桜によせて

3月になると、桜の開花が待ち遠しくなる。今年の冬は例年にない暖かさであった。桜の開花も早まるであろう。

日本人がもっとも好きな花はもちろん桜であろう。世の中に暗いことが多くても、なんとなく、桜前線が近づいてくると、自然に心がうきうきしてくる。実際は、桜が咲くのは虫をよんで、交配を手伝ってもらうためで、人を誘うことは本来の目的ではないのだが、虫を誘う魅力が人にも通じるのが不思議である。人は桜が咲き始めると魔法をかけられたように桜の下に集まり、そこは酒盛りの場になる。その風景は、昔も今も変わらない。「花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の科(とが)にはありける(山家集)」(西行)。花より団子と、桜にはいささか失礼な言葉もあるが、春宵一刻値千金、人々は飲み食い、華麗で繊細な花の下で一時を存分に楽しんでいる。落語「長屋の花見」では貧乏な長屋の住人も、酒のつもりで薄めた番茶をのみ、卵焼きのつもりで沢庵を食べながら、花見気分に浸っている。今、飽食の時代は、酒や弁当は上等だが、花に浮かれる気分は昔と同じであろう。わずか一種の植物に大多数の国民が引きよせられる例は、外国にはおそらくないであろう。

人を誘うことは、桜が花を咲かせる本来の目的ではないのだが、自然界で保護してもらうという目的があるかのごとく見える。生物は皆、環境からの刺激を受けて、なんらかの反応を示す。人の場合反応は複雑である。刺激によって神経が興奮するとかホルモンバランスが変わるとか、生体に関係することは当然であるが、喜び、悲しみ、怒り、感動などとなって感情的に表現されることもある。さらに進んだ形では、文学、絵画、音楽などの形で表されることもある。桜という環境からの刺激に詩人、作家、アーチスト達はどのように反応したのであろうか。彼らが発した桜に対する様々な表現の中に、花が桜のリプロダクティブオーガンであるという事実を越えて、桜の遺伝子の日本人の心の中での多様な発現を見つけることができるであろう。有原業平の著名な歌「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(古今和歌集)」。

「花の雲 鐘は上野か浅草か」はちょっと芭蕉らしくない句のように感じているが、桜が咲くころは、いつもこの句を思い出す。この句は深川の草庵で詠んだものといわれている。深川は上野からも浅草からもかなり離れているから、花の雲を通ってくる鐘の音も寛永寺からか、浅草寺からか識別できない。花に浮かれている人達の喧騒もここまでは聞こえない。しかし、芭蕉の草庵も春に包まれている。「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春(其角)」別に桜は入っていないが、桜満開の江戸の春を想起させる。

「季語」は広辞苑によると、「連歌・連句・俳句で、句の季節を示すためによみこむように特に定められた語」とある。種々の植物も季語としてよく使われる。しかし季語として、あまりぴんとこない例もあるようだ。本田正次氏は、著書(「植物学のおもしろさ」朝日選書366 1988年 朝日新聞社)の中で、季語としてちょっとおかしいと思われる例をあげている。たとえば、筍は夏の季題で、春の季題とするには、「春の筍」という。また朝顔は、暑い夏の朝早く眺める感じであるが、季語としては秋。シュンラン、クマガイソウ、アツモリソウ、ネジバナなど野生ランは春咲くものがおおく、洋ランでも秋咲くとはかぎらないのに、ランは季語としては秋になっている。その他いくつかの植物名を季語とする場合の矛盾を指摘している。このようなものでなくても、季節を示すには力不足の植物が多いように思われる。その点で、桜は存在感あふれる春の季語である。「句の季節を示す」というより、季節にアイデンティティーを与える、というのがふさわしいように思える。「花の雲」はまさにそれを感じさせる句である。

ところで、桜の一体何が人を誘惑して止まぬ魅力を発するのであろうか。木が大きいこと、大きく広げた枝一杯に花がびっしりと、一斉に咲くこと、一つ一つの花が心地よい大きさとかたちであること、はかなげな薄い花びらと淡く控えめな色、散り際のよく、そこにはかなさを感じさせること等々であろうか。細かいことをいえば、太く、ひだの目立つ黒いがっしりした幹が花と調和している様も見事である。とくに山桜はそういう風貌を備えた木が多い。私は八重桜も好きであるが、桜といえば、やはり一重の桜の方に魅力を感じる人が多いであろう。徒然草第百三十九段には「花はひとえなるよし。八重桜は奈良の都のみありけるを、この頃ぞ、世に多くなり侍るなり。吉野の桜、左近の桜、皆ひとえにてこそあれ。八重桜はことようの物なり。いとこちたくねじけたり。植えずともありなむ。遅ざくら、またすさまじ。虫のつきたるもむつかし。」と、八重桜にはいささか気の毒ではある。

桜の花は両性なのだが、人のこころに投影された桜はやはり大多数女性のようである。大伴家持「見渡せば向つ峰の上(むかつおのへ)の花にほひ照りて立てるは愛しき誰が妻(はしきたがつま)(万葉集)」。桜の下に女性が立てば美人に見えるのかもしれなる。西行「願わくは花のしたにて春しなむそのきさらぎの望月の頃(山家集)」。これは単に春という季節に没入しての歌と思っていたけれども、白州正子氏の「西行」(新潮文庫版 1996)によると、西行があまりにも身分の高すぎる女性への思慕を断つためであったことを「源平盛衰記」が伝えており(西行物語では別説である)、この女性は鳥羽天皇の中宮、待賢門院璋子であったとしており、女院の死後、吉野山にこもって花に没入していた西行には、待賢門院の姿が桜に同化され、恋の苦しみから開放されて、愛の幸福を歌ったものの一つであるとしている。桜を女人と同化させた歌は古今和歌集に多い。

桜の花は歌舞伎にも花を添える。歌舞伎では正月興行から早くも花の季節を演出する。題名に桜の入っているものの一つ「天衣紛上野初花」があるが、上野、浅草界隈を背景に河内山宗俊、片岡直次郎の悪党ぶりが繰り広げられる。 私の好きな芝居である。花のある舞台は非常に多い。服部幸雄氏の「歌舞伎のキーワード」(岩波新書 1989)から引用すると、花を背景とする場として「義経千本桜」の吉野山の道行、「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の吉野川の場、「京鹿子娘道成寺」、「戻駕」、「保名」、加賀見山再岩藤(かがみやまごにちのいわふじ)」の花山の場、「金門五山桐(さんもんごさんのきり)」、夜桜では舞踊「三人形(みつにんぎょう)」、「鞘当」、「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」、花見の場として「新薄雪物語」の序幕清水寺の場、鏡山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」の序幕初瀬寺の場、「桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)」の序幕新清水の場、「青砥稿花紅彩色(あおとぞうしはなのにしきえ)」の序幕新清水の場などが著名である。やはり歌舞伎は日本固有の演劇であるから、桜は歌舞伎に最大限の影響を与えているのは当然である。桜が現われる舞台で私にとって特に印象的なのは、舞踊劇「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」である。舞台は雪の降る逢阪山の関で、妙なことに巨大な桜の木に花が咲いている、前半は良岑宗貞(のちの僧正遍照)と小野小町が恋語り、後半は、大伴黒主と桜の精墨染との派手なやりとり。関兵衛と名乗って正体を隠し天下を取ろうとする大悪人、大伴黒主が宿願を果たすため、護摩木として焚くために大斧で桜の大木を切り倒そうとするところに、遊女の姿をした墨染桜の精が現われ、黒主の正体をあばく。黒主と桜の精との大立回りになる。荒唐無稽な話ではあるが、舞台は、幻想的で、華麗であり、また迫力がある。桜でなければ、このような作品にはならない。この作品の中では、大伴黒主は宗貞の弟、安貞を殺し、また天下取りをねらう悪人ということになっているが、史実ではもちろんそんなはずはない。れっきとした六歌仙の一人である。黒主の桜のうた「春雨のふるは涙か桜花ちるををしまぬ人しなければ」(古今和歌集)。

桜が人の心に及ぼすもう一つの作用は、散る花をして人を悲しませることのようである。万葉集には桜を詠んだ歌はまだかならずしも多くないようであるが、柿本人麻呂はすでに桜の花が散ることを人の別離になぞらえている。「桜花先かも散ると見るまでに誰かもここに見えて散り行く」。古今和歌集になると、桜を詠んだ歌が多くなるが、中でも散るはかなさを表したものが多い。散る桜をみて、別離を感じるこころはいろいろなジャンルに表れていて、枚挙にいとまがなく、近代から現代にいたるまで、変わらないようである。桜がはなやかであるだけに、別離にも美しさがある。

ここで、桜自身に立ち返って考えてみる。花は2週間ほどの短い時間に虫を呼んで花粉を雌しべの柱頭に運んでもらう。花粉は花柱の中に花粉管をのばし、その先端が胚珠の珠口から胚嚢に達し、受精が起る。受精さえ終われば、次は健全な種子をつくることに専念しなければならない。「花が散る」とは、花全体が散るわけではなく、花びらが散るのである。花びらは虫をさそうのに必要であったが、受精が終わってもまだ虫がやってくるのでは、花にとって迷惑であり、花びらはもはや不要である。花びらに行く栄養分だって、胚の成長に使う方が経済的だ。花びらが散るということは、桜にしてみれば、別離ではなく、むしろ出発の象徴である。やがて桜の木は葉に覆われて目にあざやかな新緑がやってくる。別離を表出するよりも、桜吹雪の中に桜の生命の輝きを伝えるような作品があってもよいという気がする。
(2007.3.6)



「八重咲き」考

被子植物の花は基本的に外側から内側へ、がく (caryx)、花冠 (corolla)、雄ずい(stamen、雄しべともいう)および雌ずい(pistil、雌しべともいう)の順に同心円状に並んでいる。がくと花冠を合わせて花被 (perianth)とよぶ。ユリのようにがくと花冠を区別しにくい花に対しては、花被という語がよく使われる。また多くの場合、がくは数枚のがく片 (sepal)によって、花冠は数枚の花弁 (petal)によって構成される。また、雌ずいは一枚ないし数枚の心皮 (carpel)によって構成されている。心皮が複数存在するの場合は、隣合う縁が互に癒合して管状になっている場合がほとんどである。マメ科植物のように、心皮が一枚の場合は両側の縁が互いに癒合する。それぞれの花は、花柄(peduncle、花梗ともいう)の先端の花床(receptacle、花托ともいう)という土台に付着している。長さをもつ花床の場合は花軸 (floral axis, rachis)という。

花は被子植物の生殖器官であり、花の目的はいうまでもなく受精して種子をつくり、子孫を繁栄させることである。したがって花にとって最も重要な器官は直接生殖に関わる雄ずいと雌ずいである。花冠はその美しい色やかたちによって昆虫などを誘惑して呼び寄せ、受粉の手助けをさせる器官であり、またがくは主として花がつぼみの間花全体を保護する役目をもつ(ただし、がくの方が花冠より色や形で目立っていて、花弁の代役をつとめるものもある)。すなわち花冠とがくは雄ずいや雌ずいに奉仕する補助的な器官なのである。植物にとって好ましいことではないが、人はこの補助的器官の方に専ら関心をもつ。そして人は、お気に入りの補助的器官をもつ野生の植物を身辺で栽培し始める。

花卉栽培の起原は塚本洋太郎博士の記述(花卉汎論第6版 養賢堂 1959)を引用すると次のようである:花卉の栽培の歴史は古代エジプトにまで遡ることができ、スイセンやバラが栽培されていたといわれ、バラはのちのギリシャにもたらされた。ギリシャの哲学者テオフラストス(Theophrastos BC373頃〜BC287頃)は著書の中で、ギリシャで栽培された植物としてバラ、ダイアンサス、スミレ、スイセン、アイリスをあげている。さらにローマ時代にはこれらのほか、ユリ、シラー、クロッカス、ストック、キンギョソウなども栽培されていた。中国ではシャクヤクが紀元前500年頃から、ボタンが紀元後200年頃から薬草として栽培されていたが、花卉の栽培の記録は隋代 (589-616)の文献に現われ、ボタン、シャクヤク、カイドウ、キクなどが栽培されていたと記録されている。わが国での花卉栽培が明らかになっているのは奈良時代で、サクラ、ウメ、ハギ、ヤマブキ、タチバナ、アジサイ、ノイバラ等が栽培されたようである。

こうして見ると、古代の西洋人好みの植物、中国人好みの植物、日本人好みの植物が現代においても変わっていないのがおもしろい。

植物の栽培を始めた人類が次に行うことは、植物を改良することである。求める変化の対象は、わずかな例外(がく、葉など)を除いて、もっぱら花冠に向けられている。「青いバラ」をつくりたいというのも、花に対する欲望の典型的な表れであろう。また、花冠は大きいほど見栄えがするし、花冠を構成する花弁は一重より八重のほうが豪華に見える。

八重咲きの花は、生殖能力が低いかまたは欠如しているため、野生種には極めて少ないが、園芸品種には多い。八重咲きは通常花の形成に関与する何らかの遺伝子の突然変異によって生じると考えられる。「ゲーテの植物学」で述べたように、がく片も花弁も雄ずいも心皮も基本的には葉と相同の原基から生じる。したがって、これらの花器官を総称して花葉 (floral leaf)とよび、生殖器官を有する雄ずいと心皮を実花葉 (fertile floral leaf)、生殖と直接関係しない花弁とがく片を裸花葉 (sterile floral leaf)とよぶ。花弁が葉状の器官に変わったり、雄ずいが花弁状の器官に変わったりすることは珍しいことではない。八重咲きは多くの場合、雄ずいが花弁に変化した突然変異である。八重咲きのサクラには、雄ずいのみでなく、雌ずいも花弁に転換しているものもある。八重咲きは、植物自身の望む形質では決してないが、花卉を愛する人々が望む形質であるから、どんな遺伝子が突然変異を起こすと八重の花を生じるのかということは、専門の研究者ならずとも、興味のあることではないかと思う。

花の形成に関する遺伝学研究は、シロイヌナズナ(Arabidopsis thaliana (L.) Heynh.)を実験材料にすることによって、急速に進展した。カリフォルニア工科大学のMeyerowitz教授のグループによって1991年に提唱された花形成に関するABCモデルは、近頃では、一般の人々にも知られるようになった。シロイヌナズナの花は4枚のがく片、4枚の花弁、6本の雄ずい、2枚の心皮(互いに合着して1つの雌ずいを構成する)からなる。ABCモデルによれば、がく片はA遺伝子、花弁はA遺伝子とB遺伝子、雄ずいはB遺伝子とC遺伝子、心皮はC遺伝子が働くことによって形成される。(Aはがく片、ABは花弁、BCは雄ずい、Cは心皮と、簡単に憶えられる)。非常にすっきりしたモデルである。このモデルは、上に述べた花の4つの器官のいずれかが異常な突然変異体の遺伝分析によって導かれたものである。シロイヌナズナの場合、A遺伝子にはAPETALA2 (AP2)、B遺伝子にはAPETALA3 (AP3)とPISTILLATA (PI)、C遺伝子にはAGAMOUS (AG)という遺伝子が相当する。これらのうち、C遺伝子であるAGAMOUSに突然変異が起ってその機能が失われると、本来は6本の雄ずいの場所に6枚の花弁を生じる。つまり、C遺伝子が機能を失なうことにより、本来ならここでは活動が抑えられているA遺伝子が活動を始め、B遺伝子と協力して花弁を生じるのである。したがって本来の4枚の花弁と合わせて花弁は10枚になる。また、C遺伝子が機能しないので、心皮はできない。奇妙なことに、心皮が生じるはずの場所に第2の花ができる。第2の花は第1の花と同様に雄ずいをもたず、余分な花弁をもち、心皮のかわりに第3の花をもつ。これが何度も繰返される。このようにして、AGAMOUSの突然変異体の外観は八重咲きである。なお、AGAMOUSをはじめ、ABCモデルに関係する遺伝子は分子構造が明らかになっており、それらの機能や他の遺伝子との相互作用もかなり明らかになっている。(ABCモデルは現在では、花分裂組織決定因子や花器官決定因子の分子的研究が進んだ結果、カルテットモデルという形に進化している。このモデルは、葉原基を花原基に変え、また4つの花器官の決定にも必要なSEPALLATA (SEP)遺伝子群 (SEP1、2、3、4)の発見と詳細なタンパク質相互作用の解析から導かれた。このモデルにおいては、がく片決定にAPETALA1(AP1)・SEP、花弁決定にAP1・AP3・PI・SEP、雄ずい決定にAP3・PI・AG・SEP、心皮決定にAG・SEPの遺伝子間相互作用[厳密にいえば、遺伝子産物であるタンパク質間の相互作用]を必要とする [Dittaら、2004])。

他の植物の八重咲きも、AGAMOUSに相当する遺伝子の突然変異が原因である場合が当然あると考えられる。シロイヌナズナでは、AGAMOUSの突然変異体は、一つの花の中心に新たな花を生じるが、他の種では、AGAMOUSに相当する遺伝子の変異が心皮に相当する部分の表現に及ぼす影響はシロイヌナズナと同様であるとは限らないであろう。また、AGAMOUS以外にも、変異によって八重咲きを生じるような遺伝子が存在するかもしれない。今後の研究の発展が待たれる。一方では、花の研究はますます深化し、専門の研究者以外は理解することがますます困難になる。学術誌上の論文を読んで理解することは、現役から離れた私自身にとってもだんだん難しくなってきた。花形成のような興味深い話題については、専門家による分かりやすい解説がネットのような普遍的なメディアを通じて行われることを期待している。

閑話休題、サクラの一重咲きと八重咲きは、花の趣きが随分異なるところがおもしろい。一重のサクラは、ヤマザクラにしてもソメイヨシノにしても、咲き始め、満開、花吹雪のどの状態をみても、その情景や花の移り行く様はシャープな切れ味がある。それは人の心を刺激し、緊張させる。そして人々は花見に集う。八重桜の姿はもっと柔らかい。時期がずれて気候も一層おだやかになり、質感のある花の群がそよ風に揺れ、見る人の心をなごませる。八重桜に対しては、人は敢えて花見に出かけなくてもよい。八重桜はそこにある。私は八重桜の優しさが好きである。

八重の品種は人為的に選ばれ、または改良され、保護されたものであるから、派手なものが多い。とくにバラは園芸の古い歴史をもち、品種改良の極度に進んだ植物であるから、その効果は最も著しい。育種家という芸術家は、花を材料にして、この上なく見事な花を作り上げる。バラの園芸品種はほとんどが八重咲きであることは、育種家が花を多数の華美な花弁で飾り立てる努力をしてきたことに加えて、自然がすべての生物に対して自然淘汰を行うように、鑑賞者の厳しい眼識がいかに豪華な品種を選び、育て上げてきたかを物語る。バラ園を埋め尽くして競い合う色とりどりのバラを見ていると、磨き抜かれた園芸品種の花の外貌は、抽象絵画のように、情愛や欲望をも含めた複雑な人の心を表出しているかのように見えてくる。

花卉の園芸品種の隆盛は時代によって異なる。すばらしい園芸品種が作られ、人に愛されるのは、常に平和な時代である。戦火の中では、人は花を愛する心を失う。あるいは封印する。「散るのは花よ」と歌われるような時代は決してきて欲しくないものである。たとえ園芸品種でもエスケープして野生として生きられる植物が多数ある。しかし、八重咲きの花をもつ植物は有性生殖の機能がないか、極端に低下しており、野外で生き残ることはかなわない。人は人為的に改良した愛する八重咲きの植物を保護しつづける。八重咲きの花が繁栄する時代は人の心が豊かな時代であるとも思える。

(2007.3.30)

消えたマクワウリ

マクワウリはむかしよく食べた思い出のある果実であるが、いまは畑にも八百屋や果物店の店頭にもまったく見かけなくなった。マスクメロンのような強い香りはないものの、甘さでは負けない夏の味覚をもつあの黄色のなつかしい果実はどこに行ってしまったのだろうか。

マクワウリは、マスクメロンを含むメロン (Cucumis melo L.)の変種 (var. makuwa Makino)で、シロウリ (var. conomon Makino)とも近縁である。メロンの原産地については諸説があるらしい。田中正武氏は、食用にできる野生種は、アフリカのニゼル川沿いおよびギニアに自生しているので、それがメロンの祖先種で、以後インド、ペルシャ、南部ソ連、中国に伝播し、独特な型が成立し、マクワ型はインドで成立したと述べている(「栽培植物の起原」NHKブックス)。Mas Yamaguchi氏も、メロンの第一次起源中心地は熱帯および亜熱帯の西アフリカと推定され、二次中心地はイラン、南ロシア、インド、中国東部にかけての地域であるとしている (「世界の野菜」高橋和彦ら訳 養賢堂)。足田輝一氏によれば、東洋系のものはインドが原産と考えられるが、アフリカ原産のものがあるとの説もあり、またソビエトの農学者バビロフは栽培メロンの原産地は近東であるとしている(朝日百科「世界の植物」朝日新聞社)。

広辞苑で「うり」をひくと、「ウリ類、とくにマクワウリの果実」と出ている。マクワウリはたいへん古い時代に日本に渡来し、弥生時代にはすでに栽培されていた(足田輝一 朝日百科)。山上憶良の「うり食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲ほゆ いづくより 来りしものそ もとなかかりて 安眠(やすい)しなさぬ」は万葉集の中の有名な歌であるが、このウリもマクワウリだそうであり、しかしながら、この古いマクワは、のちに中国から渡って来て江戸時代から栽培されるようになった金マクワ、銀マクワとは別品種であるらしい。(香取秀真 万葉植物事典 北隆館)。私がむかし親しんだ黄色いマクワは金マクワ系なのであろう。

私どもが、マクワウリを食べることができたのは、いつ頃までだったのか。東京では、マクワウリはそのままマクワウリとよんでいたが、京都で過ごした大学時代、京都の人達はマッカとよんでいたのを憶えている。北村四郎氏の1974年の記述の中には、今八百屋の店ではマッカはごく少なく・・・とある。また足田輝一氏は、朝日百科 (1976)の中で、いまは栽培の減少とともにマクワの品種も少なくなったと述べている。それより以前、1962年に坂田種苗がマスクメロンとマクワウリの雑種であるプリンスメロンを発表した。これがきっかけとなったものと思われるが、それ以後、八百屋の店頭には、マスクメロンとマクワウリとの雑種品種、あるいはマクワウリ以外のメロン品種が並ぶようになると、マクワウリは次第に姿を消して行った。高いメロンが安いマクワウリにとって替わったのは、バブル経済の所産だったのかもしれない。

マクワウリのように、太古からの歴史をもつ果菜や果物が近代に姿を消してしまったという例は非常に珍しいのではないかと思う。しかも、ウリとはマクワウリのことであった時代もあったほど、マクワウリは伝統的な果菜だったのである。同じウリ科の果菜でいえば、伝統的な日本カボチャも、シロウリもトウガンも、ずっと作り続けられているのに、マクワウリのみが消え去ってしまったことは実に残念である。気にならないほどいつもそのへんにある果菜だったが、知らない間になくなってしまっていたという感じである。
(2007.4.8)



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