天皇中心の政治を再建しようとした天皇 桓武天皇 (かんむてんのう) |
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● 活やくした時代 737年〜806年 奈良〜平安時代 ● 活やくしたこと 737年 白壁王(しらかべおう 後の光仁天皇)の皇子として生まれる。 770年 父の白壁王が光仁天皇(こうにんてんのう)になる。 771年 中務卿(なかつかさきょう)になる。 773年 皇太子になる。 781年 桓武天皇(かんむてんのう)が天皇になる。 弟の早良親王(さわらしんのう)が皇太子になる。 784年 平城京(へいじょうきょう)から長岡京(ながおかきょう 今の京都)に都を移す。 平城京は貴族や寺院の勢力が大きすぎて、天皇中心の政治ができないため 785年 早良親王が皇太子をやめさせられる。 794年 平安京(へいあんきょう 今の京都)に都を移す。 令外の官(りょうげのかん)をおく。・・・蔵人(くらんど)、勘下由使(かげゆし)をおく。 最澄(さいちょう)の天台宗(てんだいしゅう) 空海(くうかい)の真言宗(しんごんしゅう)を保護する。 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)にする 801年 蝦夷(えぞ 東北地方)を朝廷にしたがわせるため、坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)を派遣する。 ↓ 5年後に、蝦夷(えぞ)を平定し支配する。 806年 死 去(70才) ● 人 物 評 桓武天皇(かんむてんのう)は、聖武天皇(しょうむてんのう)やそれ以降の天皇によってくずれた天皇中心の政治を、もう一度、再建しようとした。大仏の建設以降、仏教(寺院)の勢力が大きくなり、道鏡(どうきょう)のように政治に参加し、口を出す者まであらわれた。このような状況の中で、天皇中心の政治を行うためには、平城京(へいじょうきょう)では場所が悪すぎた。平城京には大きな貴族や寺院勢力がありすぎるためである。そのため、それらの勢力から離れるために794年に都を平安京(へいあんきょう)に移すのである。桓武天皇の政治は一時的に天皇中心の政治にもどすことができた。だが、それは一時の光にすぎなかった。時代の流れには逆らえず、これ以後、再び貴族中心の政治へと移っていくのである。桓武天皇の功績は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を蝦夷(えぞ 東北地方)におくり、日本の領土を確立させたことであろう。 |