鎌倉幕府をほろぼし、室町幕府をつくった将軍 足利尊氏 (あしかが たかうじ) |
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● 活やくした時代 1305年〜1358年 鎌倉〜室町時代 ● 活やくしたこと 1305年 鎌倉幕府(かまくらばくふ)の有力な御家人(ごけにん)の足利貞氏(あしかが さだうじ) の子として生まれる。 もともと、足利氏は源氏(げんじ)の子孫である。鎌倉幕府内でも北条氏(ほうじょうし)に 次ぐ勢力をもつ。 1331年 鎌倉幕府の将として、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の倒幕軍(とうばくぐん)を うちやぶる。 1333年 再び倒幕軍を起こした後醍醐天皇をうつために、鎌倉幕府の将として向かうが、 とちゅうで鎌倉幕府を見捨て倒幕軍につく。 足利尊氏が倒幕軍についたため、多くの武士が倒幕軍につく。 1333年 倒幕軍の新田義貞(にった よしさだ)が鎌倉幕府と北条氏をほろぼす。 後醍醐天皇中心の建武の新政(けんむのしんせい)がはじまる。 足利尊氏が鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)になる。 天皇・貴族中心の政治に武士の不満が高まる。 1335年 鎌倉で北条氏の生き残りが反乱を起こす。 後醍醐天皇に無断で鎌倉へ向かい、北条氏の生き残りの反乱軍をやぶる。 後醍醐天皇の命令を聞かなかったため、反逆者(はんぎゃくしゃ)とされる。 足利尊氏は鎌倉で武士を集め、大勢力となる。 1336年 後醍醐天皇をうつために、京都に攻めこむ。 ↓ 初めは連戦連勝であったが、背後を後醍醐天皇軍につかれ敗れさり、九州へにげる。 ↓ 後醍醐天皇と対立していた光明天皇(こうみょうてんのう)をたてる。(北朝)(ほくちょう) ↓ 九州で武士を集め、大勢力となって、ふたたび、京都に攻めこむ。 ↓ 京都を占領し、後醍醐天皇を比叡山(ひえいざん)へ追いやる。(南朝)(なんちょう) 光明天皇(北朝)と後醍醐天皇(南朝)の60年にわたるあらそいがはじまる。 1338年 北朝の光明天皇から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、室町幕府 (むろまちばくふ)をひらく。 1350年 弟の足利直義(あしかが ただよし)と意見が対立し、争いが起こる。 1352年 南朝についた弟の足利直義を毒殺する。 1358年 死 去(54才) ● 人 物 評 足利尊氏は、逆賊(ぎゃくぞく)(天皇に反乱を起こした人物)として、あまりいいように言われない。しかし、新しい世の中をつくるために理想に燃えた人物なのかもしれない。鎌倉幕府をほろぼすまでは、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)とともに戦っているのが、そのしょうこである。ただ、後醍醐天皇がめざした理想と足利尊氏がめざした理想が違っていたのではないだろうか。武士中心の世の中になっていたこの時代に、後醍醐天皇の理想はあまりに時代にあっていなかったのであろう。足利尊氏の功績は、反逆者(はんぎゃくしゃ)とよばれながらも、時代にあった政府をつくったことであろう。 |