に1度運動会もありその時にもお菓子や果物などがたくさん出て、あとは3級集会2級集会といった映画を見る時にジュースと菓子がでたりと、まぁ懲役の楽しみといったらその日の食事と甘シャリくらいでした。毎日の作業なんかは完全土日週休2日制で祭日も当然休みで他所の刑務所に比べて行進もうるさくなく腕や足をそうバカみたいに振り上げる必要も無く問題になったN刑務所と比べたら天国のようなところで、こんな未熟な俺でも満期出所でしたが無事2年間の懲役を務める事が出来ました。俺を裏切ったバカな1人の女のせいで領置金が無くメガネも無く本や雑誌なども買えずどうなることかと不安でしたが様々な組織の方々に助けていただき大変感謝しております。この場を借りてお礼申し上げます。住吉会O組長、Sさん、Tさん、山口組S組長、Mさん、Kさん、稲川会Mさん、極東会Mさん、松葉会Nさん(順不同)他、皆様ありがとうございました。
脱会
まぁ、根性の無い俺にはむいてなかったのだろう。同じ組織の人間の口添えもあって他の組織には絶対に属さないという条件で、まぁここだけの話、やめるときはとりあえず渋谷の女を使って色々と工作し、初めはとりあえず組織から逃げ、後から話しをして無事指を詰めるわけでもなく金を払うわけでもなく渡世の道から足を洗う事が出来た。その後、哀川力は埼玉や再び東京都心部に潜伏し自営業などを始めるが失敗、現在は東海エリアにて素性を明かすことなくただただ平凡な毎日を送っている。が、近年、俺が勤めている会社に誰も知らないはずなのに、この哀川宛に電話が来て「あなたはこんな日本の中でそんな仕事をしているより世界で活躍するべき人材だと私達のボスが言っている…。」とわけのわからない事を相談されたがお断りした。俺は今の悪政がより悪政になり平和ボケしているこの国民が一致団結して国に対して何かを起こす日までこのパワーはとっておこう、そしてそんな日が来ることなくこうやって呑気にホームページを作成して楽しんでいける日々が続くことを願います。