縄文時代の幕開けのころは、氷河時代の寒さが尾をひいていた。東京湾の海岸線は、現在の江戸川河口から約四キロメートルも沖合にあり、瀬戸内海はまだ湖であった。その後海面は次第に上昇を統け、早期中ごろには現在の海岸線に近くなり、さらに海水は内陸部に向かって侵入し、前期初頭には東京湾の海岸線は約50キロメートルも入りこんだのである。埼玉県大宮市の北の奥地や栃木県藤岡市などにある貝塚は、その当時のこされたものである。平均気温も2度以上は高かったと考えられる。しかし、前期後半からは気候は逆戻りを始めて海は後退し、晩期ごろにはほぼ現在の日本地図の姿に近づいたのである。日本列島は、中部山岳地帯の西縁付近を境にして、西の照葉樹林帯にはドングリ、シイ、カシなどが多く、東の落葉広葉樹林帯では、豊富なクリやクルミに恵まれていながら、さらに東日本の各河川にサケ、マスが群れをなして溯上した。こうした東西日本の動植物相の際立った差異は、縄文人の生活に影響を与え、土器様式や石器の種類などにも大きな違いをみせている。現代日本の東西文化や生活、風俗および気質の遠いは、すでに縄文時代に始まるものかもしれない。縄文人にとっては、東日本の方が食料資源などに恵まれていたためか、のこされた遺跡は多く、人口も多かったと考えられる。東日本の縄文人口は、近世の北海道アイヌの人口などに匹敵するものとして、約10万人くらいで、西日本はその半分、合計15万人程度と見積もることができるかもしれない。縄文人の活動舞台は、北の千島列島や礼文島から南の沖縄本島にいたるまでほとんど日本列島全土に及び、縄文文化の文物が運びこまれている。早くから優れた航海術を身につけており、すでに縄文文化最初頭の草創期に、沖縄本島まで到達していた可能牲がある。すなわち、最近における読谷村渡具知東原遣跡の発掘で、前期の曽畑様式の土器の下層からさらに三枚の文化層の存在が確認され、その最下層は草創期の爪形文系土器様式に極めて近い顔付きの土器を含んでいた。そして、その包含層が海面下に位置することから、現在より海面水準の低下していた後氷期直後に相当する時期にのこされた遺跡であることを裏付けているのである。また伊豆七島では、少なくとも早期中葉の押型文系土器様式が出土しており、特に早期後半以降は伊豆方面との繁密な連絡が維持されていたようである。しかし、最南端の八丈島への往来は活発でなく、湯浜遣跡にみるごとく、装飾的な文様を施さない素文の厚手土器と独特な形態の打製石斧(トランシェ)をもつ文化がある。ただ、石器の材科として神津島産の黒曜石がもちこまれているので、縄文文化との連絡はあったものと考えられる。なお、円のみ形の石斧もまた縄文文化にはないもので、北硫黄島発見の円のみなどとともに、縄文世界の外からの将来品かもしれない。日本列島と大陸をさえぎる宗谷海峡および朝鮮海峡の渡航に関しては、縄文人はほとんど関心を示さなかった。しかし、大陸側の文化との交渉が全くなかったわけではない。例えぱ、北海道の早期、石刃鏃や擦切磨製石斧などに代表される、いわゆる石刃鏃文化は、刺突文土器を携えて一時的に道東部を席巻するが、たちまち縄文文化のなかに埋没してしまう。また、九州の曽畑様式は、丸底形態で太い沈線によって文様が描かれるが、土器の胎土に雲母を混ぜる手法にいたるまで原郷土の朝鮮半島櫛目文土器と共通する。しかし、この独待な様式も後続のないまま縄文文化のなかに吸収され、原形を失うのである。こうした彼我の交流の低調な事情は、特に言葉の障害などによるのではなかろうか。ちなみに言語年代学上の見積りもすでに縄文時代には日本語の祖語の形成されていたことを示している。
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