瀬戸内海で反乱をおこした海賊(かいぞく) 藤原純友 (ふじわらのすみとも) |
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● 活やくした時代 9世紀末?〜941年 平安時代 ● 活やくしたこと 9世紀? 太宰少弐(だざいのしょうに 太宰府の次官)の藤原良範(ふじわらのよしのり)の 子として生まれる? (伊予の豪族(ごうぞく)の高橋家に生まれ、藤原良範(ふじわらのよしのり)の養子に なったという説もある。) 931年? 藤原純友が伊予掾(いよのじょう)になる。 【伊予掾(いよのじょう)とは】 このころ、地方国は守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(もく)という 順番で地方役人がいた。伊予掾(いよのじょう)は伊予国の地方役人の 上から3番目の役人ということになる。主な役目は伊予国の治安を守る ことであり、このころから、藤原純友は海賊(かいぞく)との関係を深めて いたらしい。 933年 朝廷が海賊(かいぞく)をとりしまる警固使(けいごし)を置く。 934年 藤原純友が伊予掾(いよのじょう)の任期が終わっても京都に帰らず、 伊予国(いよのくに 愛媛県)の三津に屋敷をかまえる。 ↓ 海賊とのつながりを利用して、朝廷の貯蔵米(ちょぞうまい)を奪うようになる。 ↓ 朝廷が海賊追捕使(かいぞくついぶし)を定める。 ↓ 936年 紀叔人(きのよしと)を伊予守(いよのかみ)に任命する。 ↓ 藤原純友が海賊(かいぞく)の首領になる。 【東西の反乱】 このころ、東国では、平将門(たいらのまさかど)が朝廷に対して反乱を 起こしていた。朝廷は、藤原純友を抑えるために従5位下(じゅごいのげ) という官職を与え、反乱を思いとどまらせようとしている。従5位下(じゅごい のげ)は伊予守(いよのかみ 伊予国の最高地方役人)と同じ位である。 しかし、藤原純友は平将門と日本を二分して支配できるかもしれないと考え 反乱を続けたとされる。平将門と藤原純友が打ち合わせて反乱を起こした わけではないが、お互いの反乱はそれぞれを勇気づけたと考えられる。 940年 藤原純友が讃岐(さぬき 香川県)の国府を襲い、その財産を奪う。 ↓ 阿波(あわ 徳島県)、備前(びぜん 岡山県)、備後(びんご 広島県)なども襲い、 瀬戸内海を支配下に治める。 ↓ 小野好古(おののよしふる)が征西大将軍(せいせいたいしょうぐん)に任命され、 藤原純友を捕らえるために出陣する。 ↓ 東国の平将門(たいらのまさかど)の乱が鎮圧(ちんあつ)され、朝廷が大軍を 西国に送りこめるようになる。。 ↓ 941年 藤原純友が筑前国(ちくぜんのくに 福岡県)を襲い、太宰府(だざいふ)を占領する。 ↓ 朝廷の大軍に敗北し、伊予国(いよのくに 愛媛県)に逃げる。 ↓ 伊予国の警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)に藤原純友が捕らえられ、 首を切られる。(49才) ● 人 物 評 このころ、時代は藤原氏の全盛(ぜんせい)の時代になりつつあった。藤原氏の以外の貴族は、地方国の「守(かみ 地方国の最高地方役人)」になれれば良い方であった。藤原の姓をもつ者でも、全員が高位につけるわけではなかった。高位につける者は藤原氏の中でもほんの一部で、多くの者は地方の役人で満足しなければならない状況であった。藤原純友も藤原氏であるが、地方役人以上の地位を望めるわけではなかった。藤原純友は同じ藤原氏であっても、その地位に差があることに不満を持ち、あるいは一発逆転を望んでいたのかもしれない。 |