藤原氏が最も栄えた時代を作った摂政

 藤原道長 (ふじわらの みちなが)  
● 活やくした時代   966年〜1027年
                平安時代

● 活やくしたこと

   966年 藤原兼家(ふじわらの かねいえ)の5男として生まれる。

   995年 都で伝染病が流行し、兄たちがあいつでなくなる。

   987年 左大臣の源雅信(みなもとの まさのぶ)の娘 倫子(りんし)と結婚する。

   995年 右大臣になる。
         藤原伊周(ふじわらの これちか)とあらそう。
         藤原伊周(ふじわらの これちか)が藤原道長にやぶれる。
                 ↓
   996年 藤原伊周(ふじわらの これちか)がやぶれ、太宰府(だざいふ)に流される。

  
1000年 藤原道長の娘の彰子(しょうし)が一条天皇の中宮(ちゅうぐう 天皇の妻)になる。

  1008年 彰子(しょうし)が一条天皇の皇子 敦成親王(あつひらしんのう)を生む。

  1012年 藤原道長の娘のけん子が三条天皇の皇后(こうごう 天皇の正式な妻)になる。

  1016年 敦成親王(あつひらしんのう)が後一条天皇になる。
         藤原道長が
摂政(せっしょう)になる。
            
自分の娘を天皇の妻にし、天皇家と親戚関係になって、権力をにぎる。

  1017年 摂政を藤原道長の長男の藤原頼通(ふじわらの よりみち)にゆずる。
         太政大臣(だいじょうだいじん)になる。

  1018年 藤原道長の娘の威子(いし)が後一条天皇の中宮(ちゅうぐう)になる。
         
           【藤原道長の和歌】

              この世をば  わが世とぞ思ふ  望月の
                        かけたることも  なしと思へば

              ( 意味 ) 
                この世は私のためにあるようなものだ。満月がかけないように
                私の思うようにならないことは一つもない。
         

  1019年 藤原道長が出家する。

  1027年 病死する。(62才)


● 人 物 評

 藤原道長(ふじわらの みちなが)は、藤原鎌足(ふじわらの かまたり  中臣鎌足)にはじまる藤原氏の権力にはなやかな花をさかせた人物である。この藤原道長の時代に平安時代のはなやかな貴族文化は最高潮をむかえることになる。紫式部(むらさきしきぶ)の書いた源氏物語(げんじものがたり)の主人公の光源氏(ひかるげんじ)は藤原道長をモデルにしていると言われる。だが、満ちた満月もいつかは欠けて半月、三日月、やがては新月(夜に月が見えなくなる)になる。今、藤原氏が最も栄えていると言うことは、後は月が欠けるようにおとろえていくしかない。現に藤原道長の以降、藤原氏の権力はおとろえていくことになる。藤原氏どうしの権力あらそいを通して、武士の平氏(へいし)や源氏(げんじ)によって権力をうばわれていくことになる。
藤原道長は得意になって望月の和歌をよんだのであろうが、それは藤原氏のおとろえがせまっていることをよんだことにもなる。皮肉なものだ。


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