天皇中心の政治を確立した天皇 中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ) ※ 天智天皇(てんじてんのう)ともいう。 |
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● 活やくした時代 626年〜671年 飛鳥(あすか)時代 ● 活やくしたこと 626年 舒明天皇(じょめいてんのう)の第2皇子として生まれる。 蘇我馬子(そがの うまこ)が死去。 蘇我馬子の子の蘇我蝦夷(そがの えみし)と孫の蘇我入鹿(そがの いるか)が 権力をにぎり、自分勝手な政治を行う。 641年 父の舒明天皇がなくなる。 642年 母が皇極天皇(こうぎょくてんのう)として天皇になる。 645年 大化の改新がおこる。 朝鮮からの使節をむかえる儀式の最中に、中臣鎌足(なかとみの かまたり) とともに蘇我入鹿(そがのいるか)を殺す。 蘇我蝦夷(そがのえみし)はやしきに火をつけ、自害する。 ↓ 蘇我氏(そがし)がほろぶ。 叔父(おじ)の孝徳天皇(こうとくてんのう)が天皇になる。 中大兄皇子は皇太子(こうたいし) (天皇の位を次につく皇子)となる。 改心の詔(かいしんのみことのり)を出す。 @人民と土地はすべて天皇のものである。(公地公民) A全国を国に分け、国司(こくし)をおく。(中央集権) B租・庸・調(そ・よう・ちょう)の税を実行する。 652年 班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)が実行される。 人々に口分田(くぶんでん)を与え、死ぬと国に返させる法律 655年 母が斉明天皇(さいめいてんのう)として再び天皇になる。 (皇極天皇と斉明天皇は同じ人物) 660年 朝鮮の新羅(しらぎ)が百済(くだら)に攻めこむ。 朝鮮の百済(くだら)が救助を求めてくる。 ↓ 661年 百済を助けるため、斉明天皇が九州に向かう。 ↓ 663年 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で日本軍はやぶれる。 百済がほろぶ。 667年 都を大津(おおつ 滋賀県)にうつす。(大津宮 おおつのみや) 668年 中大兄皇子が天智天皇(てんじてんのう)になる。 669年 中臣鎌足(なかとみの かまたり)が死ぬ。 670年 庚午年籍(こうごねんじゃく)(国の人民の帳簿)がつくられる。 671年 近江令(おうみりょう)(国の法律)がつくられる。 死去(46才) 672年 天智天皇のあとつぎをめぐり、壬申の乱(じんしんのらん)がおこる。 天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と子の大友皇子(おおとものおうじ) のあらそい。 ↓ 弟の大海人皇子が勝利し、天武天皇(てんむてんのう)となる。 ● 人 物 評 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の功績は、すべて、「改新の詔(かいしんのみことのり)」の実行にあった。それは、聖徳太子の意志をひきつぎ、天皇中心の政治の確立であった。中大兄皇子のもとで、大和朝廷は天皇中心の中央集権への道を着実に進んでいく。ただ、残念なことは、中大兄皇子(天智天皇)の死後におこった壬申の乱(じんしんのらん)のことである。自分の弟と息子によるあとつぎあらそいである。死後におこったこととはいえ、中大兄皇子にとっては、信じられないような汚点であったことであろう。だが、この壬申の乱(じんしんのらん)に豪族(ごうぞく)がまきこまれ、いっそう豪族の力が弱くなり、天皇の力が強くなることになる。なんとも、皮肉なことである。 |