春風馬堤曲とタンポポ

六十二歳の与謝蕪村の詩「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」は、淀川の毛馬の堤を舞台に、たまたま出会って同行することになった薮入りで帰郷するまばゆく、なまめかしい若い女への恋情をまじえた、春の情景が広がる郷愁の叙情詩であり、タンポポが現れる場面はこの何気ない物語に見事な効果を呼んでいる。

春風馬堤曲の序詞は漢文で書かれている。漢文は横書きでは返り点・送り仮名をつけられない。乱暴だが、漢文は和文よみで書くことにする。(漢文)「余一日耆老を故園に問ふ。澱水を渡り馬堤を過ぐ。偶(たまたま)女の郷に帰省する者に逢う。先後して行くこと数里。相顧みて語る。容姿嬋娟(せんけん)。痴情憐れむ可し。因りて歌曲十八首を製し女に代りて意を述ぶ。題して春風馬堤曲という」。淀川を渡って毛馬の堤で、薮入りで帰省する魅惑的な娘と同行することになる。そこで娘に代って娘の心情を述べるというのである。

娘の心情といっても、実際は蕪村の心情である。ところどころ、自分自身が全面に登場している。十八首は「やぶ入や浪花を出て長柄川」で始まり、「春風や堤長うして家遠し」と続く。やぶ入りとは、住み込みで働く奉公人が休暇をもらって実家に帰る日をいい、年二回の一月十六日と七月十六日である。この娘のやぶ入りは一月の方であるが、旧暦一月十六日は新暦の二月中旬で、季節としては早すぎる感がある。春風馬堤曲は実際にあった情景を詩にしたものではなく、毛馬村を生れ故郷とする蕪村の郷愁によって作られた虚構とされているので、やぶ入りの心情を残して、日付けにはとらわれず、春ののびやかな風景を背景に読んでゆけばいいのだと思う。家は遠いのだけれども、第二首には日の長い春を楽しみながらゆっくり行こうよと詠まれているようだ。

春風馬堤曲は、映画のように視覚的に進んで行く。そして主役のヒロインを演じる娘の脇役にいろいろな植物が配されている。(漢文)「堤より下りて芳草を摘む 荊(けい)と棘(きょく)と路を塞ぐ 荊棘何ぞ妬情(とじょう)なる 裙(くん)を裂き且つ股(こ)を傷つく」。堤を降りて香草をつもうとする。茨はなんてやきもちやきなんだろう。邪魔をして裾をやぶいて股を傷つけた。水辺にノイバラが生い茂っている風景は今に変わりない。かなり無茶な娘で、そんなところが蕪村には可愛いくてたまらないのだろう。(漢文)「渓流石点々 石を踏んで香芹(こうきん)を撮る 多謝す水上の石 儂(われ)をして裙を沾(ぬ)らさ不ら教む。」と、水面に石面をのぞかせている石を渡りながら川に入って芹とりを続けている。

映像は一転し、「一軒の茶見世の柳老にけり」。柳に蕪村自身の姿を見たのだろう。一方娘の方は、(和文)「茶店の老婆儂を見て慇懃に 無恙(ぶよう)を賀し且(かつ)儂が春衣を美(ほむ)」と大喜びである。(漢文)「店中二客有り 能く港南の語を緡解す 酒銭三緡(さんびん)を擲(なげう)ち 我を迎へ榻を譲って去る」。浪花言葉で喋る粋な二客が酒銭三さしを置いて去り、席を譲ってくれた。

映像がまた一転する。(和文)「古駅三両家猫児(べうじ)妻呼(よぶ)妻きたらず」。(漢文)「雛を呼ぶ籬外(りがい)の鶏 籬外草地に満つ 雛飛びて籬(かき)を越えんと欲す 籬高くして堕つること三四」。昔の宿場だったさびれた処に家が二三軒たっている。牡猫が牝猫を呼んでいるが牝猫はやってこない。垣の外の鶏が垣の内の雛を呼んでいる。外には草が沢山あるから。雛は垣を越えようと必死に跳びあがるが落ちるばかり。田舎の平和な風景である。

映像は三叉路を写す。(和文)「春艸路三叉(しゅんそうろ)中に捷路(しょうろ)あり我を迎う」。近道がわたしを迎えてくれる。そして故郷のなじみの道に嬉しくもタンポポが登場する。(和文)「たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に三々は白し記得す去年この路よりす」。私はここに詩のクライマックスを見る。

タンポポはどこにでもあるけれど、ここのタンポポは娘にとって、いや蕪村にとってとりわけなつかしい。タンポポは太陽の子供のような楽しげな暖かい花である。娘は白と黄色のタンポポが三々五々に咲くここから出発し、ここに帰ってきたのである。

(和文)「憐みとる蒲公(タンポポ)茎短くして乳をあませり」。懐かしさのあまりタンポポを摘んでみる。「茎短くして」「乳をあませり」(「あませり」は原文では漢字が当てられているが、私のパソコンではその字が使えないのでひらがなにした)はいろいろ解釈がなされているようだが、私はその情景をそのまま感じ取りたい。実際、春先のタンポポ、特に黄花の方は花の柄が短く、地面に近く咲き、摘み取ると乳液が豊富に滲み出してくる。蕪村の観察の鋭さには感心させられる。

(以下和文)「むかしむかししきりに思う慈母の恩」「慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり」「春あり成長して浪花にあり」「梅は白し浪花橋辺(ろうかきょうへん)財種主の家」「春情まなび得たり浪花風流(ふり)」「郷(ごう)に辞し弟に負(そむ)く身三春」「本をわすれ末を取(とる)接木の梅」。この部分は、浪花で洗練され成長した娘の心情と多少の悔恨の情を含めて、娘の心と蕪村の心とが二重唱のように交響しあう美しい場面である。そしてこの美しい詩は、終結に向かう。

(以下和文)「故郷春深し行々て又行々」「楊柳長堤道漸くくだれり」。蕪村はまたそこにもう一つのクライマックスを用意する。(以下和文)「矯首はじめて見る故園の家黄昏」「戸による白髪の人弟を抱き我を待つ春又春」。そして詩は暖かく余韻を残して終わる。(漢文・和文)「君不見(きみみずや)古人太祇が句 薮入の寝るやひとりの親の側」。

三々五々と咲いていた毛馬村のタンポポはシロバナタンポポ (Taraxacum albidum Dahlst.) とカンサイタンポポ (T. japonicum Koidzumi) であろう。カンサイタンポポは花が比較的小さく、可愛いタンポポであり、関西にみられる在来の黄花のタンポポはほとんどこれである。セイヨウタンポポ (T. officinale Weber) が日本に入ったのは明治以降である。セイヨウタンポポは、四季を問わず花を咲かせ、単為生殖によってどんどん増える。セイヨウタンポポは見るからにたくましく、在来のタンポポを圧倒しつつある。(シロバナタンポポも単為生殖によって結構がんばってはいるが。)セイヨウタンポポの席巻によって、在来のタンポポが咲く日本の春の原風景は随分変えられてしまったように思う。蕪村と艶やかで可憐な娘が見たような春の風景はわれわれの古い記憶からもしだいに失われて行くのであろう。

参考文献:
安東次男 与謝蕪村 講談社学術文庫 1991 講談社
芳賀 徹 与謝蕪村の小さな世界 中公文庫 1988 中央公論社
萩原朔太郎 郷愁の詩人与謝蕪村 新潮文庫 1951 新潮社

(2007.4.18)



青いバラの夢

上野の国立科学博物館の特別展「花 Flower」(2007年3月24日〜6月17日)を見に行った。「太古の花から青いばらまで」と副題のついた展覧会であったが、やはり最も見たかったのは、サントリーとオーストラリアのフロリジン社が共同で、遺伝子組換え技術を用いて開発した「青いバラ」であった。青いバラは商品化される前に「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律」に基づく安全性評価と一般の栽培のための承認が必要であり、したがって透明な箱の中に隔離された状態で展示されていた。

説明によると、従来のバラには、青色色素であるデルフィニジンが存在しないが、パンジーから取出したデルフィニジン合成に必要な酵素の遺伝子をバラに導入することによって、青いバラを作ることに成功したとある。デルフィニジンはアントシアニジンの一つである。バラの花弁が赤やピンクに発色しているのは、細胞の液胞の中に蓄積しているアントシアニジンと糖との結合体、すなわちアントシアニンである。バラは、朱色に近い赤を発色するペラルゴニジンと、赤ないし紫に発色するシアニジンという2種のアントシアニジンを合成する能力をもつ。しかし、フラボノイド-3', 5'-水酸化酵素 (F3'5'H) という酵素が欠如しているために、青を発色するデルフィニジンを合成できない。したがって、他の、青い花を咲かせる植物からF3'5'Hを合成させる遺伝子を取出してバラに導入し、花弁でこの遺伝子を発現させれば、青い花ができるかも知れないという発想であったようだ。このプロジェクトはサントリーとフロリジン社との共同で1990年に開始されたが、これが成功し、発表されるまで14年の歳月が必要であったという。(以上、特別展「花 Flower」展覧会図録およびサントリーホームページ参照)。

もちろん、発表の何年か前には青いバラはできていたのだと思うが、それにしてもこのプロジェクトは、すでに青いカーネーション作出の経験があったとはいえ、バラであるがゆえに、多くの試験と、非常に大変な労力を必要としたに違いない。ペチュニアをはじめ、いくつかの植物から取出した F3'5'H の遺伝子は、バラの花弁を青くしなかったという。パンジーの F3'5'H 遺伝子がうまく働いたということは、むしろ驚くべきことであったのかも知れない。花弁でこの遺伝子を発現させることも多くの工夫が必要だったのであろう。細胞への遺伝子の導入は、バラの葉の細胞から増殖させた細胞の塊に遺伝子を導入したと説明されている。1977年にChiltonらの根頭癌腫病菌の研究で、この菌が植物の根頭に瘤を作らせる仕組みを報告してから、この菌を使った遺伝子導入法の開発は急激に進み、1980年代の前半には、実用的な遺伝子導入の方法が確立していた。その後この方法以外にも、粒子銃という装置を使って、遺伝子を細胞に直接撃ち込む方法も確立している。いずれの方法によるにせよ、細胞に遺伝子を導入することは、現在はほとんどの植物で可能である。しかし、F3'5'Hの遺伝子を他の植物から単離することは、おそらくかなり大変であったに違いない。また、遺伝子を導入した細胞から、植物を再生させることは、植物種によって、難易の差が著しい。バラではどうだったのであろうか。いろいろと克服すべき問題があったであろう。しかし、「青いバラ」なら、市場に出して、十分に採算がとれるという企業内での目算があって、それが刺激となり、またプレッシャーになって、仕事が進んだ結果の成果であったことは間違いないであろう。では、青いバラは、そんなに待望されていたのであろうか。

そのことを知るのに好適な本がある。最相葉月さんのノンフィクション作品「青いバラ」(小学館 2001、文庫版 新潮文庫 2004)である。多くの資料と取材に基づいた大作である。この膨大な資材を無駄なく立体的に構成し、繊細な筆致で読者を引きつける最相さんの力量には驚嘆する。青いバラは、西欧文化の中ではありえないものを意味し、不吉な死のイメージ(ギリシャ神話)、愛・理想・幸福のイメージ(千一夜物語、西欧のロマン派文学)、もっと複雑な不安定な精神状態のイメージ(テネシー・ウィリアムス「ガラスの動物園」など近代の芸術作品)など、ありえない青いバラに抱く人のイメージは、基本的なテーマとして、この作品の随所に現れる。そして青いバラを作り出そうとする育種家の執念と努力、またあきらめまでもが感動的である。青いバラが作品の基本的なテーマになっているけれども、バラをめぐる世界史、日本史、バラへの人々の愛情と執着、園芸家・育種家の情熱と努力、文化・経済・社会への影響等、余すところなく書き出されている。さらに、青いバラを作り出すことになったバイオテクノロジーのことについてもかなり詳しく、正確に伝えられている。冒頭の、バラの育種における第一人者鈴木省三氏の言葉を借りた「青いバラができたとして、それが美しいと思うか」という疑問がこの作品の根底にあるように思う。ただし、この作品は、加筆されている文庫版の方も、サントリーとフロリジンによる青いバラ完成の発表以前に刊行されたものであり、当然、青いバラは美しいかどうかの答えはない。つまり完結しないところで終わっているのだが、このことは、読者自身にこの作品を完結させる意味で、効果的であるように思う。その完結の仕方は読者によっていろいろであろう。これがはからずも、このノンフィクションのおもしろさにもなっている。

さて、青いバラを見た感想であるが、私は率直に美しいと思った。人口照明の下で、切花を見たかぎり、紫がかった青のバラは落ち着いた色調だった。見る前は、パンジーから借りてきた遺伝子をもつ青いバラは、なにかちぐはぐな印象を与えるのではないかと思っていたが、バラはこの色をごく当たり前の色のように装っている感じであった。このバラは、もちろん沢山の組換え体から選抜された優秀な系統だろうが、それにしても、この色調との調和は、バラ本来の気品のなせる技なのであろう。考えてみると、青いバラが今までなかったのは、青色色素デルフィニジンがなかったというよりも、バラはF3'5'Hという酵素を欠いていただけなのである。バラがもっている二つのアントシアニジンであるペラールゴニジンとシアニジンの前駆体、ジヒドロケンフェロールは、デルフィニジンの前駆体でもある。だから、F3'5'Hさえあれば、ジヒドロケンフェロールからデルフィニジンへの経路は、同物質からペラールゴニジンとシアニジンの合成のための共通の酵素によって進むだけなのである。こう考えると、チルトンらが1977年に根頭癌腫病菌が自らのDNAを植物のDNAの中に送り込むという原理を発見したとき、何年か、何十年先かに、「青いバラ」なるものが必ずや誰かの手で作り出されることが約束されたように思える。青いバラの夢とあこがれ、その実現を目指してきた園芸家、育種家の情熱と努力、またバイオテクノロジスト達の労力を思うと、こんなことを簡単に考えるのは不遜であるかも知れない。しかし、兎も角も、ギリシャ神話以来の「青いバラの夢」が終わったという劇的な感覚は全くなかった。

この青いバラは、デルフィニジンの花弁での濃度を最大限上げるため、シアニジンの蓄積を極力抑えるような遺伝子操作もしているという。私には少し意外な色であったが、優雅で上品な青紫であった。ブーケ、フラワーアレンジメントや花壇では、おそらく他の花と調和して、その美しさや品格を示すと思う。しかし、これが夢の中にあった青いバラなのだろうか。前述のように、青いバラは、歴史的には、不吉の死のイメージであったり、愛と幸福のイメージであったり、近代の不安定な精神状態のイメージであったりした。われわれは、いろいろな色調の青をひっくるめて青と言ってしまう。人々が青いバラを口にするとき、それぞれ異なる青を脳裏に画いているのではないか。おそらく現代においても、不幸な青、愛と幸福の青、不安な気分の青を青いバラにイメージする人がいるであろう。しかしながら、そういうイメージは、実際に作られ、商品となった青バラの品種に感じられるかどうか疑問である。私自身には、これこそ青いバラだという理想のイメージがはっきりしない。それにもかかわらず、青いバラへのあこがれはある。「青いバラ」はまだ夢の中にあるような気がする。
(2007.5.12)



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